『さよならドビュッシー』を渋谷ヒューマントラストシネマで見ました。
(1)昨年はドビュッシー生誕150年ということで、ブリジストン美術館に『ドビュッシー 音楽と美術印象派と象徴派のあいだで』展を見に行ったり、同展についてのエントリーの末尾にも書きましたように、この映画の公開を待ち望んでもいました。
物語の主人公は16歳の遥(橋本愛)。同い年のいとこのルシア(相楽樹)と同じ家に暮らしています。
というのも、10年前にルシアの両親は、外国における医療活動に従事すべく、彼女を遥の親にあずけて出国したきり行方不明になってしまったからです。
それでも今や2人は音楽学校に通い、遥はピアニストを目指しています。
としたところ、ある晩、祖父(ミッキー・カーチス)が居住する離れが火事となり、祖父のみならず、離れで暮らしていた2人のうちルシアが火事に巻き込まれて死に、遥も大火傷を負ってしまいます。
遥は四肢に障害は残るものの、九死に一生を得て退院できるまでになり、再びピアノに向かいます。
その背景には、莫大な資産を残して死んだ祖父の遺言がありました。
それによれば、遥には12億円の資産が遺されますが、すべて彼女がピアニストになるために使われるというものでした。
遥は、退院するとリハビリに一生懸命に励み、ピアノを岬洋介(清塚信也)に習って目標を達成しようとします。
ですが、シャンデリアが彼女の上に天井から落ちてきたりするなど、彼女を亡き者にしようとする不穏な動きが見られます。
そればかりか、母親が、教会へ行く階段から落ちて意識不明の重体にもなります。
こうなると、祖父やルシアが死んだあの火事についても疑惑がもたれるようになってきます。
さあ、一連の事件はどのように解決するのでしょうか?
そして、遥のピアニストになるという夢は実現するのでしょうか?
中山七里氏による原作が第8回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作ということで、本作もミステリー物と思っていたところ、謎解きの要素は大したことがなく、専ら主演の橋本愛をプレイアップすることが主たる眼目の作品のように思え、幾分肩透かしを食らった感じながら、ドビュッシーのピアノ曲ばかりかリストの難曲まで聞くことができ、全体としてはまずまずといったところです。
主演の橋本愛は、昨年の『桐島、部活やめるってよ』で注目されたところ、まだ17歳ながら本作でも随分とその存在感を発揮しています(注1)。
注目されるのは、遥のピアノの先生・岬洋介役の清塚信也、彼は本物のピアニストで、本作によって俳優デビューを果たしたとのことです(作中で、リストの「超絶技巧練習曲第4番マゼッパ」を鮮やかに演奏します)。
(2)〔以下では、ミステリー物ではタブーのネタバレ頻出になってしまいますので、ご注意願います〕
本作は、原作と違っている点がいくつかあります。
例えば、遥がコンクールで演奏する曲目について、原作の場合、本選の課題曲がドビュッシーの『月の光』であり、自由選択が『アラベスク第1番』とされているところ、本作ではそれが逆になっています(注2)。
マアそんなことはどちらでもかまわないところ、犯人とされる人物が原作と本作とで違ってしまっており、また原作では、岬洋介の事件解決に果たす役割が大きいのに対し、本作ではその要素はずっと後退しています(注3)。
それに、その点にもかかわりますが、原作では、母親は階段の事故でそのまま死んでしまうところ、本作の場合は、意識不明で発見された母親は、ラストではどうやら意識を取り戻すようなのです(注4)。
さらに、岬洋介に事件への関与を指摘された際の遥の対応は、両者でかなり異なっています(注5)。
また、誰しも思うところでしょうが、本作・原作ともに、遥の大火傷に対しては、かなりの違和感を感じてしまいます(注6)。
でも、そんなあれこれを論ってもあまり意味がないようにも思われます。
本作は、謎解きミステリーというよりも、むしろ、大きな会場でピアノを演奏する橋本愛をビジュアル的にプレイアップするための映画とみなすべきであって、原作に加えられた様々の改変も、橋本愛のイメージアップにつながるように配慮された結果だと考えられ、そうであれば映像自体をまず楽しんだ方が得策なのではないかと思われます。
(3)渡まち子氏は、「ミステリー映画としては弱いのだが、全編に美しい音が流れる音楽映画としてみればなかなか楽しめる」として50点をつけています。
(注1)なんだか、『のだめカンタービレ』でピアノを弾く上野樹里―『スウィングガールズ』の時は橋本愛と同年齢くらいだったでしょう―を思い出します!
(注2)本作の場合、ある晩、自分の名前の由来〔ラテン語の「光」(lux)〕から、ルシアは遥に対して、ピアニストになったら『月の光』を演奏会で演奏してくれと強く要望します(本作のルシアは、両親がいないという自分の境遇から、ピアニストにはならずに看護学校に行くつもりだと言います)。
この点について、岬洋介役の清塚信也は、「原作にはなかったけれど、遥があの曲にこだわる理由を編み出したことで、必然性が生まれ、またピアノを知る人にも納得してもらえたと思います」と述べているところからすると、ルシアの話は清塚信也のアイデアのようです。
ルシアの話だけからすれば、ベートヴェンの『月光ソナタ』でも構わないようにも思えますが、余りまぜっかえさないようにしましょう。
(注3)本作では、一連の事件についての主犯(祖父たちが死んだ離れの火事)が加納弁護士で、介護士のみち子(熊谷真実)が共犯(シャンデリアの落下など)とされています。そして、それを調べ上げたのは刑事とされ、岬洋介は、事前にそのことを耳にして遥に伝えたにすぎません。
ところが、原作の場合、岬洋介が遥に対して、「お母さんを殺したのは君だ」と断定するのです(宝島社文庫P.391)。
(注4)「お母さんが手を握り返した」との連絡が遥の元に届きます。従って、原作と違って、本作の場合、母親についての殺人事件は起こらなかったことになります。そのためもあってでしょう、本作の場合、祖父とルシアの死に対して疑惑が提起されるのだと思われます(そうしないと、傷害事件しか描かれないことになってしまいますから)。
(注5)原作では、遥は、例えば「出鱈目よ、そんなの!第一、何であたしがお母さんを殺さなきゃならないの!」などと岬洋介に反撃します(P.394)。
これに対して、本作では、遥が自分から岬洋介に、「私、ルシアです。お母さんにあんなことをしたのもあたしです」と言ってしまいます。
本作の場合、遥が「コンクールが終わったら警察に行くつもり」と言うと、岬洋介は「君がお母さんを突き落したわけじゃない。君が思っているほど罪にはならない」と言います(本作の場合は、不起訴扱いにでもなるのでしょうか)。
これに対して、原作の場合、岬洋介は遥に対して「いくらなんでも5年は収容されないだろう」と言い、遥も、「当分はドビュッシーの音楽と遠ざかるのだろう。…でも、いつかまたピアノを弾ける日がきっとくる。…だからその日までしばらくお別れだ。さよなら、ドビューッシー」と思います。
本作の場合、タイトルの「さよなら、ドビュッシー」はどこに根拠を置くのでしょうか?
(注6)これは、昨年見た『私が、生きる肌』でも思ったことですが、表面的な皮膚の移植を巧みに行うことによって、特定の人物の顔を自在に作ることができるのでしょうか?骨格の違いなどによってかなりの制約を受けてしまうのではないでしょうか?法医学における「復顔」とは、頭蓋骨に肉などをつけて行う作業ではないでしょうか(なお、『私が、生きる肌』の場合は、男を女に作り替えるというもう一段階進んだところが描かれています!)?
本作の場合は、遥を演じる橋本愛とルシアに扮する相楽樹の顔の骨格はかなり違うように思われますが、この辺りは小説ならば適当に誤魔化しがきくかもしれないところ、映画にあっては2人の顔が画面に映し出されてしまいますから、問題があからさまになるものと思います。
★★★☆☆
(1)昨年はドビュッシー生誕150年ということで、ブリジストン美術館に『ドビュッシー 音楽と美術印象派と象徴派のあいだで』展を見に行ったり、同展についてのエントリーの末尾にも書きましたように、この映画の公開を待ち望んでもいました。
物語の主人公は16歳の遥(橋本愛)。同い年のいとこのルシア(相楽樹)と同じ家に暮らしています。
というのも、10年前にルシアの両親は、外国における医療活動に従事すべく、彼女を遥の親にあずけて出国したきり行方不明になってしまったからです。
それでも今や2人は音楽学校に通い、遥はピアニストを目指しています。
としたところ、ある晩、祖父(ミッキー・カーチス)が居住する離れが火事となり、祖父のみならず、離れで暮らしていた2人のうちルシアが火事に巻き込まれて死に、遥も大火傷を負ってしまいます。
遥は四肢に障害は残るものの、九死に一生を得て退院できるまでになり、再びピアノに向かいます。
その背景には、莫大な資産を残して死んだ祖父の遺言がありました。
それによれば、遥には12億円の資産が遺されますが、すべて彼女がピアニストになるために使われるというものでした。
遥は、退院するとリハビリに一生懸命に励み、ピアノを岬洋介(清塚信也)に習って目標を達成しようとします。
ですが、シャンデリアが彼女の上に天井から落ちてきたりするなど、彼女を亡き者にしようとする不穏な動きが見られます。
そればかりか、母親が、教会へ行く階段から落ちて意識不明の重体にもなります。
こうなると、祖父やルシアが死んだあの火事についても疑惑がもたれるようになってきます。
さあ、一連の事件はどのように解決するのでしょうか?
そして、遥のピアニストになるという夢は実現するのでしょうか?
中山七里氏による原作が第8回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作ということで、本作もミステリー物と思っていたところ、謎解きの要素は大したことがなく、専ら主演の橋本愛をプレイアップすることが主たる眼目の作品のように思え、幾分肩透かしを食らった感じながら、ドビュッシーのピアノ曲ばかりかリストの難曲まで聞くことができ、全体としてはまずまずといったところです。
主演の橋本愛は、昨年の『桐島、部活やめるってよ』で注目されたところ、まだ17歳ながら本作でも随分とその存在感を発揮しています(注1)。
注目されるのは、遥のピアノの先生・岬洋介役の清塚信也、彼は本物のピアニストで、本作によって俳優デビューを果たしたとのことです(作中で、リストの「超絶技巧練習曲第4番マゼッパ」を鮮やかに演奏します)。
(2)〔以下では、ミステリー物ではタブーのネタバレ頻出になってしまいますので、ご注意願います〕
本作は、原作と違っている点がいくつかあります。
例えば、遥がコンクールで演奏する曲目について、原作の場合、本選の課題曲がドビュッシーの『月の光』であり、自由選択が『アラベスク第1番』とされているところ、本作ではそれが逆になっています(注2)。
マアそんなことはどちらでもかまわないところ、犯人とされる人物が原作と本作とで違ってしまっており、また原作では、岬洋介の事件解決に果たす役割が大きいのに対し、本作ではその要素はずっと後退しています(注3)。
それに、その点にもかかわりますが、原作では、母親は階段の事故でそのまま死んでしまうところ、本作の場合は、意識不明で発見された母親は、ラストではどうやら意識を取り戻すようなのです(注4)。
さらに、岬洋介に事件への関与を指摘された際の遥の対応は、両者でかなり異なっています(注5)。
また、誰しも思うところでしょうが、本作・原作ともに、遥の大火傷に対しては、かなりの違和感を感じてしまいます(注6)。
でも、そんなあれこれを論ってもあまり意味がないようにも思われます。
本作は、謎解きミステリーというよりも、むしろ、大きな会場でピアノを演奏する橋本愛をビジュアル的にプレイアップするための映画とみなすべきであって、原作に加えられた様々の改変も、橋本愛のイメージアップにつながるように配慮された結果だと考えられ、そうであれば映像自体をまず楽しんだ方が得策なのではないかと思われます。
(3)渡まち子氏は、「ミステリー映画としては弱いのだが、全編に美しい音が流れる音楽映画としてみればなかなか楽しめる」として50点をつけています。
(注1)なんだか、『のだめカンタービレ』でピアノを弾く上野樹里―『スウィングガールズ』の時は橋本愛と同年齢くらいだったでしょう―を思い出します!
(注2)本作の場合、ある晩、自分の名前の由来〔ラテン語の「光」(lux)〕から、ルシアは遥に対して、ピアニストになったら『月の光』を演奏会で演奏してくれと強く要望します(本作のルシアは、両親がいないという自分の境遇から、ピアニストにはならずに看護学校に行くつもりだと言います)。
この点について、岬洋介役の清塚信也は、「原作にはなかったけれど、遥があの曲にこだわる理由を編み出したことで、必然性が生まれ、またピアノを知る人にも納得してもらえたと思います」と述べているところからすると、ルシアの話は清塚信也のアイデアのようです。
ルシアの話だけからすれば、ベートヴェンの『月光ソナタ』でも構わないようにも思えますが、余りまぜっかえさないようにしましょう。
(注3)本作では、一連の事件についての主犯(祖父たちが死んだ離れの火事)が加納弁護士で、介護士のみち子(熊谷真実)が共犯(シャンデリアの落下など)とされています。そして、それを調べ上げたのは刑事とされ、岬洋介は、事前にそのことを耳にして遥に伝えたにすぎません。
ところが、原作の場合、岬洋介が遥に対して、「お母さんを殺したのは君だ」と断定するのです(宝島社文庫P.391)。
(注4)「お母さんが手を握り返した」との連絡が遥の元に届きます。従って、原作と違って、本作の場合、母親についての殺人事件は起こらなかったことになります。そのためもあってでしょう、本作の場合、祖父とルシアの死に対して疑惑が提起されるのだと思われます(そうしないと、傷害事件しか描かれないことになってしまいますから)。
(注5)原作では、遥は、例えば「出鱈目よ、そんなの!第一、何であたしがお母さんを殺さなきゃならないの!」などと岬洋介に反撃します(P.394)。
これに対して、本作では、遥が自分から岬洋介に、「私、ルシアです。お母さんにあんなことをしたのもあたしです」と言ってしまいます。
本作の場合、遥が「コンクールが終わったら警察に行くつもり」と言うと、岬洋介は「君がお母さんを突き落したわけじゃない。君が思っているほど罪にはならない」と言います(本作の場合は、不起訴扱いにでもなるのでしょうか)。
これに対して、原作の場合、岬洋介は遥に対して「いくらなんでも5年は収容されないだろう」と言い、遥も、「当分はドビュッシーの音楽と遠ざかるのだろう。…でも、いつかまたピアノを弾ける日がきっとくる。…だからその日までしばらくお別れだ。さよなら、ドビューッシー」と思います。
本作の場合、タイトルの「さよなら、ドビュッシー」はどこに根拠を置くのでしょうか?
(注6)これは、昨年見た『私が、生きる肌』でも思ったことですが、表面的な皮膚の移植を巧みに行うことによって、特定の人物の顔を自在に作ることができるのでしょうか?骨格の違いなどによってかなりの制約を受けてしまうのではないでしょうか?法医学における「復顔」とは、頭蓋骨に肉などをつけて行う作業ではないでしょうか(なお、『私が、生きる肌』の場合は、男を女に作り替えるというもう一段階進んだところが描かれています!)?
本作の場合は、遥を演じる橋本愛とルシアに扮する相楽樹の顔の骨格はかなり違うように思われますが、この辺りは小説ならば適当に誤魔化しがきくかもしれないところ、映画にあっては2人の顔が画面に映し出されてしまいますから、問題があからさまになるものと思います。
★★★☆☆
原作がミステリーということすら知らなかったが火事のあと皮膚移植でソックリに戻し、声は出せない。という設定でトリックは分かり、そうか原作はミステリーかと気づくと岬が遙が落ちた階段を調べたり松葉杖(?)を調べたり教会に現場検証に行くので岬が探偵役のシリーズものだろうと推測した。場合によっては連作が作られるかもしれないが俳優が本業じゃないし…可能性は少ないかな(下手とか向いてないという意味ではない)。
Tシャツだけで本人特定は乱暴。血液型とか、いくらでも不一致はあるはずだが少なくとも火事に犯罪性がなかったなら(当然あったはずだが)母親の証言だけで細かく調べなかったことには目をつぶるとしても(出來のいい作品とは思わないが)階段はともかくシャンデリアの落下なんてリモコン操作でもしない限り真下に来たときに落ちてくるなんてあり得ない。殺すことが目的なら善良な使用人を使わなくても殺し屋(?)を雇って外で突き飛ばしたりするほうが確実。
どうでもいいが大金持ちの生活は想像できないが遺産が21億もあるような豪邸で(多分)使用人が1人とは思えない。ちなみに彼女は介護士ではなく15年も働いている使用人だと思うが1人だとすれば料理を含む家事すべてをこなす驚異的に有能な女性になる(それともやはり祖父専属で火事は母親1人で担当?)。
彼女がいないからといって2人の兄弟が夕食にコンビニ弁当を食べる(そのくせワインのボトルはある)のも何か変、わざわざコンビニに買いに行くなら少なくとも出前ぐらいは頼むと思うのだが。
ちょっと見過ごしたのだが、ルシアはプロのピアニストになって「月の光」を演奏するのが夢で遙はピアニストにはならない、と話していたはずだが2人が一緒にレッスンを受けていたとき全然ダメだと叱られていたのは遙のほうなんでしょうね。つまり希望とは別でルシアに才能がなかったら、あのハンデの中で遙のように弾くことは難しいと…
それにしても数分だけ自在に指が動くなんてあり得るのかな?
期待はしないが、さすがに橋本愛がピアノを弾く手元はほとんど見せなかったですね。
あまり細かいところは気にしないようにと思っても、原作の中で、声がしわがれになってしまった・・というのは、大きい要素だなあと。
それが映画では、初めの方だけで、あとは普通の声になってたというのは、解せませんでした。
と、本の中のいじめらる部分と、コンクールでほかの演奏者に半端な気持ちで臨むんじゃないわと!と言われるあたり。
あれは大事だと思いました。
なんだか本の持つ複雑な要素を避けて、上っ面をなぞっただけの甘い一本になってしまった気がして、残念な作品でした。
この映画は音楽と橋本愛を楽しめばいいやと思っ
てボーッと見ていたためでしょう、いろいろ齟齬が
あるかもしれません。DVDでも出たら確かめてみ
ることといたしましょう。
おっしゃるように、本作では、原作の「大きい要素」「大事」なところ
が無視されていますが(一番のものは、「このミステリーがすごい!」
大賞の受賞作の映画化にもかかわらず、犯人捜しの面が後退し
てしまっていることではないでしょうか)、それも橋本愛の魅力を観客
に十分訴えるためやっていることと思って、大目に見てあげるべきな
のでしょう!
これ、舞台が現代ではなく、近世のロシアとか、フランス辺りでブラックジャックの出演がありなら、もうちょっと皆から許してもらえたんじゃないでしょうか。
おっしゃるように、本作は、音楽と「橋本愛で充分楽しめ」る作品なので、「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した原作ミステリーを踏まえておらず、さらに「舞台が現代ではなく、近世のロシアとか、フランス辺りでブラックジャックの出演がありなら」、評価がズッと高くなったことでしょう(ただそうなると、タイトルを「さよなら、ドビュッシー」ではなく、「さよなら、ビバルディ」あたりに変えなくてはならないでしょうが)!
原作では犯人ちがうのですか!
そうですよね。なぜ題名が「さよならドビュッシー」なのか説明がつかないですよね。
原作と変えても駄作にならないのは良かったです。
それならば映画を観た後で原作を読んでも楽しめそうですね。
そうですか首都圏ではドビュッシーの展覧会が行われたのですね。
クマネズミは、昨年がドビュッシー生誕150年ということで、展覧会が開催され、原作本が賞に選ばれ、さらにまたこの映画も制作されたとばかり思っていたところ、そんな関連性を言う人も少なく、なんだか狐につままれたような感じがしていました。
是非、原作本をお読みになって、本作と比較されたらいいのでは、と思います。