![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/78/1e8853027f44e27bf7b3fd1ca53b3072.jpg)
『海燕ホテル・ブルー』をテアトル新宿で見てきました。
(1)実は、ある映画の上映時間が遅いため、その前に何かを見てやり過ごそうと思ったところ、本作が丁度いい具合に見つかったわけです。
ただ、空き時間の穴埋めとはいえ、本作は拾い物でした。ナント、監督は『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』の若松孝二氏。今年75歳ながらも相変わらず精力的で、船戸与一氏の原作に基づきつつ彼らしい映画を作り上げていて、かなり面白い作品に仕上がっています。
物語の舞台は、伊豆大島らしき島の海岸縁に一つだけ建つ海燕ホテル。そのホテルのバーの名前がブルーというわけです。
幸男(地曵豪)は、現金輸送車強奪に失敗し捕らえられて懲役7年の刑を受けます。刑期を務めあげ出所した後、その計画を立案したにもかかわらず当日姿を見せなかった洋次(廣末哲万)に恨みを晴らすべく、幸男は、彼が営んでいる海燕ホテルのバー・ブルーに現れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/81/9de215685c32f368962c500026d00d14.jpg)
幸男が、なぜ当日来なかったのか理由を質すと、洋次は「失敗したら女を失うと考えたら怖くなって」と答えますが、なるほどバーには女が一人、黙ってタバコを吸いながら腰掛けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6a/76c2dbc88cd6ee0cdebd46b79670038c.jpg)
その後揉め事があって、幸男は洋次を殺してしまい、結局このバーやその女・梨花(片山瞳)を引き継ぐことになりますが、そんなところに、刑務所で同じ房にいた正和(井浦新)が出所し、幸男の後を追って海燕ホテルに現れます。
正和は、その後の状況を説明し、刑務所で計画したヤマを二人で実行しようと幸男に迫りますが、……。
本作は、一人の女・梨花を巡る3人の男の話ともいえ、この女が鍵となりますが、若松監督が「風景に負けない」と言っただけあって(注1)、扮する片山瞳はとても魅力的にこの役を演じています〔と言っても、台詞は、ラスト近く「愚かな人たち!」のみ:彼女は、『探偵はBARにいる』などに出演したらしいのですが、印象に残っていません。次の出演作の『千年の愉楽』が期待されます〕。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/dc/74af72b3cb0454a8268739b4697bfbd8.jpg)
あるいは、この梨花は、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)や、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年)で描かれるような男を惹きつけて離さない女の列に連なるのかもしれません。そう思ってみると、片山瞳は、『雨月物語』の京マチ子や『砂の女』の岸田今日子に似て、下唇が厚い官能的な女優といえるでしょう。
なお、幸男に扮する地曵豪は、『実録・連合赤軍』で森恒夫役を演じ、また正和役の井浦新は『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の主演ですし、『キャタピラー』で久蔵を演じた大西信満も本作で警官に扮しています(注2)。
そして、片山瞳が、仮に京マチ子や岸田今日子に連なるとしたら、地曵豪らは、森雅之や岡田英次に連なるといえるのでしょうか(注3)?
(2)こうした映画を何故今頃制作したのかなかなかうまく理解出来ませんが、あるいは6月に公開される若松監督の『11・25自決の日』の単なる前宣伝かもしれません。
ただ、『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』、そして『11・25自決の日』が若松監督の昭和三部作といわれているところからすれば、無尽蔵とも言いうる監督のエネルギーをも消尽させたに違いない作品群を取り終えたあとの(注4)、幾分解放された気持ちから生まれ落ちた作品なのかもしれません。
公式ガイドブック(遊学社)掲載の巻頭対談(対談相手は原作者の船戸与一氏)で、若松孝二監督は、「これは、60年代の自分のやり方に戻って、むちゃくちゃに撮ってみようと思ったんだよね」などと述べています。
確かに、本作で大島の砂漠を女が裸で走り回ったりするシーンを見ると、大昔アングラで上映されていた作品を思い出してしまいます〔1969年の『処女ゲバゲバ』(注5):その後、VTRを見たにすぎませんが〕。
ですが、本作をそんな懐古趣味の作品とばかり規定してしまうわけにもいかないでしょう。
というのも、本作においては、海燕ホテルの常連客の一人(岡部尚)が、「お前らこんなところで酒飲んでる場合か!今の原子力発電所の問題をどう考えているんだ!……原発事故はなあ、俺たちの飽くなき欲望の象徴だ!」などと叫ぶのですから。
こうしたところに立って本作を振り返ってみると、あるいは梨花は「原子力平和利用」の象徴とも見なせて(注6)、幸男ら関係する男は皆、その圧倒的な魅力に取り憑かれるものの、結局は自分らが制御しうる物とならずに死に至ってしまい、梨花(→原子力)も元の場所(自然でしょうか)に戻ってしまう、というように解釈出来るかもしれません(誠に陳腐な解釈に過ぎませんが!)。
ちなみに、本作のラストシーンには観音像が現れ、梨花がその中にスーッと入っていきますが、これは若松監督の『聖母観音大菩薩』(1977年)を想起させるところ、公式ガイドブック掲載の対談によれば、同作においては敦賀原発反対運動が描かれてもいるようです(残念ながら未見です)。
それに、こうしたシチュエーションはどこかで見たなと思い返すと、最近の伊勢谷友介監督『セイジ 陸の魚』でも、湖の畔にポツンと建つドライブ・インには、雇われ店長のセイジ(西島秀俊)やオーナーの翔子(裕木奈江)がおり、いつも常連客がたむろし、そこに“僕”(森山未來)が訪れるわけで、海岸縁に一つだけ建っている小さな建物の海燕ホテルを巡る本作の状況(洋次と梨花のいる同ホテルを幸男らがやってくる)にあるいは類似するといえるかもしれません(注7)。
本作は、若松監督の昔の作品に通じている点はいくらもあるにしても、それを打破する視点とか他の監督の作品にも開かれている点があって、やはり現時点の作品ではないかと思われるところです。
(注1)公式ガイドブック掲載の撮影日記によります。
なお、そこにはさらに、「夢とも現実ともはっきりしない世界で、男たちを破滅の道へいざない続ける謎の女」で、「広がる黒い砂漠、噴煙たちこめる岩石の荒野、荒波が打ち寄せる灰色の砂浜。そんな風景に負けない存在が欲しい」とあり、片山瞳はオーディションによって選ばれたとのこと。
(注2)警官は、洋次や常連客の一人の姿が見えなくなったことを調べにバー・ブルーに現れますが、彼もまた梨花の魅力に目が眩んでしまい、結局は幸男や正和と一緒に死ぬ羽目に陥ります。
(注3)最近刊行された苅部直著『安部公房の都市』(講談社、2012.2)では、その第11章で安部公房原作の『砂の女』が取り上げられ、苅部直氏は、主人公の男について、作家の大江健三郎氏が「男の戦いをともに戦うことで、われわれは、われわれの生活を閉ざしている絶望的な困難との戦い方を見出す」と述べていることを引用しつつ、「読者もまた周囲の現実にある「灰色」の壁のありかを見さだめ、みずからの努力の向かう先を確認することができる」と述べています(P.206)。
(注4)公式ガイドブック掲載の撮影日記によれば、完成された台本が出来上がっていないにもかかわらず、昨年2月上旬に2日ばかり冒頭部分などの撮影が行われた後、『11・25自決の日』の撮影に入り、それが終了した5月中旬から、再び本作に取りかかるという日程の混み具合だったそうです(中の1日は、『11・25自決の日』の冒頭シーンの撮影に使われたとのこと)。
なお、本作の後は、本年秋の公開が予定されている『千年の愉楽』に取りかかるとのこと。
(注5)『処女ゲバゲバ』に関しては、四方田犬彦・平沢剛編『若松孝二 反権力の肖像』(作品社、2007年)に掲載された四方田犬彦氏の論考「監禁と逃走」に、「無際限の解放空間であるべき荒野こそが、実はあらゆる逃走の可能性を摘み取ってしまう密室であるという巨大な矛盾を提示し、いかなる自由の獲得も無邪気な幻想にすぎないことを告げる。……あらゆる逃走は虚妄であり、その場に踏みとどまることでしか真の解放は獲得されないというモラルが、こうして提示されることになる」と述べられています(P.31)。
本作の場合、海燕ホテルから抜け出て砂漠を走り出した梨花を正和が追っていくと、警官と幸男に遭遇し、結局は3人とも死ぬことになりますが、四方田氏のような観点から見てみると、密室とみなせるホテルから自由な空間であるべき砂漠に走り出ても、結局はそこに絡め取られてしまった様を描いている、といえるかもしれません。
(注6)大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ―3.11後の哲学』(岩波新書、2012.3)によれば、反原発の論陣を張る作家の大江健三郎氏も、1980年の著書においては、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べているようです(P.78)。
(注7)尤も、類似するのは状況だけで、その後の展開は両作で相当異なっていますが。
★★★☆☆
(1)実は、ある映画の上映時間が遅いため、その前に何かを見てやり過ごそうと思ったところ、本作が丁度いい具合に見つかったわけです。
ただ、空き時間の穴埋めとはいえ、本作は拾い物でした。ナント、監督は『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』の若松孝二氏。今年75歳ながらも相変わらず精力的で、船戸与一氏の原作に基づきつつ彼らしい映画を作り上げていて、かなり面白い作品に仕上がっています。
物語の舞台は、伊豆大島らしき島の海岸縁に一つだけ建つ海燕ホテル。そのホテルのバーの名前がブルーというわけです。
幸男(地曵豪)は、現金輸送車強奪に失敗し捕らえられて懲役7年の刑を受けます。刑期を務めあげ出所した後、その計画を立案したにもかかわらず当日姿を見せなかった洋次(廣末哲万)に恨みを晴らすべく、幸男は、彼が営んでいる海燕ホテルのバー・ブルーに現れます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/81/9de215685c32f368962c500026d00d14.jpg)
幸男が、なぜ当日来なかったのか理由を質すと、洋次は「失敗したら女を失うと考えたら怖くなって」と答えますが、なるほどバーには女が一人、黙ってタバコを吸いながら腰掛けています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6a/76c2dbc88cd6ee0cdebd46b79670038c.jpg)
その後揉め事があって、幸男は洋次を殺してしまい、結局このバーやその女・梨花(片山瞳)を引き継ぐことになりますが、そんなところに、刑務所で同じ房にいた正和(井浦新)が出所し、幸男の後を追って海燕ホテルに現れます。
正和は、その後の状況を説明し、刑務所で計画したヤマを二人で実行しようと幸男に迫りますが、……。
本作は、一人の女・梨花を巡る3人の男の話ともいえ、この女が鍵となりますが、若松監督が「風景に負けない」と言っただけあって(注1)、扮する片山瞳はとても魅力的にこの役を演じています〔と言っても、台詞は、ラスト近く「愚かな人たち!」のみ:彼女は、『探偵はBARにいる』などに出演したらしいのですが、印象に残っていません。次の出演作の『千年の愉楽』が期待されます〕。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/dc/74af72b3cb0454a8268739b4697bfbd8.jpg)
あるいは、この梨花は、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)や、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年)で描かれるような男を惹きつけて離さない女の列に連なるのかもしれません。そう思ってみると、片山瞳は、『雨月物語』の京マチ子や『砂の女』の岸田今日子に似て、下唇が厚い官能的な女優といえるでしょう。
なお、幸男に扮する地曵豪は、『実録・連合赤軍』で森恒夫役を演じ、また正和役の井浦新は『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の主演ですし、『キャタピラー』で久蔵を演じた大西信満も本作で警官に扮しています(注2)。
そして、片山瞳が、仮に京マチ子や岸田今日子に連なるとしたら、地曵豪らは、森雅之や岡田英次に連なるといえるのでしょうか(注3)?
(2)こうした映画を何故今頃制作したのかなかなかうまく理解出来ませんが、あるいは6月に公開される若松監督の『11・25自決の日』の単なる前宣伝かもしれません。
ただ、『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』、そして『11・25自決の日』が若松監督の昭和三部作といわれているところからすれば、無尽蔵とも言いうる監督のエネルギーをも消尽させたに違いない作品群を取り終えたあとの(注4)、幾分解放された気持ちから生まれ落ちた作品なのかもしれません。
公式ガイドブック(遊学社)掲載の巻頭対談(対談相手は原作者の船戸与一氏)で、若松孝二監督は、「これは、60年代の自分のやり方に戻って、むちゃくちゃに撮ってみようと思ったんだよね」などと述べています。
確かに、本作で大島の砂漠を女が裸で走り回ったりするシーンを見ると、大昔アングラで上映されていた作品を思い出してしまいます〔1969年の『処女ゲバゲバ』(注5):その後、VTRを見たにすぎませんが〕。
ですが、本作をそんな懐古趣味の作品とばかり規定してしまうわけにもいかないでしょう。
というのも、本作においては、海燕ホテルの常連客の一人(岡部尚)が、「お前らこんなところで酒飲んでる場合か!今の原子力発電所の問題をどう考えているんだ!……原発事故はなあ、俺たちの飽くなき欲望の象徴だ!」などと叫ぶのですから。
こうしたところに立って本作を振り返ってみると、あるいは梨花は「原子力平和利用」の象徴とも見なせて(注6)、幸男ら関係する男は皆、その圧倒的な魅力に取り憑かれるものの、結局は自分らが制御しうる物とならずに死に至ってしまい、梨花(→原子力)も元の場所(自然でしょうか)に戻ってしまう、というように解釈出来るかもしれません(誠に陳腐な解釈に過ぎませんが!)。
ちなみに、本作のラストシーンには観音像が現れ、梨花がその中にスーッと入っていきますが、これは若松監督の『聖母観音大菩薩』(1977年)を想起させるところ、公式ガイドブック掲載の対談によれば、同作においては敦賀原発反対運動が描かれてもいるようです(残念ながら未見です)。
それに、こうしたシチュエーションはどこかで見たなと思い返すと、最近の伊勢谷友介監督『セイジ 陸の魚』でも、湖の畔にポツンと建つドライブ・インには、雇われ店長のセイジ(西島秀俊)やオーナーの翔子(裕木奈江)がおり、いつも常連客がたむろし、そこに“僕”(森山未來)が訪れるわけで、海岸縁に一つだけ建っている小さな建物の海燕ホテルを巡る本作の状況(洋次と梨花のいる同ホテルを幸男らがやってくる)にあるいは類似するといえるかもしれません(注7)。
本作は、若松監督の昔の作品に通じている点はいくらもあるにしても、それを打破する視点とか他の監督の作品にも開かれている点があって、やはり現時点の作品ではないかと思われるところです。
(注1)公式ガイドブック掲載の撮影日記によります。
なお、そこにはさらに、「夢とも現実ともはっきりしない世界で、男たちを破滅の道へいざない続ける謎の女」で、「広がる黒い砂漠、噴煙たちこめる岩石の荒野、荒波が打ち寄せる灰色の砂浜。そんな風景に負けない存在が欲しい」とあり、片山瞳はオーディションによって選ばれたとのこと。
(注2)警官は、洋次や常連客の一人の姿が見えなくなったことを調べにバー・ブルーに現れますが、彼もまた梨花の魅力に目が眩んでしまい、結局は幸男や正和と一緒に死ぬ羽目に陥ります。
(注3)最近刊行された苅部直著『安部公房の都市』(講談社、2012.2)では、その第11章で安部公房原作の『砂の女』が取り上げられ、苅部直氏は、主人公の男について、作家の大江健三郎氏が「男の戦いをともに戦うことで、われわれは、われわれの生活を閉ざしている絶望的な困難との戦い方を見出す」と述べていることを引用しつつ、「読者もまた周囲の現実にある「灰色」の壁のありかを見さだめ、みずからの努力の向かう先を確認することができる」と述べています(P.206)。
(注4)公式ガイドブック掲載の撮影日記によれば、完成された台本が出来上がっていないにもかかわらず、昨年2月上旬に2日ばかり冒頭部分などの撮影が行われた後、『11・25自決の日』の撮影に入り、それが終了した5月中旬から、再び本作に取りかかるという日程の混み具合だったそうです(中の1日は、『11・25自決の日』の冒頭シーンの撮影に使われたとのこと)。
なお、本作の後は、本年秋の公開が予定されている『千年の愉楽』に取りかかるとのこと。
(注5)『処女ゲバゲバ』に関しては、四方田犬彦・平沢剛編『若松孝二 反権力の肖像』(作品社、2007年)に掲載された四方田犬彦氏の論考「監禁と逃走」に、「無際限の解放空間であるべき荒野こそが、実はあらゆる逃走の可能性を摘み取ってしまう密室であるという巨大な矛盾を提示し、いかなる自由の獲得も無邪気な幻想にすぎないことを告げる。……あらゆる逃走は虚妄であり、その場に踏みとどまることでしか真の解放は獲得されないというモラルが、こうして提示されることになる」と述べられています(P.31)。
本作の場合、海燕ホテルから抜け出て砂漠を走り出した梨花を正和が追っていくと、警官と幸男に遭遇し、結局は3人とも死ぬことになりますが、四方田氏のような観点から見てみると、密室とみなせるホテルから自由な空間であるべき砂漠に走り出ても、結局はそこに絡め取られてしまった様を描いている、といえるかもしれません。
(注6)大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ―3.11後の哲学』(岩波新書、2012.3)によれば、反原発の論陣を張る作家の大江健三郎氏も、1980年の著書においては、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べているようです(P.78)。
(注7)尤も、類似するのは状況だけで、その後の展開は両作で相当異なっていますが。
★★★☆☆
クマネズミも、穴を掘って洋次を埋めるシーンなどは『実録・連合赤軍』を思い出しました。
若松監督の作品をここまで見てくると、次の『11・25自決の日』のみならず、その次の『千年の愉楽』にも期待が高まります。
ピンクの監督だから有名になる前に50本ぐらいあるかなと思ったら意外や63年の『甘い罠』がデビュー作で第2作がベルリン映画祭で上映され国辱映画としてスキャンダルになった65年の『壁の中の秘事』。つまり若松はデビュー当時から“世界的”な有名監督だったことになる。Wikiのリストを見ると僕の場合は『犯された白衣(67)』が最初でリアルタイムで見ている(当然ピンク映画館)。理由は当時絶対的に評価していた赤テントの唐十郎主演だったから。それ以後も数本見ているが一般映画に移ってからは『キャタピラー』と今回の映画だけ。ちなみに一番好きなのは戸浦六宏主演の『狂走情死考(69)
ということで当時の若松の映画を知っているものから見て確かに昔の雰囲気はあるが当然ながら色々な意味で完成度が高い(だから評価するという意味ではないし好きな映画とも言えないが)。そしてこれも当然俳優のレベルが上がっている。
この映画の発端である現金輸送車襲撃事件を傘をさした少女が目撃する。傘という共通項はあるが少女と梨花に関係があるかは分からないが登場する女性は小学生と梨花、及びその正体(?)の老婆の3人だけで“女性”あるいは観音という同一人物と言ってもいい(浩平の妻と娘、バーのマダムも女性だが都合良く無視)。そうであるなら雨月物語(浅茅が宿)や怪談(黒髪)の連想も不思議ではない。
個人的に気になった場面。
出所した幸男が店で嘔吐する場面、久しぶりの娑婆で普通の食べ物を受け付けないとか言う。まずこのようなリアルな場面は不要ではないかと思ったことと“声に出す”理由がないこと。ちなみに確かに梨花の“声に出す”台詞は“愚かな人たち”だけだが、その前に“殺して”というヴォイス・オーヴァーが一度ある。
次に常連客の裕之がカメラ目線で原発事故をアジる場面で同時に梨花もカメラを見つめる。これは異様な光景だが
もし2人が同志であるなら“梨花は「原子力平和利用」の象徴”にはなり得ませんね。
あと幸夫と正和の2人が老婆に道を聞くときは海燕ホテルとしか言わなかったはず。もちろん原作を知らないが(どう見てもホテルがあるようには見えないが)なぜか店の名前はおよそ似つかわしくないコルドン・ブルーだがホテルの名前は海燕ホテルなのか海燕ホテルブルーなのか、ただブルーだけなのか…
ちなみに2人の男が同じ道をたどる場面を繰り返すので『月光ノ仮面』を思い出した。
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0161920.htm
あと念のため『狂走情死考』の戸浦が主演というのは彼が好きだった僕のイメージであり本当の主演は当時の売れっ子吉沢健です。
本とVTRや最近作といったところでしか若松孝二監督を知らない者にとっては、「当時の若松の映画を知っている」milouさんの情報は貴重です。
それに、常連客の裕之だけでなく梨花も同時にカメラを見つめており、「2人が同志であるなら“梨花は「原子力平和利用」の象徴”にはなり得」ないとのご指摘ももっともだと思います。
あるいは単に、梨花を「自然」の象徴としてとらえ、「自然」を人間が制御しようとしても出来ないことを表している、と考える方がわかりやすいかもしれません(いずれにせよ陳腐なとらえ方ですが!)。
また、milouさんが「こじつけ」とされる解釈も、捨てがたいものがあると思います(ただ、「少女は事件に巻き込まれた被害者」とすると、幸男の刑期はもっとズッと長いものになるのではと思われますが)。
なお、タイトルの「海燕ホテル・ブルー」ですが、これは「海燕ホテル」というホテルのバー「コルドンブルー」ということではないかと思います。
また、先年亡くなってしまった戸浦六宏については、大島渚監督『日本の夜と霧』(DVDで見ました)などが印象的です。