
『マイ・バック・ページ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。
(1)こうした40年ほども昔の、それも学生闘争という特殊な事柄を扱った映画なら、入りがかなり悪いのではと思っていたところ、日曜日に見たせいかもしれませんが、吉祥寺の映画館でもかなり観客が入っていました。
おそらく、人気の高い妻夫木聡や松山ケンイチが出演するというので、若い観客が随分と見に来ていたのではと思われます。
映画を見てみますと、実際にあった赤衛軍事件(注1)を巡るお話で、主人公の沢田(妻夫木聡)は、事件に関与したことで逮捕され、勤めていた新聞社も辞めざるを得なくなってしまいます。
他方、その事件の首謀者である梅山(松山ケンイチ)は、実際には手を下していなかったことから、京都にいたカリスマ的な運動家の指示に従ったまでなどと、警察に捕まってからもなんとか言い逃れようとするものの、裁判で15年の実刑を食らってしまいます。
こうした背景の中で、沢田は、あくまでも心情左派的な行動をとろうとし、また梅山は、銃器を奪取してカリスマ運動家として世の喝采を浴びようと画策します。
とはいえ、当時の事情や雰囲気をある程度知らなければ、なんでそんな特異な行動を2人が取ろうとするのか、若い観客にはなかなかついていけないのではないか、と思われます。
というのも、沢田の行動は、当時の朝日新聞の持っていた雰囲気の中で許されていたものでしょうし(この映画の中でも描かれている1971年の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」掲載号回収事件くらいから、どんどんその傾向は右旋回していきますが)、梅山の銃器奪取という行動も、三里塚闘争など一連の出来事を踏まえないと唐突過ぎるのではと思われますから。
でもこの映画では、そうした時代状況と密接に絡みつく事柄ばかりを読み取るべきではないのでしょう。むしろ、この映画については、様々の次元から議論できるといえるでしょう。
例えば、当時の学生運動や左派の活動をよく知る人は、自分が見聞きしたこととこの映画の映像とを比べて批判できるでしょうし、あるいは歴史的な視点から、当時の学生運動とか新聞社のあり方といった点を議論できるかもしれません。
あるいは、青春の一時期に何事かに邁進することの意義のような点を取り上げればいいかもしれません。
また、この映画からは、原作者が述べている「ジャーナリストとしてはあくまでも(取材源の)犯人を秘匿するのか、それとも市民として犯人を警察に通報すべきなのか」(P.126)という問題提起―現在でも依然として未解決の―を読み取ることもできるでしょう。
ただ、それらについては、既に様々なブログで論じられているようですから、ここで屋上屋を重ねるまでもないと思います。
この映画では、沢田は、最初のうち、梅山が引き起こす事件についての語り部的な存在であり、言ってみればこの映画の狂言回しのような役割を果たしていますが、ラストまで見てみると、決してそうではなく、ジャーナリストとしての沢田の生きざまをこの映画が描きたかったのだな、と思えてきます。

先輩が止めるのを聞かずに、CCRの歌が好きで、宮澤賢治の童話を愛読しているということで梅山をどこまでも信じてしまう、心の優しい沢田を、妻夫木聡は大変巧みに演じていると思いました。
また、もう一方の梅山役の松山ケンイチも、大言壮語ばかりしている偽者の革命家ながらも、実際に「雨を見たかい」や『銀河鉄道の夜』が好きで沢田を信じさせるものを持っている若者でもあるという難役を、いかにもという感じで演じていて感心いたしました。

(2)本作品については、社会学者の大澤真幸氏の論評(注2)がなかなか興味深い点を指摘しています。
すなわち、同エッセイによれば(かなり大雑把な要約にすぎませんが)、
イ)沢田は、当初は梅山を信じたものの、後になって「裏切られた」と思ってしまうわけだが、そうした2人の「関係は、多くの一般の日本人と連合赤軍との関係を先取りしていた」といえよう(後者の場合、「連合赤軍と名乗る活動家たち」が「あさま山荘にこもり、警察と銃撃戦をした」が、「彼ら活動家をひそかに応援していた日本人はすくなからずいたはず」だが、「連合赤軍のメンバーが逮捕された後」、「総括」のことを知って「状況は一変した」)(注3)。
ロ)沢田があとで後悔する破目になるのは、梅山は「理想を持たない革命家、革命家であることだけを目的とする革命家」である一方、沢田は、「社会を外から観察し続けるジャーナリストではあるが、しかし「理想」なるものに憧れている」のであって、「空虚な革命家梅山の中に、理想を読み込んでしま」い、「梅山に騙され」たからだ。
ハ)もっと言えば、「梅山のような凡庸な人物にも、ユートピア的な期待にあたるものが付着して」いて、「それこそが、宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」なのだが、「沢田はその部分を信じたのである」。
ニ)だから、「沢田が失敗した原因」は、彼の人を見る能力のなさにあるわけではなく、むしろ「他のジャーナリストが見ることができなかったものまでをも梅山の中に見出すことができたこと」にこそある。

以上は、主に沢田についての一つの見方と言えるでしょう。それでは、梅山に関してはどうでしょうか?
大澤氏は、最後に挙げた点を別な風にも述べています。
「未来の方から遡及的に見返したときに十分にとらえられるような潜在的な期待が、まさに現在自体の中にあるのだ」。
逆に言えば、仮に将来革命が成就した暁には、梅山の「宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」こそが、革命への希求を表していたと理解されるようになるだろう、ということになるのではないでしょうか?
この点は、もしかしたら、自衛隊駐屯地で起きた事件について自分がわざわざ沢田に語ったにもかかわらず雑誌の記事として掲載されなかったことに関し、梅山が、自分こそが真の革命家だということを世の中にわからせることができたはずだったのに、と沢田を責めるところにもあるいは通じるのかもしれません。
というのも、革命そのものではなくとも、そこに通じるとみなされる事件を引き起こしたことが分かってもらえれば、自分のこれまでの行動はすべて革命のためのものだったと世の中の人は理解するだろう、と梅山は言いたいのではと思われます。
こうして考えてみると、確かに、梅山の独りよがりで貧弱な行動を映画で見てきた観客にとっては、自己を余りに過大視しているだけの単なる言い訳にしか思えませんが、ただまったくの遁辞ではないようにも思えてきます(注4)。
(3)映画には、主人公の沢田が映画館に入って川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)を見るシーンがあります(注5)。
この作品は以前自分でDVDに収録したことがあるので、棚の奥から引っ張り出して見てみると、映画で映し出されている場面は、冒頭の橋のシーンです(注4)。
宿泊先に当てのない新珠三千代(蔦枝)と三橋達也(義冶)とが、これからどうしようかと言い争いをして、新珠三千代は、「あんた男でしょ。いやになっちゃう。いつでもあたしにばかり頼るのだから」と三橋達也を責めます(そして、新珠三千代は、折よくやってきたバスに乗り「洲崎弁天町」まで行きます。三橋達也も後を追いかけるのですが、……)。
『洲崎パラダイス赤信号』で描かれている洲崎パラダイスは、映画で設定されている時代より10年以上も前に廃止されていますから、わざわざその映像の一部を取り入れたのは、時代の雰囲気を観客に分からせるためという訳でもなさそうです。
おそらく、このサイトの記事が述べているように、原作者の川本三郎氏がその映画が「相当お気に入り」だからなのでしょう。
ただ、『洲崎パラダイス赤信号』を見ると、本作品に足りないものも見えてきます。仮に、新珠三千代のような大人の女性が登場したら、映画の雰囲気ががらりと変わることでしょう。
生憎とそんなことはなく、沢田が一緒に映画館に行くようになる相手は、週刊誌の表紙モデルですが高校生に過ぎませんし、また梅山の恋人も20歳の活動家なのです。

年齢のことはともかく、もう少し女性の役割を大きなものにしたら、この映画もズッと深みを増しただろうにと思った次第です。
(4)映画評論家は、総じて好意的なように思われます。
まず、福本次郎氏は、映画は「他の者ではない何者かになりたい2人が出会い、己を取り巻く世界と格闘しながら自分とは何かを問い続け、答えを探してもがき苦しむ姿を描く」として80点をつけています。
また、渡まち子氏は、「薄気味の悪い活動家役の松山ケンイチが、終始、作品をリードしているかに見えるが、最後の最後に、妻夫木聡が涙を流す入魂の演技で一気に形勢が逆転する。苦い後悔と青春の終焉、人と距離を置いて生きる今の孤独な自分。それらすべてがないまぜになった、この泣くシーンは見事だ」として70点をつけています。
ただ、前田有一氏は、「こうした過去話というものは、「かつて僕たちはこうでした。それなりに頑張ってました、てへへ」では仕方がない。シンパシーを感じられる同世代観客が楽しめるだけでは凡作であり、私としても高く評価はできない」ものの、「幸いにして『マイ・バック・ページ』は、似た過ちを繰り返す人々が目の前にたくさんいるという、偶然の社会情勢によって2011年の今、存在する意義を得た」として55点をつけています。
(注1)陸上自衛隊駐屯地で歩哨中の自衛官が殺された1971年に起きたテロ事件。 なお、詳しくは、ここで。
(注2)雑誌『ユリイカ』6月号「特集 山下敦弘」に掲載された「なんでおれ(たち)はあいつのことを信じちゃったのか?」。
(注3)原作本でも、連合赤軍事件について、「「連帯」や「変革」といった夢の無残な終わりだった」と述べられています(P.205).
(注4)この点は、『ミスター・ノーバディ』についての記事の(2)で取り上げた同じ大澤真幸氏の『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)にも通じるのでは、と考えます。
そこでは、量子力学との関連性が論じられつつ、「過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ」。「今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれない」云々と述べられています(P.234)。
ですから、事件で果たした梅山の行動が、なんらかでも革命に連なるものと一度世の中に理解されれば、彼の過去の誇大妄想的な行動も、すべて革命的なものとみなされることになるのかもしれません。
(注5)この橋について、クマネズミには「永代橋」のように思えるところ、川本三郎氏は、『銀幕の東京』(中公新書)において「勝鬨橋」とし(P.40)、他方このサイトでは「吾妻橋」とされています。
なお、『銀幕の東京』によれば、「洲崎」は、戦前は遊郭のあった場所で、それが3月10日の東京大空襲で焼け野原になったところに「特飲街」(いわゆる赤線でしょう)が出来たとのこと(P.44)。
★★★★☆
象のロケット:マイ・バック・ページ
(1)こうした40年ほども昔の、それも学生闘争という特殊な事柄を扱った映画なら、入りがかなり悪いのではと思っていたところ、日曜日に見たせいかもしれませんが、吉祥寺の映画館でもかなり観客が入っていました。
おそらく、人気の高い妻夫木聡や松山ケンイチが出演するというので、若い観客が随分と見に来ていたのではと思われます。
映画を見てみますと、実際にあった赤衛軍事件(注1)を巡るお話で、主人公の沢田(妻夫木聡)は、事件に関与したことで逮捕され、勤めていた新聞社も辞めざるを得なくなってしまいます。
他方、その事件の首謀者である梅山(松山ケンイチ)は、実際には手を下していなかったことから、京都にいたカリスマ的な運動家の指示に従ったまでなどと、警察に捕まってからもなんとか言い逃れようとするものの、裁判で15年の実刑を食らってしまいます。
こうした背景の中で、沢田は、あくまでも心情左派的な行動をとろうとし、また梅山は、銃器を奪取してカリスマ運動家として世の喝采を浴びようと画策します。
とはいえ、当時の事情や雰囲気をある程度知らなければ、なんでそんな特異な行動を2人が取ろうとするのか、若い観客にはなかなかついていけないのではないか、と思われます。
というのも、沢田の行動は、当時の朝日新聞の持っていた雰囲気の中で許されていたものでしょうし(この映画の中でも描かれている1971年の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」掲載号回収事件くらいから、どんどんその傾向は右旋回していきますが)、梅山の銃器奪取という行動も、三里塚闘争など一連の出来事を踏まえないと唐突過ぎるのではと思われますから。
でもこの映画では、そうした時代状況と密接に絡みつく事柄ばかりを読み取るべきではないのでしょう。むしろ、この映画については、様々の次元から議論できるといえるでしょう。
例えば、当時の学生運動や左派の活動をよく知る人は、自分が見聞きしたこととこの映画の映像とを比べて批判できるでしょうし、あるいは歴史的な視点から、当時の学生運動とか新聞社のあり方といった点を議論できるかもしれません。
あるいは、青春の一時期に何事かに邁進することの意義のような点を取り上げればいいかもしれません。
また、この映画からは、原作者が述べている「ジャーナリストとしてはあくまでも(取材源の)犯人を秘匿するのか、それとも市民として犯人を警察に通報すべきなのか」(P.126)という問題提起―現在でも依然として未解決の―を読み取ることもできるでしょう。
ただ、それらについては、既に様々なブログで論じられているようですから、ここで屋上屋を重ねるまでもないと思います。
この映画では、沢田は、最初のうち、梅山が引き起こす事件についての語り部的な存在であり、言ってみればこの映画の狂言回しのような役割を果たしていますが、ラストまで見てみると、決してそうではなく、ジャーナリストとしての沢田の生きざまをこの映画が描きたかったのだな、と思えてきます。

先輩が止めるのを聞かずに、CCRの歌が好きで、宮澤賢治の童話を愛読しているということで梅山をどこまでも信じてしまう、心の優しい沢田を、妻夫木聡は大変巧みに演じていると思いました。
また、もう一方の梅山役の松山ケンイチも、大言壮語ばかりしている偽者の革命家ながらも、実際に「雨を見たかい」や『銀河鉄道の夜』が好きで沢田を信じさせるものを持っている若者でもあるという難役を、いかにもという感じで演じていて感心いたしました。

(2)本作品については、社会学者の大澤真幸氏の論評(注2)がなかなか興味深い点を指摘しています。
すなわち、同エッセイによれば(かなり大雑把な要約にすぎませんが)、
イ)沢田は、当初は梅山を信じたものの、後になって「裏切られた」と思ってしまうわけだが、そうした2人の「関係は、多くの一般の日本人と連合赤軍との関係を先取りしていた」といえよう(後者の場合、「連合赤軍と名乗る活動家たち」が「あさま山荘にこもり、警察と銃撃戦をした」が、「彼ら活動家をひそかに応援していた日本人はすくなからずいたはず」だが、「連合赤軍のメンバーが逮捕された後」、「総括」のことを知って「状況は一変した」)(注3)。
ロ)沢田があとで後悔する破目になるのは、梅山は「理想を持たない革命家、革命家であることだけを目的とする革命家」である一方、沢田は、「社会を外から観察し続けるジャーナリストではあるが、しかし「理想」なるものに憧れている」のであって、「空虚な革命家梅山の中に、理想を読み込んでしま」い、「梅山に騙され」たからだ。
ハ)もっと言えば、「梅山のような凡庸な人物にも、ユートピア的な期待にあたるものが付着して」いて、「それこそが、宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」なのだが、「沢田はその部分を信じたのである」。
ニ)だから、「沢田が失敗した原因」は、彼の人を見る能力のなさにあるわけではなく、むしろ「他のジャーナリストが見ることができなかったものまでをも梅山の中に見出すことができたこと」にこそある。

以上は、主に沢田についての一つの見方と言えるでしょう。それでは、梅山に関してはどうでしょうか?
大澤氏は、最後に挙げた点を別な風にも述べています。
「未来の方から遡及的に見返したときに十分にとらえられるような潜在的な期待が、まさに現在自体の中にあるのだ」。
逆に言えば、仮に将来革命が成就した暁には、梅山の「宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」こそが、革命への希求を表していたと理解されるようになるだろう、ということになるのではないでしょうか?
この点は、もしかしたら、自衛隊駐屯地で起きた事件について自分がわざわざ沢田に語ったにもかかわらず雑誌の記事として掲載されなかったことに関し、梅山が、自分こそが真の革命家だということを世の中にわからせることができたはずだったのに、と沢田を責めるところにもあるいは通じるのかもしれません。
というのも、革命そのものではなくとも、そこに通じるとみなされる事件を引き起こしたことが分かってもらえれば、自分のこれまでの行動はすべて革命のためのものだったと世の中の人は理解するだろう、と梅山は言いたいのではと思われます。
こうして考えてみると、確かに、梅山の独りよがりで貧弱な行動を映画で見てきた観客にとっては、自己を余りに過大視しているだけの単なる言い訳にしか思えませんが、ただまったくの遁辞ではないようにも思えてきます(注4)。
(3)映画には、主人公の沢田が映画館に入って川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)を見るシーンがあります(注5)。
この作品は以前自分でDVDに収録したことがあるので、棚の奥から引っ張り出して見てみると、映画で映し出されている場面は、冒頭の橋のシーンです(注4)。
宿泊先に当てのない新珠三千代(蔦枝)と三橋達也(義冶)とが、これからどうしようかと言い争いをして、新珠三千代は、「あんた男でしょ。いやになっちゃう。いつでもあたしにばかり頼るのだから」と三橋達也を責めます(そして、新珠三千代は、折よくやってきたバスに乗り「洲崎弁天町」まで行きます。三橋達也も後を追いかけるのですが、……)。
『洲崎パラダイス赤信号』で描かれている洲崎パラダイスは、映画で設定されている時代より10年以上も前に廃止されていますから、わざわざその映像の一部を取り入れたのは、時代の雰囲気を観客に分からせるためという訳でもなさそうです。
おそらく、このサイトの記事が述べているように、原作者の川本三郎氏がその映画が「相当お気に入り」だからなのでしょう。
ただ、『洲崎パラダイス赤信号』を見ると、本作品に足りないものも見えてきます。仮に、新珠三千代のような大人の女性が登場したら、映画の雰囲気ががらりと変わることでしょう。
生憎とそんなことはなく、沢田が一緒に映画館に行くようになる相手は、週刊誌の表紙モデルですが高校生に過ぎませんし、また梅山の恋人も20歳の活動家なのです。

年齢のことはともかく、もう少し女性の役割を大きなものにしたら、この映画もズッと深みを増しただろうにと思った次第です。
(4)映画評論家は、総じて好意的なように思われます。
まず、福本次郎氏は、映画は「他の者ではない何者かになりたい2人が出会い、己を取り巻く世界と格闘しながら自分とは何かを問い続け、答えを探してもがき苦しむ姿を描く」として80点をつけています。
また、渡まち子氏は、「薄気味の悪い活動家役の松山ケンイチが、終始、作品をリードしているかに見えるが、最後の最後に、妻夫木聡が涙を流す入魂の演技で一気に形勢が逆転する。苦い後悔と青春の終焉、人と距離を置いて生きる今の孤独な自分。それらすべてがないまぜになった、この泣くシーンは見事だ」として70点をつけています。
ただ、前田有一氏は、「こうした過去話というものは、「かつて僕たちはこうでした。それなりに頑張ってました、てへへ」では仕方がない。シンパシーを感じられる同世代観客が楽しめるだけでは凡作であり、私としても高く評価はできない」ものの、「幸いにして『マイ・バック・ページ』は、似た過ちを繰り返す人々が目の前にたくさんいるという、偶然の社会情勢によって2011年の今、存在する意義を得た」として55点をつけています。
(注1)陸上自衛隊駐屯地で歩哨中の自衛官が殺された1971年に起きたテロ事件。 なお、詳しくは、ここで。
(注2)雑誌『ユリイカ』6月号「特集 山下敦弘」に掲載された「なんでおれ(たち)はあいつのことを信じちゃったのか?」。
(注3)原作本でも、連合赤軍事件について、「「連帯」や「変革」といった夢の無残な終わりだった」と述べられています(P.205).
(注4)この点は、『ミスター・ノーバディ』についての記事の(2)で取り上げた同じ大澤真幸氏の『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)にも通じるのでは、と考えます。
そこでは、量子力学との関連性が論じられつつ、「過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ」。「今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれない」云々と述べられています(P.234)。
ですから、事件で果たした梅山の行動が、なんらかでも革命に連なるものと一度世の中に理解されれば、彼の過去の誇大妄想的な行動も、すべて革命的なものとみなされることになるのかもしれません。
(注5)この橋について、クマネズミには「永代橋」のように思えるところ、川本三郎氏は、『銀幕の東京』(中公新書)において「勝鬨橋」とし(P.40)、他方このサイトでは「吾妻橋」とされています。
なお、『銀幕の東京』によれば、「洲崎」は、戦前は遊郭のあった場所で、それが3月10日の東京大空襲で焼け野原になったところに「特飲街」(いわゆる赤線でしょう)が出来たとのこと(P.44)。
★★★★☆
象のロケット:マイ・バック・ページ

















拙ブログにTBをありがとうございました。
ξ(⌒ ワ ⌒ξ
私はこの時代から大分離れた世代でよく分からない事だらけです。
昭和30年代生まれの方は浅間山荘事件にも共感出来る世代のようですね。
何が原因で社会にフラストレーションが溜まるのか…。
恐らく貧しさと敗戦のコンプレックスが根底にあるのかな?と私は思うのですがどうなのでしょうか。
この映画には確かに大人の女性達は出て来ませんね。
不自然ですが…。
さらに彼らの親世代との繋がりが描かれて無いのが残念です。
最後の警察がやって来てドアから出て来た女の子の顔が忘れられません。
ぼんやりとした表情から梅山を想って微笑むシーンは梅山の夢物語の終わりと、これから待ち受ける彼女達の罰を考えるとやりきれませんね。
でも、捕まった事で救われたんだとも思います。
暗いやりきれない気持ちにはなりましたが、駄作では無いな、と思わせる何かがある映画だと思いました。
生意気な事をすみません。失礼いたします。
さて、「愛知女子」さんが、「よく分からない事だらけ」とおっしゃるように、若い方は、大学闘争など現在はマッタク眼にすることがないために、どうしてあんなことが起きたのだろうと疑問に思われることでしょう。
ですが、世代が上で当時をよく知る人たち(団塊の世代でしょうか)だからといって、事態がよくわかるものでもないでしょう。
まして、学生運動はフランスなど世界各地で激しいものがあったようですから、日本特有の背景だけを考えても、それだけで理解するのは難しいのではないでしょうか?
とすると、こうした映画については、どんな世代の人が見て何を言おうとも、マッタク構わないように思えます。
むしろ、当時のことを何も知らない世代の人が見て、イロイロこの映画について批判する方が新鮮であり、また有益なのではないでしょうか?なにしろ、35歳の監督がこの映画を制作しているのですから(注)!
それで、そういった流れに棹さすべく、クマネズミも、矮小に描かれている梅山にも見るべき点があるのではないかとか、この映画では女性が上手く描かれてはいないのではないか、といった点を挙げてみたわけですが。
また、そういうことから、「愛知女子」さんの、「最後の警察がやって来てドアから出て来た女の子の顔が忘れられません」とのコメントは実に貴重なものだと思いました。
(注)雑誌『シナリオ』7月号の「桂千穂の映画館へ行こう」では、お年寄りの脚本家や批評家がこの作品を酷く貶していますが、すべて原作及び原作者についてのものなので、唖然としてしまいました!
「雑誌シナリオ」を初めて手に取りました。
書店で立ち読みですが、教えていただいた部分を読んでみました。
沢田が梅山に惹かれる理由があれだけなんて可笑しいみたいな事が書かれていましたね。
私は、人に惹かれるのにそもそも理由なんているのかな?と思いました。
今Kさんがこの映画を観たら何と言うんだろうか?と考えたりしました。そして、もし川本さんとKさんが再会したらどうなるんだろう…と。
今、彼らはどうしているでしょうね。
ではでは失礼いたします。
わざわざ再コメントをいただき、ありがとうございます。
「雑誌シナリオ」に目を通されたとのことですが、どうして原作者のことをあれだけ一方的に批判できるのだろうか、こんなに文学が分からない人がどうしてシナリオなど書けるのだろうか、と思ってしまいました。
なお、クマネズミには、沢田と梅山というように架空の名前が付けられているキャラクターのモデルが、実際にどういう人物なのか、彼らが今どうしているかといった事柄について殆ど関心がないところです(川本氏は、先頃最愛の奥様を亡くされましたが〔『今も、君を想う』〕、文芸評論家として相変わらず精力的に活動されているようですが)〔折角コメントをいただきながら、こんなことを言ってしまい、誠に申し訳ありません〕。
ROM専で、なかなか伺えなくて申し訳ありませんでした。
記事に書きました「倉田さんが言ってくれた」事について
クマネズミさんの記事にそのままある気がしますが
私は、川本氏のもう一つ下の年代〜
彼らの行動の総てを知ってしまって批判してきた年代なんですが
もし、この時代に自分が身を置いていたら
「どちらかと言うと賛成していた」と、なっていたのではと、思います。
そして、「でも、今回の事(人を死に至らしめた事)に関しては、違うと思う」
彼女の言葉に大いに頷いてしまったという事です。
もちろん、「きちんと泣ける男が好き」です。
クマネズミは、コメントに関しては、次のように考えています(随分偉そうなことを書いてしまい、申し訳ありません)。
・映画についての一般的な感想は、ブログ本文に書くこととして、コメントには書かない。
・コメントには、投稿先のブログ本文の内容に即したことを書く。
というわけで、「ほし★ママ」さんのブログへのコメントでも、あのようなことを書いてしまいました。
としたところ、わざわざこちらにその返事を書いていただき、大変恐縮いたしております。
なお、「ほし★ママ」さんが、倉田が話した言葉のうち、「でも、今回の事(人を死に至らしめた事)に関しては、違うと思う」の部分を指しておられるとしたら、それは原作本の「幸福に恵まれた女の子の死」の章には見当たりません。
何しろ原作本では、「彼女にとっては私など編集部の一部員にしか過ぎず、たまたま年が近かったので一度、映画に行っただけのことに過ぎなかったのだと思う」とあるくらいですから(P.44)。
従って、あるいは「山下監督のメッセージ」なのかもしれませんが、原作本の後半では、作者のお兄さんが類似のことを言っていますから(P.178)、もしかしたらそれを踏まえているのかもしれませんが。