世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

邪馬台国とはなんぞや?(28)

2018-09-20 00:30:00 | Weblog

親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明
2015-12-02   http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html
(略)

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!



『 (大阪城)大手門を出て左に曲がると、小さな公園の片隅に古風な掲示がありました。何が書いてあるのか近づいて読んでみると、

「ここはかつて難波碕(なにわのみさきと呼ばれ、生國魂神社(いくくにたまじんじゃがあったが、豊臣秀吉公が大阪城築城に際し天王寺の方へ移させた」

と書いてあり、ここが神社が旅立った「お旅所どころ」だとあるのです。



 奇妙な話につられ、行ってみようと思ったものです。そこから西に向かい、上り坂を歩いて谷町筋に出て、谷町四丁目交差点を左折し、天王寺方面へしばらく行くと右手に生國魂神社がありました。


生國魂神社


生國魂神社

お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。



御由緒

難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、【南北に連なる台地】より成り、【三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところ】であった。現在の上町台地である。


上町台地(緑色)の稜線部を旧熊野街道(橙色破線)が走る

この上町台地周辺の海上には、【大小さまざまな島】が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、【上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成した】のである。

 いわゆる難波の「八十島(やそしま)」である。この島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島、福島、弁天島などの【「島」のつく地名が、古代を物語っている】。漸く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語捨遺(こごしゅうい)』に「大八洲(おおやしま)の霊――日本列島の御神霊(ごしんれい)」(国土全体の国魂の神)と記された生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。

 古代の大阪は上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ、多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀(そうし)』を読んでみました。

創祀

社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(かむいやまといはれびこのみこと / 第1代神武天皇)が御東征の砌(みぎり)、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕――現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平定・安泰を願い、大八洲(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神・足島大神をお祀りなされたのが、生國魂神社の創始と伝わる。当神社が【大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以】である。その後、大物主大神を相殿神としてお祀りする。


神武東征

 何と神武東征のおり、ここに生島大神・足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ、今日に到っているのです。



 記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、【大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地】。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海か湖だったのか、どのような地形だったのか、見当もつきませんでした。
(続く)
コメント
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