
(映画「誰が為に鐘は鳴る】は、スペイン内乱でフランコ将軍率いる反乱軍と戦う人民戦線をヒロイスティックに描いた作品でした)
【フィリピン 「英雄墓地」に埋葬された、かつて石もて追われたマルコス前大統領】
評価が割れる、あるいは批判が多い、かつての指導者をどのような形で弔うかは、現在の政治情勢、過去の歴史に対する総括など、それぞれの国の事情を反映して微妙なものがあり、時に大きな政治問題ともなります。
日本では靖国神社のA級戦犯合祀の問題があります。
フィリピンでは失脚・亡命したマルコス前大統領の遺体の処遇が大きな問題となりましたが、結局、ドゥテルテ大統領主導で「英雄墓地」に埋葬されたました。
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フィリピンの第10代大統領フェルディナンド・マルコスは1986年にピープルパワー革命で失脚 、1989年に亡命先のハワイで病死した。
1993年に遺体の帰国が認められたものの、イメルダ・マルコス夫人らが英雄墓地(英語版)への埋葬を希望する一方、ベニグノ・アキノ3世らが反対していた。
2016年6月に大統領に就任したロドリゴ・ドゥテルテが「国民の和解」を理由に英雄墓地への埋葬を決定し、マルコス大統領の英雄墓地への埋葬を認めるか否かはフィリピンを二分する議論となったが、最終的に2016年11月18日に英雄墓地へと埋葬された。【ウィキペディア】
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この案件は、ドゥテルテ大統領とマルコス家との緊密な関係、2015年の副大統領選に出馬したマルコス前大統領の息子ボンボン・マルコスが僅差で敗れはしたものの、1400万票もの票を獲得したという国民世論の変化などを反映したものでした。
【スペイン 「戦没者の谷」へ埋葬されたフランコ前総統は「民主化時代にふさわしくない」】
欧州スペインでは社会労働党政権によって、「スペイン内戦」を主導して多大な犠牲者を出した独裁者フランコ総統の遺体をこれまでの「戦没者の谷」から移すことが決定され、フランコ総統の流れをくむ国民党の反対など、国論を二分する論争となっています。
*****フランコ総統の墓移転 国会で承認 年内着手めざす 遺族は反発****
スペイン下院は13日、1975年まで独裁を敷いたフランコ総統の墓を、慰霊施設「戦没者の谷」から移転する法令を賛成多数で承認した。遺族は強く反発しているが、サンチェス首相は年内に墓を移転する方針。
下院採決は賛成が172票、反対が2票、棄権が164票だった。
与党・社会労働党や野党ポデモスなど左派陣営のほか、内戦中、左派の拠点だったカタルーニャ自治州の地域政党などが支持。中道右派野党の国民党、シウダダノスの多勢は棄権した。
カルボ副首相は下院で「遺族が墓を移転しないなら、政府がしかるべき移転先を決める」と述べた。法令は8月に閣議決定された。
「戦没者の谷」は総統がスペイン内戦(36〜39年)勝利後に建設を命じ、内戦の犠牲者ら約3万人が埋葬された。内戦に負けた左派の政治犯が多数労働を強いられ、首相は今年6月の就任時、施設は「独裁の象徴」だとして墓の移転を公約していた。
13日、下院の承認を受け、ツイッターで「フランコ政権の犠牲者の権利回復に向け、歴史的一歩となった」と発信した。
スペインは総統の死後、政治犯特赦を法で定め、内戦や独裁体制の責任を封印することで民主国家として再出発した。
墓の撤去は国内対立を再燃させかねず、今月初めの世論調査では、40%が「社会に傷を残す」と墓移転に懸念を示した。【9月14日 産経】
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第2次世界大戦の先駆けともなった「スペイン内戦」については、個人的には、義勇兵として人民戦線に参戦したヘミングウェイ原作を映画化した「誰が為に鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンが思い出され、ラストシーンのゲイリー・クーパーにも涙がウルウル・・・といったロマンチックな印象もあるのですが、もちろん悲惨な内戦でした。
*****スペイン内戦*****
1936年に誕生した左派の人民戦線政権に対し、フランコ将軍率いる反乱軍が蜂起。独伊軍の支援を得た反乱軍が勝利し、フランコ独裁体制が確立された。
39年までの内戦で50万人が犠牲となった。独空軍がゲルニカを爆撃し、2000人以上が死亡した悲劇はピカソの大作「ゲルニカ」に描かれた。
国際義勇軍として、米作家ヘミングウェーや英作家オーウェルらが人民戦線に参加して戦った。【8月22日 毎日】
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*****フランシスコ・フランコ(1892~1975年)*****
36~39年のスペイン内戦で左派の共和国に対し、右派反乱軍を率いて勝利。内戦中から「総統」を名乗った。
内戦後の独裁体制では左派やカタルーニャなどの地域主義を弾圧。犠牲者は数万人とされるが、明らかになっていない。
50年代以降に「スペインの奇跡」と呼ばれる経済成長を実現し、国内には現在も根強い支持者がいる。【8月1日 産経】
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****戦没者の谷****
(中略)谷の地下には4万人の遺体が埋葬され、それぞれの名前は記念碑に刻まれている。
この谷には、ナショナリストの兵士、共和国派の兵士がともに埋葬しているとされているが(スペイン内戦の末期、共和国派の遺体がいくらか、一時的な埋葬地からここに移されてきた)、モニュメントは明らかにナショナリスト寄り・反共産主義寄りの色彩を帯びている。
(中略)加えて、フランコがこのモニュメントを建設するという発表を行ったタイミングを見れば、このモニュメントがナショナリストだけのために作られたということは疑いない。
1940年4月1日、共和国に対するフランコの勝利1周年を祝う戦勝パレードが行われた1940年4月1日、フランコはこの戦いで命を落とした人々のための壮大な施設を建てる、個人的な決定を発表したのである。
今日、スペインの社会労働党政権(サパテーロ首相)は、戦没者の谷を「民主主義の記念碑」または「民主主義のための戦いで命を落とした全スペイン人のための」施設として設計し直す計画について、議論を行っている。
他の政党、とくに中道カトリック政党は、「戦没者の谷」はすでにナショナリスト・共和国双方の軍人・民間人すべての犠牲者のために捧げられていると考え、政権の動きは共和国側のためだけに再編するものと見なしている。【ウィキぺディア】
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【墓移転は、「あえて忘れる」ことした“古傷”を広げるだけ・・・との批判も】
「戦没者の谷」及びフランコ総統への評価は、立場によって異なります。
****フランコ総統の墓移転で波紋 スペイン左派政権が方針表明、歴史問題が国内対立を招く懸念も****
スペインで、1975年まで36年間、独裁を敷いたフランシスコ・フランコ総統の墓を近く移転する方針をサンチェス首相が先月発表し、波紋を広げている。
墓はフランコがスペイン内戦(36~39年)勝利後に建造した慰霊施設にあり、首相は「民主化時代にふさわしくない」と主張するが、歴史問題が国内の対立を招くという懸念も強い。
墓はマドリードの北西約40キロの「戦没者の谷」にある。森林の中にそびえる約150メートルの十字架と大聖堂からなる施設で、フランコが、内戦の戦没者をたたえて葬るために建設した。工期は18年間に及び、左派の政治犯が労働を強いられた。フランコ自身も死後、大聖堂に埋葬された。
埋葬された約3万人の中には左派兵士もいるが、家族に知らされず、現在も身元不明になっているケースが多い。施設は「右派の勝利」の象徴とみなされ、独裁による弾圧の犠牲者は調査を求めてきた。
サンチェス首相の社会労働党政権は6月に発足したばかり。首相は7月半ば、国会で「長年の(歴史の)傷痕を埋めるときが来た」と述べ、施設からフランコの墓を撤去するため、国会に承認を求める方針を示した。墓の移転先は明らかにしなかった。
これに対し、フランコ支持者ら右派の数百人が「絶対に阻止する」と訴え、現地で抗議集会を実施。前与党の保守系・国民党は「古傷を広げるだけだ」として墓の移転に反対した。(中略)
だが、墓の移転をめぐる論議が、独裁による弾圧の責任追及に発展すれば、国を再び分裂させかねないとの指摘もある。7月の世論調査では「移転に賛成」は41%にとどまった。
スペインは1939年の内戦終結後、フランコが75年に死去するまで右派独裁が続き、労働組合や左派は弾圧された。
77年には政治犯への特赦が法で定められ、独裁下の弾圧や内戦の傷痕を「あえて忘れる」ことで左右両派が合意。78年の新憲法で民主国家として再出発した。
2007年には、当時の社会労働党政権が「歴史の記憶法」を制定。弾圧犠牲者の調査支援、遺族への補償などを定めたが、11年に国民党のラホイ政権が発足し、実施は進んでいない。【8月1日 産経】
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“独裁下の弾圧や内戦の傷痕を「あえて忘れる」”とはしたものの、“毎年11月20日に近い土曜日になると、フランコ時代を懐かしむ人々やファランヘ党の活動家による記念行事が行われている”【ウィキペディア】というように、“「ファシストの聖地」化している面”【8月22日 毎日】もあります。
サンチェス政権が墓を移す方針を示した背景には、フランコ総統への恨みが深いカタルーニャ自治州独立派の中央政府への反発を和らげる狙いがあるとの指摘もあります。
“フランコ独裁政権は、カタルーニャの民族主義を徹底的に弾圧して自治権を廃止、カタルーニャ語も禁止した。現在のカタルーニャ独立運動の背景の一つには、こうした歴史的経緯がある。
カタルーニャは昨年10月、スペインからの独立を問う住民投票を実施。独立派は、カタルーニャの自治権を停止した当時のラホイ首相を、フランコ総統になぞらえて非難した。”【8月22日 毎日】
国民党が反対ではなく棄権で対応したのは、“国民党内には墓移転への反対意見も根強いが、反対することでファシズムを肯定する印象を与えかねないからだ。国民党のカサド党首の祖父は、フランコ政権によって政治犯として投獄されており、心情的に反対に回れない党員もいるという。”【同上】といった背景があるとも。
「ファシストの記念碑は民主国家に不似合い」と考えて是正するか、忘れることにした「古傷を広げるだけだ」と考えるか・・・・。
【解消したわけでもないが、今後への戦略も描けないカタルーニャ独立運動】
一方、カタルーニャの独立運動の方は、ラホイ前政権による封じ込め以来、最近はあまり目立った報道も目にしていませんでしたが、沈静化した訳でもないようです。ただ、今後への戦略も欠いているようにも。
****カタルーニャ自治州の独立求め100万人がデモ、スペイン・バルセロナ****
スペイン北東部カタルーニャ自治州の州都バルセロナで11日、およそ100万人が同自治州の独立を求めるデモを行った。
9月11日は、1714年にスペイン王フェリペ5世の軍勢によってバルセロナが陥落したことを記念する「カタルーニャ国民の日」。2012年以降はこの日にカタルーニャの分離独立を呼び掛ける大規模なデモ行進が行われるのが恒例になっている。
独自の言語を持ち経済的に豊かなカタルーニャ自治州では、昨年10月1日の住民投票が違法との司法判断が下されたのち、同月27日に自治州議会が一方的に独立分離を宣言したが、最終的に全てが無に帰す結果となった。この状況を受けて今年のデモは同自治州の強さが試される重要なイベントと位置付けられた。
デモでは参加者らが太鼓をたたいたり笛を吹いたりしながら行進したほか、手を組んだ人たちの肩の上に立ってつくるカタルーニャ伝統の「人間の塔」が披露された。
「カタルーニャの政治犯を直ちに釈放せよ」と書かれた黄色と黒のプラカードを掲げる人々の姿もあった。「政治犯」とは、昨年の独立の試みで拘束され、今は裁判を待っている分離独立派の指導者たちのことだ。
警察当局は昨年のデモとほぼ同程度の約100万人がデモに参加したとツイッターで明らかにした。
デモに参加したオリーブオイル生産者のロジェ・プジョルさんはAFPに対し、「私たちは民主的で平和的な方法で、国家として存在する権利を求めている」と話した。
キム・トラカタルーニャ自治州首相は10日テレビで演説し、同自治州政府として「共和国の建国」に向けて努力すると表明した。
しかしバルセロナ自治大学のオリオル・バルトメウス教授(政治学)は、「演説を聞いたところでは分離主義のリーダーたちは今後の計画を持ち合わせていないようだ」と述べた。【9月12日 AFP】
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