『KOTOKO』をテアトル新宿で見てきました。
(1)かなり以前に、本作の塚本晋也監督の『鉄男』(1989年)をDVDで見てから興味を惹かれて、その作品を少しずつDVDで見たり劇場で見たりしてきたので、本作にも大いに関心があったところです。
実際に見てみると、本作において主演のCoccoは、歌手としてだけでなく俳優としても凄い才能のあるところを如何なく発揮していて(注1)、感動的ですらあります。
ただ、塚本監督の作品はどれもなかなか難しく、すんなりと理解できるわけではありませんが、本作も、子供に対する深い愛というところはよくわかるにしても、それ以上となるとなかなか近づき難いところがあります。
なにしろ、本作においては、沖縄出身の歌手Coccoが演じるシングルマザーの琴子(KOTOKO)は、子育てにのめり込むあまり、世界が二つに見える精神障害を患っているのです(注2)。
例えば、近所の女性が、琴子が抱いている赤ん坊・大二郎が可愛いと寄ってくると、その背後に怖い顔をして彼女を睨みつける同じ女性が見えてしまいます。そして、そちらの怖い顔をした女の方が寄ってくると、琴子は我が子を守ろうと無茶苦茶に暴れるのです。
こうしたことが度重なって(注3)、ついに、幼児虐待の恐れありとのことで、我が子とは切り離されて、大二郎を琴子の姉の家(沖縄)に預けざるを得なくなってしまいます(注4)。
そうしたところ、姉の方から電話があって、沖縄で暮らす大二郎に会いに行きます(注5)。途中、バスの中で独りで琴子が沖縄の歌を歌っていたところ、それに感動した小説家の田中(塚本晋也)が、彼女に執拗に付きまとうことになります(注6)。
彼は、有名な文学賞を受賞するほどの才能を持った作家にもかかわらず(注7)、自分を投げうってまで琴子を惨状から救い出そうとするのですが(注8)、はたしてうまくいくでしょうか、そして……?
こうまとめてしまうとなんだかわかったような感じになるものの、実際の映像はなかなか凝ったものがあり、それぞれに何か別の意味が込められているようでもあり、様々にこちらの想像力等を駆使して考えてみなければいけないのでは、と見る者を強いる気がします。
(2)よくわからないながらも、一つの手がかりはCoccoが本作中で歌う歌かもしれません。
彼女は、八重山民謡を歌い、さらにエンディングテーマ曲などオリジナル曲3曲を歌いますが(注9)、八重山民謡のタイトルは「月(ちち)ぬ美(かい)しゃ」であり、また一つのオリジナル曲のタイトル「のの様」も(注10)、Coccoが書いた『コトコノコ』(幻冬舎、2012.3)に掲載されている英訳では「The moon」とされていますから、どちらも「月」に関係する歌といえるでしょう(注11)。
さらに、同書の「09.銀河系太陽区」には、「潮の満ち引きの絡繰りを訊ねると、ママは海の神様のお話をしてくれるような人だった。パパは「それは起潮力といって、月と太陽の引力が……」と熱く語る人だった」とあって、「月」が両親の話と繋げられています(P.60)。
さらに、同じ「09.銀河系太陽区」では、「地球のような惑星の存在を銀河系の恒星の数に当てはめると1000億にも2000億も有り得るということにな」り、「」どこかで誰かや何かがきっと生きていて/向こうも地球のことを想定しているかもしれない」などとも言われています(P.61)(注12)。
ここら辺りを見ると、子供と親という関係が宇宙全体というマクロな観点から見られていることが分かります。
同時に、本作においては母親としての琴子とその子供大二郎との関係が中心的に描かれていますが、そこには、もしかしたらCoccoとその両親、特にその母親とのミクロの関係が投影されているのかもしれません(注13)。
大二郎は琴子と離れ、沖縄の実家の姉夫婦のもとで暮らしたりするのですから、その出自にも十分に触れることになるでしょう。
(3)もう一つは、もっと不分明ながら、これまでの『鉄男』シリーズとの繋がりです。
本作においては、同じ人間が、琴子の目からすると二重に見えるわけですが、一人は穏やかでありながら、もう一人は酷く恐ろしい顔つきをしていて、暫くすると琴子を襲ってくるのです。
その際には、画面が酷く揺れ大音響がとどろきます。
とすれば、映画『鉄男』シリーズの鉄男ではないでしょうか?
例えば、『鉄男 The Bullet Man』(2009年)においては、外資系企業に勤めるアメリカ人のアンソニーの肉体は、息子を轢き殺された怒りによって鋼鉄に変貌するのですが、その際にも似たような映像の揺れがあり音響が響き渡るのです。
そういうところから、本作において琴子がもう一人の人間によって襲われるのは、あるいは、神の“怒り”に触れたような感じがしないでもありません。
すなわち、シングルマザーとして大二郎を育てることについて琴子が内心抱いている後ろめたさから、そういったもの〔さらにいえば、社会的規範、エス、あるいは「第3者の審級」(注14)といったもの〕が攻撃してくるように琴子は妄想するのではないでしょうか?
そうした攻撃も、田中の献身的な努力で消え去ります(「注10」参照)。でも、最後にはまだ子供との対決が残っていたのです。
しかしながら、それには耐えきれなくなり、ついに自分で大二郎を絞め殺そうとして(注15)、……(注16)。
なお、『鉄男』シリーズにおいて塚本晋也監督が扮する“やつ”は、鉄男を挑発し“怒らせ”ながらiron manとしてレベルアップさせようとするわけですが、本作においても、同監督が扮する小説家・田中は、ストーカーとして琴子に付きまとい、何かと言っては登場するために、琴子の激しい怒りを買って、フォークで両手を突き刺されたり、顔面を酷く殴られたりします。
とすると、ここでは、琴子が“鉄男”的なものに攻撃されるのではなく、逆に琴子が“鉄男”的な存在となって“やつ”としての田中を襲うのだ、というようにも思われます。
(4)渡まち子氏は、「監督が最も尊敬するシンガーだというCoccoは、これが映画初主演だが、狂気と癒しが幾層にも重なり合って、圧倒的なエネルギーを発散している。東日本 大震災以降の、子を守ろうと過剰反応する現代の空気が奇しくも映画に盛り込まれ、単なる異色作の枠に収まらない余韻を残した」として65点を付けています。
(注1)Coccoは、劇映画初主演とのこと。
(注2)さらには、時折リストカットします(腕には、その傷跡が何本も走っています)。これは、彼女に言わせれば、死にたいからするのではなく、自分が消えてしまいそうな時に自分を確認するために行うのだ、とのこと(田中に対し、「こうすると生きようとする力が働くの、魚の臭いがするの」などと話しています)。
(注3)ある時は、子供を抱っこしながら階段の踊り場で下を見たら、子供を手放して落としてしまったと思って、「救急車を呼んで!」と叫びながら階段を慌てて駆け下りますが、落ちた辺りには子供の姿はありません。おかしいと思って自分の部屋に戻ると、子供はいつものようにスヤスヤと寝ています。
また他の時は、台所で子供を抱いて料理をしていると、料理を焦がした上にこぼしてしまったため、鍋を放り投げてしまいます。子供も火がついたように泣き叫びます。
(注4)子供がいないときは、彼女は不動産屋で働いています(広告のチラシにマジックでアンダーラインなどを引くだけの作業ですが)。
(注5)沖縄では、姉の子供たちも交えて砂浜で遊んだり、折り鶴を折ったりと、楽しい時間を過ごし、精神状態も快調なのですが、いつまでもというわけにいきません。
(注6)田中は、「あなたと会ったのは運命というか必然であって、結婚を前提とした真面目なお付き合いをしてもらいたい」と彼女に申し込みます。
彼女は笑って、彼の手にフォークを突き刺します。
でも彼は懲りずに、何度も彼女の部屋の前に立って、ケーキを食べてくれとかデートをしてくれなどと迫ってきます。そのたびに彼女は、フォークを振り上げて彼を撃退します。
(注7)彼の小説『月をみがく男』が鶴川文学賞を受けたとのニュースがTV画面に流れます。
KOTOKOは、同小説を書店で買って読むのです。
(注8)田中は、「作家をやめて、あなたを好きで居続ける、というのが仕事だったらいいのに」などというまでになります。
(注9)オリジナル曲のタイトルは、「w/out u」(あなたなしで)、「のの様」、「Lollypop」(ぺろぺろキャンディー)。
(注10)ネットの国語辞書によれば、「のの」とは、「神仏・日月など、尊ぶべきものをさしていう幼児語」とのこと。
なお、「のの様」の歌は、琴子と田中との関係が良好になって、「もう一人の田中がいないかと探したがいなかった」」「世界が一つになった」状況の下で歌われます。
(注11)田中の小説のタイトルが「月をみがく男」とされている点も思い起こされます。
(注12)本作においても、琴子は、同じような内容の話をベランダにいる田中に対して話しています。
(注13)『コトコノコ』の「01.Mum」には、「「子供」だった私にとって、/「母親」は全てだった。/あまりにも絶対的な存在だった。/それはつまり崇拝であり、/また当たり前でもあった」などと書かれています(P.6)。
また、その「17.無題」にも、「ママを見ていた私/ママがすべてだった私/完璧であったはずがないのに/私が信じて疑わなかったもの」などとあります(P.113)。
(注14)「規範的な判断がそこへと帰属していることの(人々の)認知によって、社会的に一般化された妥当性を獲得することになる超越的な他者」〔大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』岩波新書、2012.3〕(P.43)。同書においては、「神」、「世間」、「空気が読めないというとき」の「空気」といったものが例示として挙げられています〔また、同氏の『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)では、市場に働く「神の見えざる手」などが挙げられています〕(P.138)。
(注15)本作において、琴子は、「大二郎が、知らないところで、知らない人に引きずりまわされるのは嫌だ。……それくらいなら私が殺してあげる」といって大二郎に馬乗りになります。
似たような言葉は、『コトコノコ』の「12.the end」の中にも見出されます(P.78)。
(注16)琴子が正気に戻ると、自分が精神病院に入っていることがわかり、息子・大二郎との面会シーンとなります。そこには少年の大二郎が面会に来ていて、自分の境遇がよく飲み込めていない琴子は、うまく会話が出来ないながらも、立ち去る少年を見送る様子には、落ち着いた雰囲気が漂い始めています。
★★★★☆
(1)かなり以前に、本作の塚本晋也監督の『鉄男』(1989年)をDVDで見てから興味を惹かれて、その作品を少しずつDVDで見たり劇場で見たりしてきたので、本作にも大いに関心があったところです。
実際に見てみると、本作において主演のCoccoは、歌手としてだけでなく俳優としても凄い才能のあるところを如何なく発揮していて(注1)、感動的ですらあります。
ただ、塚本監督の作品はどれもなかなか難しく、すんなりと理解できるわけではありませんが、本作も、子供に対する深い愛というところはよくわかるにしても、それ以上となるとなかなか近づき難いところがあります。
なにしろ、本作においては、沖縄出身の歌手Coccoが演じるシングルマザーの琴子(KOTOKO)は、子育てにのめり込むあまり、世界が二つに見える精神障害を患っているのです(注2)。
例えば、近所の女性が、琴子が抱いている赤ん坊・大二郎が可愛いと寄ってくると、その背後に怖い顔をして彼女を睨みつける同じ女性が見えてしまいます。そして、そちらの怖い顔をした女の方が寄ってくると、琴子は我が子を守ろうと無茶苦茶に暴れるのです。
こうしたことが度重なって(注3)、ついに、幼児虐待の恐れありとのことで、我が子とは切り離されて、大二郎を琴子の姉の家(沖縄)に預けざるを得なくなってしまいます(注4)。
そうしたところ、姉の方から電話があって、沖縄で暮らす大二郎に会いに行きます(注5)。途中、バスの中で独りで琴子が沖縄の歌を歌っていたところ、それに感動した小説家の田中(塚本晋也)が、彼女に執拗に付きまとうことになります(注6)。
彼は、有名な文学賞を受賞するほどの才能を持った作家にもかかわらず(注7)、自分を投げうってまで琴子を惨状から救い出そうとするのですが(注8)、はたしてうまくいくでしょうか、そして……?
こうまとめてしまうとなんだかわかったような感じになるものの、実際の映像はなかなか凝ったものがあり、それぞれに何か別の意味が込められているようでもあり、様々にこちらの想像力等を駆使して考えてみなければいけないのでは、と見る者を強いる気がします。
(2)よくわからないながらも、一つの手がかりはCoccoが本作中で歌う歌かもしれません。
彼女は、八重山民謡を歌い、さらにエンディングテーマ曲などオリジナル曲3曲を歌いますが(注9)、八重山民謡のタイトルは「月(ちち)ぬ美(かい)しゃ」であり、また一つのオリジナル曲のタイトル「のの様」も(注10)、Coccoが書いた『コトコノコ』(幻冬舎、2012.3)に掲載されている英訳では「The moon」とされていますから、どちらも「月」に関係する歌といえるでしょう(注11)。
さらに、同書の「09.銀河系太陽区」には、「潮の満ち引きの絡繰りを訊ねると、ママは海の神様のお話をしてくれるような人だった。パパは「それは起潮力といって、月と太陽の引力が……」と熱く語る人だった」とあって、「月」が両親の話と繋げられています(P.60)。
さらに、同じ「09.銀河系太陽区」では、「地球のような惑星の存在を銀河系の恒星の数に当てはめると1000億にも2000億も有り得るということにな」り、「」どこかで誰かや何かがきっと生きていて/向こうも地球のことを想定しているかもしれない」などとも言われています(P.61)(注12)。
ここら辺りを見ると、子供と親という関係が宇宙全体というマクロな観点から見られていることが分かります。
同時に、本作においては母親としての琴子とその子供大二郎との関係が中心的に描かれていますが、そこには、もしかしたらCoccoとその両親、特にその母親とのミクロの関係が投影されているのかもしれません(注13)。
大二郎は琴子と離れ、沖縄の実家の姉夫婦のもとで暮らしたりするのですから、その出自にも十分に触れることになるでしょう。
(3)もう一つは、もっと不分明ながら、これまでの『鉄男』シリーズとの繋がりです。
本作においては、同じ人間が、琴子の目からすると二重に見えるわけですが、一人は穏やかでありながら、もう一人は酷く恐ろしい顔つきをしていて、暫くすると琴子を襲ってくるのです。
その際には、画面が酷く揺れ大音響がとどろきます。
とすれば、映画『鉄男』シリーズの鉄男ではないでしょうか?
例えば、『鉄男 The Bullet Man』(2009年)においては、外資系企業に勤めるアメリカ人のアンソニーの肉体は、息子を轢き殺された怒りによって鋼鉄に変貌するのですが、その際にも似たような映像の揺れがあり音響が響き渡るのです。
そういうところから、本作において琴子がもう一人の人間によって襲われるのは、あるいは、神の“怒り”に触れたような感じがしないでもありません。
すなわち、シングルマザーとして大二郎を育てることについて琴子が内心抱いている後ろめたさから、そういったもの〔さらにいえば、社会的規範、エス、あるいは「第3者の審級」(注14)といったもの〕が攻撃してくるように琴子は妄想するのではないでしょうか?
そうした攻撃も、田中の献身的な努力で消え去ります(「注10」参照)。でも、最後にはまだ子供との対決が残っていたのです。
しかしながら、それには耐えきれなくなり、ついに自分で大二郎を絞め殺そうとして(注15)、……(注16)。
なお、『鉄男』シリーズにおいて塚本晋也監督が扮する“やつ”は、鉄男を挑発し“怒らせ”ながらiron manとしてレベルアップさせようとするわけですが、本作においても、同監督が扮する小説家・田中は、ストーカーとして琴子に付きまとい、何かと言っては登場するために、琴子の激しい怒りを買って、フォークで両手を突き刺されたり、顔面を酷く殴られたりします。
とすると、ここでは、琴子が“鉄男”的なものに攻撃されるのではなく、逆に琴子が“鉄男”的な存在となって“やつ”としての田中を襲うのだ、というようにも思われます。
(4)渡まち子氏は、「監督が最も尊敬するシンガーだというCoccoは、これが映画初主演だが、狂気と癒しが幾層にも重なり合って、圧倒的なエネルギーを発散している。東日本 大震災以降の、子を守ろうと過剰反応する現代の空気が奇しくも映画に盛り込まれ、単なる異色作の枠に収まらない余韻を残した」として65点を付けています。
(注1)Coccoは、劇映画初主演とのこと。
(注2)さらには、時折リストカットします(腕には、その傷跡が何本も走っています)。これは、彼女に言わせれば、死にたいからするのではなく、自分が消えてしまいそうな時に自分を確認するために行うのだ、とのこと(田中に対し、「こうすると生きようとする力が働くの、魚の臭いがするの」などと話しています)。
(注3)ある時は、子供を抱っこしながら階段の踊り場で下を見たら、子供を手放して落としてしまったと思って、「救急車を呼んで!」と叫びながら階段を慌てて駆け下りますが、落ちた辺りには子供の姿はありません。おかしいと思って自分の部屋に戻ると、子供はいつものようにスヤスヤと寝ています。
また他の時は、台所で子供を抱いて料理をしていると、料理を焦がした上にこぼしてしまったため、鍋を放り投げてしまいます。子供も火がついたように泣き叫びます。
(注4)子供がいないときは、彼女は不動産屋で働いています(広告のチラシにマジックでアンダーラインなどを引くだけの作業ですが)。
(注5)沖縄では、姉の子供たちも交えて砂浜で遊んだり、折り鶴を折ったりと、楽しい時間を過ごし、精神状態も快調なのですが、いつまでもというわけにいきません。
(注6)田中は、「あなたと会ったのは運命というか必然であって、結婚を前提とした真面目なお付き合いをしてもらいたい」と彼女に申し込みます。
彼女は笑って、彼の手にフォークを突き刺します。
でも彼は懲りずに、何度も彼女の部屋の前に立って、ケーキを食べてくれとかデートをしてくれなどと迫ってきます。そのたびに彼女は、フォークを振り上げて彼を撃退します。
(注7)彼の小説『月をみがく男』が鶴川文学賞を受けたとのニュースがTV画面に流れます。
KOTOKOは、同小説を書店で買って読むのです。
(注8)田中は、「作家をやめて、あなたを好きで居続ける、というのが仕事だったらいいのに」などというまでになります。
(注9)オリジナル曲のタイトルは、「w/out u」(あなたなしで)、「のの様」、「Lollypop」(ぺろぺろキャンディー)。
(注10)ネットの国語辞書によれば、「のの」とは、「神仏・日月など、尊ぶべきものをさしていう幼児語」とのこと。
なお、「のの様」の歌は、琴子と田中との関係が良好になって、「もう一人の田中がいないかと探したがいなかった」」「世界が一つになった」状況の下で歌われます。
(注11)田中の小説のタイトルが「月をみがく男」とされている点も思い起こされます。
(注12)本作においても、琴子は、同じような内容の話をベランダにいる田中に対して話しています。
(注13)『コトコノコ』の「01.Mum」には、「「子供」だった私にとって、/「母親」は全てだった。/あまりにも絶対的な存在だった。/それはつまり崇拝であり、/また当たり前でもあった」などと書かれています(P.6)。
また、その「17.無題」にも、「ママを見ていた私/ママがすべてだった私/完璧であったはずがないのに/私が信じて疑わなかったもの」などとあります(P.113)。
(注14)「規範的な判断がそこへと帰属していることの(人々の)認知によって、社会的に一般化された妥当性を獲得することになる超越的な他者」〔大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』岩波新書、2012.3〕(P.43)。同書においては、「神」、「世間」、「空気が読めないというとき」の「空気」といったものが例示として挙げられています〔また、同氏の『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)では、市場に働く「神の見えざる手」などが挙げられています〕(P.138)。
(注15)本作において、琴子は、「大二郎が、知らないところで、知らない人に引きずりまわされるのは嫌だ。……それくらいなら私が殺してあげる」といって大二郎に馬乗りになります。
似たような言葉は、『コトコノコ』の「12.the end」の中にも見出されます(P.78)。
(注16)琴子が正気に戻ると、自分が精神病院に入っていることがわかり、息子・大二郎との面会シーンとなります。そこには少年の大二郎が面会に来ていて、自分の境遇がよく飲み込めていない琴子は、うまく会話が出来ないながらも、立ち去る少年を見送る様子には、落ち着いた雰囲気が漂い始めています。
★★★★☆
確かに「覚醒剤の中毒症状」によってkotokoにあのような精神障
害が生じているのかもしれません。
ただ、映画の中で彼女が覚醒剤を使用しているシーンは描かれては
いなかったように思うのですが?