また関西には多くの大学や研究機関があるのですが、この社伝を信じ、古代史を研究した方はいないようであり、
研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家まで、神武東征を否定し、好意的な人も、それは神話だ、と見向きもしなかったのです。』
いかがでしょうか?
神武東征の証明、年代の特定など主要な解説は、本書をお読みいただくと致しまして(⇒見事に解き明かされています♥)、それらを紐解く、最も重要なポイントの解説をさせていただきます。
そのポイントとは、日本書紀や古事記が伝えるところの、「神武天皇は船で難波碕に上陸なされた」、をその年代とともに証明することにあります。
先ほど御覧頂きましたとおり、生國魂神社の御由緒には、「難波(古代の大阪)」が、昔は「南北に連なる台地」であって、「三方を海に囲まれていた」と伝えられています。そして、そこに神武天皇がやって来られたとも伝えています。そして、周辺の海には、大小さまざまな島が浮かんでいたと。。。難波の「八十島(やそしま)」ですね♥ 大八洲国(おおやしま)、つまり、私たちの日本の原型が、ここにあるんです♥
そこで、一つの疑問点が出てきます。「大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地」です。
本当にこの辺りが海で、数々の島があったんでしょうか?船で来ることができたんでしょうか?
著者は苦言を呈していますね♥
「関西には多くの大学や研究機関がある」にもかかわらず、「古代史を研究した方はいない」と。。。
それでは大学や研究機関とは無関係な私たち一般的な日本人の手で、大阪平野の成り立ちを調べるために、ググってみましょう♥
「大阪平野 沖積」
いかがでしょうか?
たくさん出てきましたね♥
そこから得られる情報だけでも、研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家までが否定する『神武東征』が事実であると推定することができ、また、その年代も推定できるんです♥
素人にだってできるんですよw 「研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家」って、一体何をやっているんでしょうね♥
それでは、見てまいりましょう♥
まずは、キーとなる大阪平野がどのようにして成り立ったのかを押さえましょう。
現在の私たちの日本で、いわゆる平野と呼ばれているところは、川の土砂が堆積して出来上がった沖積平野です。
ですから、かつてはどこも湿地帯だったんです♥
「 縄文時代、海面は今より数mも高く、日本の沖積平野(ちゅうせきへいや)はすべて海の下であった。
その後、海面が下がり、川の土砂で沖積平野が形成されていった。
現在の日本で平野と呼ばれているところは、かつてはどこも湿地帯であった。」
で、その大阪平野が、川が運んでくる土砂により出来上がっていく過程を示すと、以下のようになります。
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 大阪平野の変遷
http://agua.jpn.org/pre/pm.html
(続く)