(1)この間取り上げました映画『鈴木先生』の原作漫画本の第10巻奥付に記載されている「参考文献」には、劇作家・演出家として著名な平田オリザ氏の『演技と演出』(講談社現代新書、2004年)が記載されていて、そういえば渋谷イメージフォーラムで同氏を描いたドキュメンタリー作品が昨年後半に上映され高い評判を得ていたにもかかわらず見逃してしまったなと残念に思っていたところ、このほどオーディトリウム渋谷で短期間上映されることが分かり、それならばと1日休暇を取って、総計約6時間の『演劇1』と『演劇2』とを続けて見てきました(注1)。
この2つの作品では、ドキュメンタリー作品で定評のある想田和弘監督が、鳩山元総理の演説原稿を書いたことでも知られる平田オリザ氏に密着して、その演劇の世界を映像で描き出そうとします。
見る前までは、いくら評判が高いといっても最後はその長さにうんざりしてしまうだろうなと思っていましたが(特に、連続して見たりすれば)、平田オリザ氏の実に旺盛な行動力や独特の見解などに圧倒され、なおかつそれを捉える想田監督のカメラワークの素晴らしさもあいまって、ラストに至っても更に見続けたいと思うほどでした。
(2)とはいえ、ドキュメンタリー作品の場合、どうしてもそこで中心的に描かれている事柄―本作の場合は、平田オリザ氏の考え方とか行動ぶり―の方に関心が集中してしまいますが、一歩離れて全体を見回すと、この映画を製作した想田監督の映画―「観察映画」(注2)―とは何なんだ、という点にも関心が向います。
本作は、最初に申し上げましたように、6時間を一気に見させるだけの強い喚起力を持っている素晴らしい作品であることは間違いありません。ですが、平田オリザ氏の世界を描く上で欠くことができない同氏の舞台そのものに関しては、作品からはかなり断片的な印象しか持ち得ませんでした。
確かに、素晴らしい舞台を実現するために様々なことを平田氏らが行っているわけで、そうした周辺的とも思える事柄は実に綿密に描き出されています。にもかかわらず、その核となるものが断片というのでは、見ている者はなんだかはぐらされた感じに囚われます。やはり、「観察映画」の観点から嫌った「舞台の記録映像」―それも最初から最後までノーカットの映像―が必要ではないでしょうか(注3)。
これは、あるいは6時間もの映像を見続けただけに、却って一層そのような気になるのではとも思われます。それだけの長さの作品を作るのであれば、平田氏の一つの作品くらいは映画の中に取り込めたのではないか、と思われるところです(注4)。
こうした点は、例えば世評が高い『選挙』(2007年)にもうかがえるのではと思います。
同作をDVDで見てみましたが、確かになかなか興味深い作品ながら、なんだか重要な点が抜け落ちてしまっているきらいがあるのでは、とも思えてきます(注5)。
映画は、2005年の川崎市議補欠選挙に自民党から立候補した山内和彦氏の選挙期間中の有様を克明に捉えています。ただ、そこに見られるのは日本的な風土に根ざした独特の風景ながら、ある程度一般人も見聞きしている感じがします。
むしろ、なぜ山内氏はこんな選挙に立候補したのか、彼の主義主張は何なのかということ(注6)、さらには、どういうプロセスで山内氏が自民党公認候補に選ばれたのか、そしてその2年後の川崎市議選にどうして彼は不出馬だったのか、という選挙戦を挟んでの前と後ろの問題、そうした点に映画は深く切り込んでいないがために、山内氏の2週間の行動のみが延々とスクリーンに映し出されても果たしてどんな意味があるのかな、という思いがしてしまいます(注7)。
こうしたことから、想田監督の「観察映画」という概念は実にユニークで興味深いものではあるものの、余りそれにとらわれ過ぎてしまうと(注8)、肝心なものを取り逃がしてしまう恐れがあるのではないか、という気がします。
(3)それぞれの作品について
A.『演劇1』では、平田オリザ氏の演劇それ自体についてのかかわりが専ら描かれます。
イ)本作の冒頭では、平田氏の『ヤルタ会談』の稽古の様子が描き出され、劇団員(島田曜蔵)の台詞の言い回しについて、繰り返し「駄目出し」がなされます。
もう少し進むと、今度は、著名な『東京ノート』の一場面につき、劇団員(松田弘子)に対し、しつこいくらいの「駄目出し」がなされ、そのたびに一緒に稽古をしている2人の劇団員(後藤麻美、山村崇子)も、該当場面のはじめからやり直します。
その際の「駄目出し」が、実に微細な点なのに見ている方は驚かされます。
「駄目出し」は他の演目についても映し出されますが、例えば、「台詞と台詞の間、0.3秒長くして」とか、「あと1歩奥に入って」、「こういうグラデーションで」などといった感じです。
平田氏が指摘した点を修正して劇の稽古は進行していきますが、どうやら平田氏は指摘した点を何かに書き記すことはせずにいるように見えます。
他方、「ダメ出し」を受けた劇団員は、指摘されたことを反復練習したりしてなんとか覚え込もうとします(注9)。
とはいえ、映画を見ていると、数回繰り返しの稽古をした後は次の稽古の場面に移ってしまうようですから、果たして、平田氏や劇団員は個々の「駄目出し」の点をすべて本番の時まで覚えていて、指摘通り修正された舞台が実現されているのかという点になると、すごく訝しく感じます。
でも、実際には、稽古の期間は2か月以上設けられているようなので、映画から観客が見て取る以上に反復練習が行われているものと思われます。
ロ)映画では、教職員を相手にしたワークショップで、平田氏が「架空の縄とび」を参加者に行ってもらう様子が描かれます。
これは、平田氏独特の概念「イメージの共有」の実例ということで持ち出されます(注10)。
すなわち、平田氏は、「演劇はイメージの共有のゲームであり、イメージがうまく作れると、そのイメージが観客に伝わる」、「でもその共有ができない人が一人でもいたら、全体がしらけてしまう」、「観客は、イメージの共有がしにくいものを劇場で見たいと思う」、「一番共有しにくい物は人間の心の中」などと話します。
こうして、ワークショップの参加者の体と心をほぐすための具体的で単純なゲームから、演劇とは何かという抽象的なレベルにまで話が及ぶ平田氏の指導法は、その演劇論の広がりをいかんなく示すものと言えるでしょう。
また、平田氏は、ある講義の中で「大人は様々な役割を演じながら生きています」とか、「仮面の総体が人格なんです。私たちは演じる生き物なんです」と述べます。
こうしたところは、映画『鈴木先生』やその原作漫画の中で、鈴木先生が話している事柄と通じるところがあるように思われます(注11)。
ハ)本作では、中高生を相手のワークショップの模様も紹介されています。
そこでは、参加者が自分たちで台本を作成し、上演するわけですが、平田氏は最初に、戯曲の場面構成の話をします。
すなわち、物語には、「起」「承」「転」「結」があり、さらにそのそれぞれにも起承転結があるが、演劇の場合、そのすべてを取り上げるわけにはいかず、その中からいくつなの場面を拾い出して台本を作成し、捨てた部分は観客の想像にゆだねるようにする、などと説明します。
これはおなじみの説明ながら(注12)、参加者が台本を作成したり、上演に向けて稽古している間に、暇を見つけては平田氏は、パソコンを開いて自分の戯曲の台本を書きこんでいるのです(注13)。
むろん、それは第1稿なのでしょうが、あの精緻極まる平田氏の戯曲台本がこのようにして作成されているとは、チョット驚きでした。
ニ)劇団の岡山公演では、平田氏の作・演出の『火宅と修羅』が上演されました。
映画では、その「仕込み作業」の模様が映し出されますが、驚いたことに、劇の舞台に登場する役者たちも、その仕込みに加わっているのです。
その中で、舞台美術の杉山至氏と舞台照明の岩城保氏は、役者ではなく専属のスタッフながら、想田監督のカメラの前では、かなり演技をしていたと話している点は、興味深いことです(注14)。
ホ)本作に登場する青年座の役者の中にはこれまで邦画で見た顔がいくつかあり、その意味でも親しみが持てるところです。
例えば、古館寛治は、『キツツキと雨』で主役の克彦(役所公司)にいろいろ頼みごとをするチーフ助監督役を務めていましたし、志賀廣太郎は、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』では、主人公(浅野忠信)が入るアルコール病棟の患者を演じていました。
(注1)『演劇1』が2時間52分、『演劇2』が2時間50分。
(注2)「観察映画」については、想田和弘著『演劇vs.映画』(岩波書店、2012.10)の中で、その特徴が10項目にわたって列挙されています(例えば、「被写体や題材に関するリサーチは行わない」、「台本は書かない」、「ナレーション、説明テロップ、BGMを原則として使わない」など)(P.9~P.10)。
(注3)この点は想田監督も自覚しているようで、上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、「作品の最初から最後まで、すべてをノーカットで見せる」ことでは「「舞台の記録映像」にはなっても、ドキュメンタリーにはならない。少なくとも、僕が目指す「観察映画」にはならない」云々と述べる一方で(P.51)、他方で「「平田演劇の見せ場を映画の観客にも堪能してもらう」という点においては、どのように編集を工夫してみても、ついに僕は「演劇」二部作を通じて十分には実現できなかったように思う」とも述べています(P.87)。
(注4)あるいは著作権上の問題があるのかもしれません。平田氏の戯曲については、その舞台がかなりDVD化されて紀伊國屋書店から販売されていますから。
(注5)といって、なにも現象の背後に隠れている本質をえぐり取るべきだ、などと申し上げたいわけではありません。
(注6)映画からは、山内氏は「改革を実行する」人という極めて茫漠としたイメージしか伝わってきません。少なくとも、選挙期間中に開催された立会演説会における発言内容を伝える場面があってもよかったのではと思えるのですが。
(注7)山内氏は、川崎市議会で自民党が過半数を確保するための単なるタマとして、期間限定で使われただけ人のように思えてしまいます。
(注8)上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、想田氏は「観察映画は、観察する「個」としての作り手の存在を前提とした映像表現である」と述べているところ(P.34)、その意識があまり強く出過ぎると問題をはらんでくるのではないかと考えられます。
(注9)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、一方で劇団員の山内健司氏が、「「このぐらいかな」って自分のやりやすい間でやっていたところを、そこで「0.5詰めて」だったら、「ああ、そこは間延びしているんだな」と感じるっていうか」が述べているところ、他方で劇団員の松田弘子氏は、「オリザは「あと0.5秒」とか言うけれど、それは今やったことに対して相対的なことだから、自分で絶対的なものに直して覚えておかないと駄目で、そこは頑張ってやるようにしている」と述べています(P.184)。
(注10)本文冒頭で取り上げた平田オリザ著『演技と演出』の第1章「イメージの共有」で、詳しく展開されています。そこでは、「架空の縄とび」は“イメージの共有しやすいもの”の例として挙げられ、他方、「架空のキャッチボール」は“イメージの共有しにくいもの”とされています。
(注11)例えば、映画『鈴木先生』に関するエントリの「注8」をご覧ください。
とはいえ、原作漫画で描かれている鈴木先生の演劇指導法は、従来ベースのもののように思えるところです。何より、取り上げられている演目が『ひかりごけ』なのですから!
(注12)例えば、平田オリザ著『演劇入門』(講談社現代新書、1998.10)のP.62~P.65。
(注13)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、劇団員の松田弘子氏は、「台本をオリザがパソコンで書いているのを見ると、やっぱり台詞の2行目のアタマはタブで寄せているんだ」と言っていますが(P.168)、あれほどたくさんの台本を作成しているにもかかわらず、随分と原始的なやり方でインプットしているのだなとクマネズミも思いました。
(注14)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、岩城氏は、「僕は仕込みのああいう現場では演じているんですよ。まさしく。照明って少人数のチームでやるんですけど、その中で割と僕ね、指示を出す人、リーダーを演じるんです」と述べたりしています(P.128)。
この2つの作品では、ドキュメンタリー作品で定評のある想田和弘監督が、鳩山元総理の演説原稿を書いたことでも知られる平田オリザ氏に密着して、その演劇の世界を映像で描き出そうとします。
見る前までは、いくら評判が高いといっても最後はその長さにうんざりしてしまうだろうなと思っていましたが(特に、連続して見たりすれば)、平田オリザ氏の実に旺盛な行動力や独特の見解などに圧倒され、なおかつそれを捉える想田監督のカメラワークの素晴らしさもあいまって、ラストに至っても更に見続けたいと思うほどでした。
(2)とはいえ、ドキュメンタリー作品の場合、どうしてもそこで中心的に描かれている事柄―本作の場合は、平田オリザ氏の考え方とか行動ぶり―の方に関心が集中してしまいますが、一歩離れて全体を見回すと、この映画を製作した想田監督の映画―「観察映画」(注2)―とは何なんだ、という点にも関心が向います。
本作は、最初に申し上げましたように、6時間を一気に見させるだけの強い喚起力を持っている素晴らしい作品であることは間違いありません。ですが、平田オリザ氏の世界を描く上で欠くことができない同氏の舞台そのものに関しては、作品からはかなり断片的な印象しか持ち得ませんでした。
確かに、素晴らしい舞台を実現するために様々なことを平田氏らが行っているわけで、そうした周辺的とも思える事柄は実に綿密に描き出されています。にもかかわらず、その核となるものが断片というのでは、見ている者はなんだかはぐらされた感じに囚われます。やはり、「観察映画」の観点から嫌った「舞台の記録映像」―それも最初から最後までノーカットの映像―が必要ではないでしょうか(注3)。
これは、あるいは6時間もの映像を見続けただけに、却って一層そのような気になるのではとも思われます。それだけの長さの作品を作るのであれば、平田氏の一つの作品くらいは映画の中に取り込めたのではないか、と思われるところです(注4)。
こうした点は、例えば世評が高い『選挙』(2007年)にもうかがえるのではと思います。
同作をDVDで見てみましたが、確かになかなか興味深い作品ながら、なんだか重要な点が抜け落ちてしまっているきらいがあるのでは、とも思えてきます(注5)。
映画は、2005年の川崎市議補欠選挙に自民党から立候補した山内和彦氏の選挙期間中の有様を克明に捉えています。ただ、そこに見られるのは日本的な風土に根ざした独特の風景ながら、ある程度一般人も見聞きしている感じがします。
むしろ、なぜ山内氏はこんな選挙に立候補したのか、彼の主義主張は何なのかということ(注6)、さらには、どういうプロセスで山内氏が自民党公認候補に選ばれたのか、そしてその2年後の川崎市議選にどうして彼は不出馬だったのか、という選挙戦を挟んでの前と後ろの問題、そうした点に映画は深く切り込んでいないがために、山内氏の2週間の行動のみが延々とスクリーンに映し出されても果たしてどんな意味があるのかな、という思いがしてしまいます(注7)。
こうしたことから、想田監督の「観察映画」という概念は実にユニークで興味深いものではあるものの、余りそれにとらわれ過ぎてしまうと(注8)、肝心なものを取り逃がしてしまう恐れがあるのではないか、という気がします。
(3)それぞれの作品について
A.『演劇1』では、平田オリザ氏の演劇それ自体についてのかかわりが専ら描かれます。
イ)本作の冒頭では、平田氏の『ヤルタ会談』の稽古の様子が描き出され、劇団員(島田曜蔵)の台詞の言い回しについて、繰り返し「駄目出し」がなされます。
もう少し進むと、今度は、著名な『東京ノート』の一場面につき、劇団員(松田弘子)に対し、しつこいくらいの「駄目出し」がなされ、そのたびに一緒に稽古をしている2人の劇団員(後藤麻美、山村崇子)も、該当場面のはじめからやり直します。
その際の「駄目出し」が、実に微細な点なのに見ている方は驚かされます。
「駄目出し」は他の演目についても映し出されますが、例えば、「台詞と台詞の間、0.3秒長くして」とか、「あと1歩奥に入って」、「こういうグラデーションで」などといった感じです。
平田氏が指摘した点を修正して劇の稽古は進行していきますが、どうやら平田氏は指摘した点を何かに書き記すことはせずにいるように見えます。
他方、「ダメ出し」を受けた劇団員は、指摘されたことを反復練習したりしてなんとか覚え込もうとします(注9)。
とはいえ、映画を見ていると、数回繰り返しの稽古をした後は次の稽古の場面に移ってしまうようですから、果たして、平田氏や劇団員は個々の「駄目出し」の点をすべて本番の時まで覚えていて、指摘通り修正された舞台が実現されているのかという点になると、すごく訝しく感じます。
でも、実際には、稽古の期間は2か月以上設けられているようなので、映画から観客が見て取る以上に反復練習が行われているものと思われます。
ロ)映画では、教職員を相手にしたワークショップで、平田氏が「架空の縄とび」を参加者に行ってもらう様子が描かれます。
これは、平田氏独特の概念「イメージの共有」の実例ということで持ち出されます(注10)。
すなわち、平田氏は、「演劇はイメージの共有のゲームであり、イメージがうまく作れると、そのイメージが観客に伝わる」、「でもその共有ができない人が一人でもいたら、全体がしらけてしまう」、「観客は、イメージの共有がしにくいものを劇場で見たいと思う」、「一番共有しにくい物は人間の心の中」などと話します。
こうして、ワークショップの参加者の体と心をほぐすための具体的で単純なゲームから、演劇とは何かという抽象的なレベルにまで話が及ぶ平田氏の指導法は、その演劇論の広がりをいかんなく示すものと言えるでしょう。
また、平田氏は、ある講義の中で「大人は様々な役割を演じながら生きています」とか、「仮面の総体が人格なんです。私たちは演じる生き物なんです」と述べます。
こうしたところは、映画『鈴木先生』やその原作漫画の中で、鈴木先生が話している事柄と通じるところがあるように思われます(注11)。
ハ)本作では、中高生を相手のワークショップの模様も紹介されています。
そこでは、参加者が自分たちで台本を作成し、上演するわけですが、平田氏は最初に、戯曲の場面構成の話をします。
すなわち、物語には、「起」「承」「転」「結」があり、さらにそのそれぞれにも起承転結があるが、演劇の場合、そのすべてを取り上げるわけにはいかず、その中からいくつなの場面を拾い出して台本を作成し、捨てた部分は観客の想像にゆだねるようにする、などと説明します。
これはおなじみの説明ながら(注12)、参加者が台本を作成したり、上演に向けて稽古している間に、暇を見つけては平田氏は、パソコンを開いて自分の戯曲の台本を書きこんでいるのです(注13)。
むろん、それは第1稿なのでしょうが、あの精緻極まる平田氏の戯曲台本がこのようにして作成されているとは、チョット驚きでした。
ニ)劇団の岡山公演では、平田氏の作・演出の『火宅と修羅』が上演されました。
映画では、その「仕込み作業」の模様が映し出されますが、驚いたことに、劇の舞台に登場する役者たちも、その仕込みに加わっているのです。
その中で、舞台美術の杉山至氏と舞台照明の岩城保氏は、役者ではなく専属のスタッフながら、想田監督のカメラの前では、かなり演技をしていたと話している点は、興味深いことです(注14)。
ホ)本作に登場する青年座の役者の中にはこれまで邦画で見た顔がいくつかあり、その意味でも親しみが持てるところです。
例えば、古館寛治は、『キツツキと雨』で主役の克彦(役所公司)にいろいろ頼みごとをするチーフ助監督役を務めていましたし、志賀廣太郎は、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』では、主人公(浅野忠信)が入るアルコール病棟の患者を演じていました。
(注1)『演劇1』が2時間52分、『演劇2』が2時間50分。
(注2)「観察映画」については、想田和弘著『演劇vs.映画』(岩波書店、2012.10)の中で、その特徴が10項目にわたって列挙されています(例えば、「被写体や題材に関するリサーチは行わない」、「台本は書かない」、「ナレーション、説明テロップ、BGMを原則として使わない」など)(P.9~P.10)。
(注3)この点は想田監督も自覚しているようで、上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、「作品の最初から最後まで、すべてをノーカットで見せる」ことでは「「舞台の記録映像」にはなっても、ドキュメンタリーにはならない。少なくとも、僕が目指す「観察映画」にはならない」云々と述べる一方で(P.51)、他方で「「平田演劇の見せ場を映画の観客にも堪能してもらう」という点においては、どのように編集を工夫してみても、ついに僕は「演劇」二部作を通じて十分には実現できなかったように思う」とも述べています(P.87)。
(注4)あるいは著作権上の問題があるのかもしれません。平田氏の戯曲については、その舞台がかなりDVD化されて紀伊國屋書店から販売されていますから。
(注5)といって、なにも現象の背後に隠れている本質をえぐり取るべきだ、などと申し上げたいわけではありません。
(注6)映画からは、山内氏は「改革を実行する」人という極めて茫漠としたイメージしか伝わってきません。少なくとも、選挙期間中に開催された立会演説会における発言内容を伝える場面があってもよかったのではと思えるのですが。
(注7)山内氏は、川崎市議会で自民党が過半数を確保するための単なるタマとして、期間限定で使われただけ人のように思えてしまいます。
(注8)上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、想田氏は「観察映画は、観察する「個」としての作り手の存在を前提とした映像表現である」と述べているところ(P.34)、その意識があまり強く出過ぎると問題をはらんでくるのではないかと考えられます。
(注9)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、一方で劇団員の山内健司氏が、「「このぐらいかな」って自分のやりやすい間でやっていたところを、そこで「0.5詰めて」だったら、「ああ、そこは間延びしているんだな」と感じるっていうか」が述べているところ、他方で劇団員の松田弘子氏は、「オリザは「あと0.5秒」とか言うけれど、それは今やったことに対して相対的なことだから、自分で絶対的なものに直して覚えておかないと駄目で、そこは頑張ってやるようにしている」と述べています(P.184)。
(注10)本文冒頭で取り上げた平田オリザ著『演技と演出』の第1章「イメージの共有」で、詳しく展開されています。そこでは、「架空の縄とび」は“イメージの共有しやすいもの”の例として挙げられ、他方、「架空のキャッチボール」は“イメージの共有しにくいもの”とされています。
(注11)例えば、映画『鈴木先生』に関するエントリの「注8」をご覧ください。
とはいえ、原作漫画で描かれている鈴木先生の演劇指導法は、従来ベースのもののように思えるところです。何より、取り上げられている演目が『ひかりごけ』なのですから!
(注12)例えば、平田オリザ著『演劇入門』(講談社現代新書、1998.10)のP.62~P.65。
(注13)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、劇団員の松田弘子氏は、「台本をオリザがパソコンで書いているのを見ると、やっぱり台詞の2行目のアタマはタブで寄せているんだ」と言っていますが(P.168)、あれほどたくさんの台本を作成しているにもかかわらず、随分と原始的なやり方でインプットしているのだなとクマネズミも思いました。
(注14)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、岩城氏は、「僕は仕込みのああいう現場では演じているんですよ。まさしく。照明って少人数のチームでやるんですけど、その中で割と僕ね、指示を出す人、リーダーを演じるんです」と述べたりしています(P.128)。