だから倭国、邪馬台国が、そのまま大和・日本になったのではないのである。
長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)では、もう一つその理由を述べている。
それは、魏志倭人伝の「男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。」に大いに関係していることである。
旧唐書では「日本国は、倭国の別種なり。」とされているが、それは当時のシナ人が接した大和の人々には、同じ言葉を話しているのに、倭国でみられるこの黥面文身の習俗が見られなかったからに違いない、と長浜氏はこの本の66頁で述べている。
黥面文身とは、顔や身体に刺青(いれずみ)をすることであるが、倭国では普通の習俗であったようで、このことは「後漢書 倭伝」にもそのような記載がある。
8月29日のNO.16で引用した 後漢書倭伝の後半には、次のような文言が記載されているので引用させてもらう。
『(略)
男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆横幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如單被貫頭而著之 並以丹朱坋身如中國之用紛也
「男子は顔や体に入れ墨し、その模様の左右や大小の違いが尊卑の差になっている。その男子の衣服はみな横幅のある布を結んでつなげている。女子はおでこに髪を下ろし、うしろは折り曲げて結う。衣服は上敷きのような一枚布に頭を入れて着るが、赤い顔料を身にまぶす。これは中国でおしろいを用いるようなものである。」
(略)』
日本でも、古くは縄文中期の土偶に顔面線刻表現のものが出土しているようなので、そのころから入墨の風習はあった様だ。そして弥生時代から古墳時代の初期に到るまて、黥面絵画が施された土偶が発掘されている。
しかし2~4世紀には、近畿地方では黥面習慣が消えてしまっている様で、そのような黥面絵画が施された土偶は一切出土していないのである。
長浜氏はこのことを、この習俗と無縁だった大和朝廷の影響力が、畿内全域に拡大していったことを暗示している、と書いている(先の書70頁、以後長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)を先の書と呼ぶことにする。)。
日本の入墨の習俗はどこからもたらされたものかは、必ずしも明らかではないが、黥面文身は海に入って魚などを取るために、サメなどの攻撃を避けるためのものであったもので、魏志倭人伝にも次のように書かれている。
「 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう、はまぐり)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。」
「諸国の文身各々異なる」と書かれているように、各地の倭人には黥面文身の習慣があり、魏国ではその情報が共有されていたようだ。
紀元前一世紀(BC91年頃)に成立したと言われている史記に、当時の江南地方の非漢人には入墨の習慣があったと言う記述があると、先の書には書かれている。
更に次のようにも記載されている(先の書、67~68頁)。
『学習院大学の諏訪春雄教授は、揚子江下流域の江南地方の馬橋文化(4千年前~2千7百年前)の時代、ここから「大量の縄文土器が出土している」と次のように書き記していた。
「直接手に取ってこの土器を見せてもらったが、私の目では、日本の縄文土器と区別がつかない程良く似ている。日本の縄文土器は、馬橋文化の出土品より古く遡るが、日本の縄文時代と江南文化との交流は興味深い研究課題である」(161)(『日本人はるかな旅4』NHK出版)
縄文時代の人たちはこの地にも進出し、入墨の風習を取り入れた可能性もある。・・・』
そして先にも記述しておいたが、各地で黥面絵画の書かれた土偶が出土するようになった訳であるが、二~四世紀になると黥面絵画が発掘される地域は限られており、その間近畿地方からは一つも黥面絵画が出土していないと、先の書には書かれている(70頁)。
そして『また、「ヤマトの地に黥面習慣はなかった」ことを裏付ける説話が、古事記に書き遺されていた。神武天皇がヤマトの地で后を撰ぼうとしたときの会話がそれである。
「そこで大久米命が、天皇のお言葉をその伊須気余理比売に告げ明かしたとき、ヒメは大久米命の入墨をした鋭い目を見て、不思議に思って歌っていうには(中略)どうして目尻に入墨をして、鋭い目をしているのですか」
この記述は、大和の地で育った彼女は、顔に入墨をする人を見たことがなかったことを表している。大久米命のみが特筆されているから、神武天皇に入墨はなかったに違いない。』
と続いている(71~72頁)。
このことは、ヤマトの地には黥面文身の習俗がなかったことを示すものである。
と言う事は、魏志倭人伝の倭国・邪馬台国は「男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。」と言う表見の地は、ヤマトではなかった、と言う事を意味する。
倭国・邪馬台国はやはり北九州の地にあったのであり、ヤマトの地ではなかったことの証明である。
(続く)