世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(132)

2011-08-16 10:11:11 | Weblog

ウィッテは高平委員に「償金と割地の2要求を撤回せよ。8/29火曜日がその期限である。」事を伝えている。そしてそのことを本国にも電報で伝えている。日本もウィッテの言うことを十分よく理解していた。

日本の執るべき策は、次の二つしかない。

(1)軍費および樺太に関する2要求を放棄して、講和する。

(2)談判をやめて、戦争を継続する。

なぜウィッテは早い段階で、第3の策を考慮していなかったのであろうか。即ちニコライ2世の言う「相殺案」である。これは8/24に駐露米国大使マイヤーがニコライ2世に聞いて大統領に打電した「露は賠償金は払わないが、代わりに樺太南部を渡す」と言う第(3)案を提案しなかったのか。ルーズベルトもこの案はウィッテに伝えている。

ニコライ2世は、自分の国の状況を正確に把握していれば、すぐにでも講和をして内政に目を向け諸策を施せば、共産革命も起きずに生きながらえたかも知れないのだ。ニコライ2世は1917/3/3に皇帝を退位させられて、翌年1918/7/17にエカテリンブルグで家族全員銃殺されてしまったからである。身から出た錆、そのものである。1905年のこの時期に早く講和をしておけばよかった、と大いに後悔したことであろう。まだ12年と言う年月が残されていたのではなかったか。従ってウィッテはどうなったか判らないが、Wikipediaによれば1849/6/29~1915/3/13となっているので、まだ10年はお国のために尽くせたのではなかったか。しかし1915年66才でこの世を去っているので、ロマノフ王朝の滅亡は目にしなかっただけ幸いだったかもしれないが、このような世情や皇帝の態度の中では必ずしも意図した人生は送られなかったものと推察できる。まあ、これも自業自得ではないかな。

しかしこの日露交渉を考察してみれば、ニコライ2世を説得してロシア国内の政治・社会の建て直しに力を注いだ方が彼のためでもあり、ロシアのためでもあり、何と言っても日本のためにもなったかも知れない。なんと言っても日本は1937/7/7盧溝橋中国共産党軍(国民党内に巣くっていたコミンテルン)に発砲された時には、北京議定書による国際的に認められた演習をしていた最中で、しかも演習であったため実弾は携行していなかった。そのため反撃すら出来なかったのであるが、このことをして中国共産党は日本軍が発砲したとして、コミンテルン指令に従って日本を内戦に引き込んでいったのである。だからロシア革命が起きなければ、コミンテルンによるこのような日本軍への挑発は起こらなかったと思えるからである('10/12/23,NO.46参照)。

一寸横道に逸れたが、小村委員はこの高平委員の報告を受け、8/27が過ぎようとする深夜、東京に「政府も、この上は戦争を継続する決意をして、次の好機を待って講和をする他道はない。」と打電した。

その頃、東京では、8/28,午後2時頃、ようやく閣僚会議が終了した。日本側はあらゆる面で行き詰まっていた。なんと言っても金の工面が付かないからだ。1905年の予算は年3億円であったが、既に「約15億円」の軍費を使っている。そのため賠償金を値切った上で「12億円」と提示している。

さらに1年戦争を続行すれば、「12,3億円」が必要となり、その上3倍のロシア軍と戦うには「数個師団」の増設が必要である。その費用は「5億円」と見積もられている。だから「17,8億円」がさらに必要となるが、これはとても無理と言うものであった。
(続く)
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日韓併合100年(131)

2011-08-15 08:42:18 | Weblog

8/28、早朝(日本時間)元老会議そして午前8時に引き続き閣僚会議がもたれた。当然議題は日本政府の最終態度である。談判決裂の場合は、陸軍の軍事力が頼りとなる。奉天戦のあと日露ともに戦力の増強に励んだが、日増しに日本軍の不利が明らかになった。ロシアは奉天戦まではシベリアの「地方部隊」が主力であり、素質の悪さが目立ったが、奉天戦後は良質の「本国部隊」が投入された。戦力もそれまでの2倍、約40個師団、120万人となっていた。しかもその全てが「少壮兵」で装備も充実、防御線も完備していた。

これに対して日本軍兵力は、戦備が充実されていたとはいえ、「13個師団、約50万人」でしかも「老年補充兵」ばかりであった。つまりは「3倍のロシア満州軍の精兵」に対して「3分の1の劣兵」で立ち向かう形となっていた。このような情勢の中、日本側が攻勢に出るには更に「数個師団」の新設を必要とするがしかも補充兵力も乏しくそれは困難なことであることが寺内陸相から報告され、ロシアに白旗を揚げさせることは出来ないと言われ議論が沸いた。

東京で閣議が始まった8/28,午前8時は、ニューヨークでは8/27,午後6時である。その一時間後の8/27(日)午後7時(NY時間)、金子は領事坂井徳太郎から大統領の伝言(「親電に対するロシア皇帝からの返事はまだない。最早打つ手はない。」)を聞いている。

金子は「大統領も匙を投げたのか」と天を仰いだが、午後8時頃AP通信社の社長M・ストーンが金子を訪れ、大統領の書簡を手交した。「ストーン氏の話を聞いてくれ」と言うものだった。

AP通信とはThe Associated Press,米国内の通信業の協同組合(国外のメディアは組合員ではないので配信は有料扱い)である。

内容は、「大統領からドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に親電して、ロシア皇帝を説得してもらう。そして中立国委員と日露の3名で、樺太北部の買戻し金額を決定させる。」などというトロイものであった。金子元法相は当然不審感を顕わにした。「打つ手はない」と言ってみたり、「3人で検討したらどうか」と言ってみたり、論理が一貫していない。このルーズベルト提案は、8/19にローゼンに、そして8/25に金子にも伝えた「英仏両国に委託して賠償金については検討してもらったらどうか、と言った物語」と全く同じものではないか。

金子はそれでも小村にその内容を伝えた。

このルーズベルト対応は、講和談判の斡旋事を全く馬鹿にしたもの、と看做してもおかしくないものである、と(小生は)断定してもよいと思っている。日露の講和を早く成し遂げて世界平和をもたらすことが、ルーズベルトの意図したことであるならば、8/24に大統領が受けた駐露米国大使マイヤー電露は賠償金は払わないが、代わりに樺太南部を渡す」と言うもの(NO.130参照)を、早々に金子に伝えるべきだある。それをこんなことでひねくり回すと言うことは、日露にとっても世界にとっても何の意味もない。ルーズベルトは(ある意味)まじめな顔をした世界の大悪人ではないのか。要はロシアの味方で、日本の敵としての振る舞いをし出したのである。

午後9時高平委員がウィッテの部屋を訪れて、日本からの会議延期命令の電報に基づいて、8/29火曜日への延期を申し入れ承諾された。

新聞記者たちはさまざまな解釈を試みたが、ニューヨーク・タイムス紙の解釈が最も妥当と看做された。それは、日本側は「談判決裂の権限」を待っているのだ、と言うものであった。小村たち全権委員には、その権限が無かったのである。

(続く)
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日韓併合100年(130)

2011-08-12 11:06:06 | Weblog

8/18、小村・ウィッテの秘密合意、「日本は樺太南部を領有し、北半分を12億円で還付する。
8/21、大統領は金子に、賠償金(樺太半分の還付金)は12億円に対して7.5億円でどうか、と投げかける。
8/22、7:00pm金子は小村にこのことを打電する。そして11:00pm大統領の秘密書簡賠償金は放棄せよ)を受領する、大統領の変心。
8/23、夜この7.5億円の電報を小村は受領する。そしてすぐに金子に返電する、「報酬金の額について大統領の腹積もりを探れ」と。そして最終回を8/26,3:00pm開催とした。
8/24、朝、金子は大統領の再度の書簡を受領する、「賠償金は諦めよ」。そして小村からの「大統領の腹積もりを探れ」との電報を11:00amに受け取る。正午過ぎ駐露米国大使マイヤー電が大統領に届く、「露は賠償金は払わないが、代わりに樺太南部を渡す」と言うもの。そしてウィッテへの書簡を国務次官補パースに託す、「樺太南部の割譲とロシア兵捕虜費用の負担」を勧告、ウィッテ1:00pm受領。
8/247:00pmに金子は大統領の再度の書簡を、小村に打電する。(最初の書簡は8/22,11:00pm受領していたが、この大統領の変心を小村には知らせず。)
8/24深夜、小村はこの金子電「大統領の変心」を受領し、すぐさま「ロシア兵捕虜の費用の額の大統領の考え」と「駐露米国大使マイヤーとニコライ皇帝との話し合いの内容」を知りたいと返電する。明らかに不審感を抱いている。
8/25、4:30am金子はこの小村電を受領する。そして11:00am大統領と面会する。大統領は、まだわからないのか(?多分)と言った様子で、「日本は満州などに土地や権利を得たのであるからそれでよいではないか。賠償金は放棄せよ。」と繰り返す。そしてマイヤーの報告内容は、「ニコライ二世は陣頭に立って戦う」と言っている、と言うもので、樺太南部と償金との「相殺案」は洩らさなかった。

そして、8/19に露国委員ローゼンをオイスター・ベイに呼んで伝えた英仏両国に委託して賠償金のついては検討してもらったらどうか、と言った物語をまた金子に向かって語りだした。要は、ルーズベルト大統領の騙しの一種、日本を煙に巻く策略なのであろう。当事国同士でまとまらない物を他国に任せてまとまる筈がない。遅れて列強の仲間入りをしてきた異人種で成り上がりの日本人に対しての、一種のごまかし作戦と言うものであろう。こんなことで煙に巻かれる日本ではない。そして同じ内容の電文をニコライ皇帝への親電としてマイヤー大使に言付ける。

このとき日本政府では、まだ大統領の変心は知らされていない。そのため「報償金は減額してでも講和せよ」と訓令している。減額幅は小村委員への一任であった。

8/26、早朝マイヤーは、ルーズベルトの第2親電を外相ラムスドルフを通じてニコライ2世に伝達した。皇帝の回答は「樺太南部の割譲とロシア兵捕虜費用は支払う」がそれ以上は、一切譲歩しないと言うものであった。これが最終回答である。

午後3時秘密会談開催。ロシア「賠償金に類するものは支払わず。樺太については自分なりに何か解決方法があるかもしれないと思う。」とだけ回答する。そして日露双方とも「これ以上最早解決の道無し。」と認め合い決裂間際になる。そこで小村が「今1回会合したい」と提案し、8/28(月)午後3時開催を約し、秘密会談は終了する。ホテルに帰着すると小村は日本に「第105電」を急信した。「ロシアは樺太割譲と軍費償還の二問題については、ごうも譲歩の意を示さない。日本は譲歩したがロシア側の拒絶によって談判は決裂した。従って戦争継続の責任は一に露国にある。と宣言してポーツマスを引上げる。」と言うものであった。

日本では、外務省通商局長石井菊次郎が、英公使C・マクドナルドの話として、ニコライ皇帝は「樺太南部は譲ってもよい」と述べた、と急遽通報してきた。そのため樺太南部だけでも獲得して講和すべきだと、日本側が結論した。それには元老会議、閣議、御前会議などの手続きが必要なので、「最終会議を8/27火曜日に延期せよ」と、小村に電報が打たれた。

(続く)
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日韓併合100年(129)

2011-08-11 11:43:00 | Weblog

それにも増して、この「一文無しの妥協」を日本が知れば、日本は逆上してこの談判を無にするであろう。だから日本には知らせずに、反対にまさかの時の切り札に使えると思い、ルーズベルトは秘匿したものであろう。もともとアメリカは狡賢い国である。

しかもルーズベルト大統領は賠償金には嫌悪感を持っていた。日本の賠償金願望に応えながらも、その実、「無償平和」の実現を基本としているのである。ロシアの「償金不払いの伝統」があることも承知していた。少なくともロシア皇帝は「割地」に妥協を示したことで最終案をまとめるべく、まず、ロシアに働きかけ様とした。まず国務次官補H・パースにウィッテ宛の書簡を伝達させた。

「日本は勝利により代償を求める資格がある。だからロシアは日本の要求がさらに過大にならないように、その要求に応ずべきと思う。」、ゆえに「自分は、ロシア側が日本の要求を戦費賠償とは考えず、樺太南部の割譲とロシア兵捕虜の費用支払いを勧告するものである」

この書簡を受け取ったウィッテは、国務次官補パースに即答した。「大統領勧告は受諾出来ぬ。ただし、本国政府には報告する」と。しかしよく見れば、ルーズベルトは樺太の半分だけで報酬金はなし、とケチっているのである。しかしウィッテは、明言しないものの、樺太北部の買取についても賠償金とは認めずに払え、と勧めているようにも思えたかもしれない。


委員ウィッテは皇帝の「相殺案」についてはまだ知らされていない。さらに英国「ロイター」通信のペテルスブルグ電は、「ロシアは、直接間接を問わず、日本に対しては一切償金を支払わず、如何なる領土割譲も行わない」との、外相V・ラムスドルフ伯爵の公式かつ正式に許可された内容を報道した。この外国通信員に委託する声明は、まことに異常であると(ウィッテには)感じられたが、これも今まで受けていた訓令と同じものであった。そのため即座に拒否反応を示したものであったが、これなどまさにロシア側が上げたアドバルーンの一種であろう。ロシアは何も渡さない、と言わせておいて、日本側とは樺太南部だけとロシア兵捕虜費用の支払いでまとめたい一心ではなかったか、と今にすれば思えるのである。

しかしロシアと同盟関係のあるフランスの新聞「ル・タン」は、「賠償金を払えば敗北と言う国家的損失から脱却できるのに、なぜ躊躇するのか」と言った解説も報道していた。

日露講和談判は、1905/8/10に第1回会議が開始され、今は8/24で2週間が過ぎている。談判の対立点は、樺太の割譲と賠償金問題に絞られてきた。ロシアは樺太南部だけは割譲するが、賠償金は(捕虜費用以外は)支払わない、とのニコライ2世の言質までとる事が出来た。しかしこれは、小村もウィッテもまだ知らされてはいない。

しかし大統領はウィッテに、「樺太南部の割譲とロシア兵捕虜の費用支払い」を勧告し、日本(金子堅太郎)には、「変心」して「賠償金の放棄」を説得し始めたのであった。

今までのやり取りを整理してみると、大体こんな形となろう。

(続く)
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日韓併合100年(128)

2011-08-10 11:23:05 | Weblog

散々意見交換した挙句ウィッテは次のように締めくくった。

「軍費の払い戻しのない講和案は、日本としては承諾できないということか。」

小村委員は「そうだ」と答える。

ウィッテは「(罠に)掛かった」と思ったであろう。「本員は、サガレン全島を放棄して軍費の問題をなくすことを提案したが、日本政府は受諾しなかった、と結論する。

そして8/23午後3時30分第8回講和会議は終了した。日本は事実上追い詰められたことになる。

ウィッテもローゼンも意気揚々とホテルへ引上げたことであろう。

同じ日、ロシア・ペテルスブルグでは駐露米国大使G・マイヤーが皇帝ニコライ2世に謁見していた。大統領ルーズベルトの親電(日本の賠償金放棄を説得しているから)を伝達して、ロシアに対日譲歩を勧告していた。

その場には皇帝一族も同席していた。全員が講和に反対であった。しかしマイヤーはロシアの軍事情勢と内政上の諸問題を指摘して、説得を続けた。これが効を奏してロシア側は折れた。「ロシアは金を払い、サガレンの還付を希望する。しかし金額の低減を希望する。」と言うものであった。しかしこの情報は完全には正確ではなかったが、日本を始め他国の知る由もなかった。しかし実際にはロシアの外債も内債も、募集成績は最低であった。継戦の財源も無く、ましてや賠償金を支払う金もなかった。そのためサガレンの譲渡は止むを得ないと決断したものであろう。

しかしウィッテは、「日本は、ロシアがサガレンは渡すからと言っても半分を買え、と言って承知しない。日本の戦争目的は、金銭そのものである。だから平和は訪れない。」とまくし立てた。記者たちは「賞金が平和の亀裂になっている」と報道した。

ロシアがそれほど平和を希求すのであれば、金を払えば平和になるのである。しかし「日本の目的は金だ」と言って日本を非難させた。これが外交と言うものである。日本も「わずかな金で平和となろう。ロシアは自国の都合で、平和を望まないから金は支払わない。」と反駁しておけばよかったのである。

8/24、情報を与えられていない日本の新聞は、日本の指導者達の苦悩を知らない。既に継戦能力は枯渇している。一刻も早い講和を切望しているが、国民は早くロシアを屈服させよと騒いでいる。その頃米国では、駐露大使マイヤーの電報が届いていた。内容には紆余曲折があるが、端的に言うと「ロシアは、償金は払わない代わりに樺太南部を日本に渡す」と言うものであった。大統領は、この相殺案に納得した。しかし金子にも記者団にも公表しなかった。日本としては樺太全土を占領しているのである。報酬金が無ければ半分でなく全部を渡してもらわなければ、割に合わない筈だ。

(続く)
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日韓併合100年(127)

2011-08-09 10:19:59 | Weblog

金子から小村にルーズベルトの変心が知らされていれば、小村からは何らかの対抗策がウィッテに向けられていたことであろう。例えば樺太全島の譲渡か、または樺太の北半分を(報酬金と引き替えに)還付するのどちらかを選択せよと迫るとか、はたまた、北韓作戦の開始と浦塩攻略をほのめかすなど、である。このときはまだ休戦協定は結ばれていない。更にはロシア国内での革命機運の高まりなどを話題にしての談判の継続などである。

ルーズベルトの勧告は、ロシアは樺太の2分割案に乗って平和を希望せよ。そうすれば、自分は日本に報酬金を放棄させるから。それがロシアのためであり、世界平和のためでもある。・・・と言ったところであろう。ルーズベルトの本心が剥き出されたものである。当初は小国日本が大国ロシアを負かせたことにやんやの喝采をおくったものだが、よく考えてみると、日本はこのアメリカとやがてはぶつかることとなろう。アメリカの戦略にとっての(日本は)棘(トゲ)となるかもしれないし、なんと言ってもロシアは同種、同文、同宗である。ここはひとまず日本の頭を抑えておく必要がある、と言うことでの変心であろう。事実1904年に、T・ルーズベルト大統領は「カラーコード戦争計画」を下問している。それに基づいて対日戦争計画War Plan Orangeは1919年から立案されたものである。そして白い大艦隊Great White Fleet(戦艦16隻他)を1907/12/16~1909/2/22間、世界一周航海させ1908/10/18~25の間、横浜港に停泊させた。日本政府は大いに歓迎したが、T・ルーズベルトが計画した黒船に継ぐ恫喝外交の一種であった。

ホテルに戻ったウィッテには、大統領からの先の電報が届いていた。「ルーズベルトはついにロシアに加担した」とほくそ笑んだ。金子が大統領の最初の書簡を打電したのはこの頃であった。小村は一歩遅れていたので、有効な手を打てなかった。反対にウィッテの策に飲まれることになる。

ウィッテはこれらの事情から、世界を味方につけることを考えていた。即ち日本は「金のために戦争」を遂行している、と世界に吹聴することであった。今ルーズベルトは、日本に金のために戦争をするなと言っている。日本があくまでも報酬金に固執すれば、平和を希求する世界を敵に回すことになる。日露戦争は、ある意味、世界戦争となっていたのである。

8/23(水)午後2時半、本会議開催。日本側から8/18の秘密合意('11/8/3,NO.123)の覚書が提出された。

するとウィッテは小村に次のような質問をした。

サガレンの半分の還付に対する報酬金と言っても、それは賠償金に他ならない。本国は賠償金を認めてくれない。従って、樺太島全島を日本に譲渡した場合には、報酬金は不必要となる。その場合には日本は金銭払い戻しに関する一切の要求を撤回するか。と言うものであった。

結果として日本は樺太の半分のみしか得られなかったので、賠償金を得られないとすれば樺太全島を得たほうがよかったのである。これは結果が判っていたから言える事ではある。それに世界の列強の考え方に日本は疎かったに違いない。それに連戦連勝で鼻高々となって、周りがよく見えていなかったのではなかったか。小村が陥った重大な間違いのひとつであったであろう。いま少し周りが見えていれば、と思うのである。そして金子からの「大統領は賠償金を放棄せよと言い出した」との電報があれば、小村も違った対応が出来たかもしれない。

当時は、「一文無しの講和」は夢想外であった。と「日露戦争8」(児島襄)には記されている。

ウィッテは樺太の2分割論を提案した。それに小村が乗って、樺太の半分還付に対する報酬金を要求した。今度は反対に樺太の半分の還付は要らないから、報酬金を撤回せよ、と反駁してきた。まだ成り立ってもいない話を盾に使ってきた。小村はそれに気付いていない。「賠償金を放棄せよ」との大統領の勧告を知っていれば、少しは違った対応をとったかもしれない。今となっては詮の無いことである。

(続く)
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日韓併合100年(126)

2011-08-08 09:19:56 | Weblog

大統領はN.Y.の金子元法相に秘密書簡を送っていた。午後11時、金子はそれを受け取った。
「日本は賠償金のために会議を打ち切って戦争を継続すれば、世界の各国からの同情を失うであろう。多数の議員からも反発の意見を聞く。自分も同意見である。」と言うものであった。

金子は当然びっくり仰天した。大統領は「金のための戦争はするな、賠償金要求は放棄せよ」と言っている。そして「日本があくまでも賠償金に固執すれば、米国と世界の世論は日本に反発する。多分外債募集も困難となろう。」と警告しているようなものであった。皇帝宛の親電には、「報酬金を支払わざるべからず(ロシアは日本に、報酬金を支払うべきである)」とまで明記してくれたではないか。

金子の頭の中では、転地がひっくり返っていた。そのため、大統領の突然の変心を告げる書簡を、即座に小村に通報しなかったのであった。大統領は、ウィッテにはその写しを届けていた。

8/23(水)、早朝大統領は駐米英国大使H・デュラントにも電報を送った、「日本が賠償金のために継戦することには大反対である。英国も自分の意見に賛同して欲しい」と言ったものであった。そして駐露米国大使マイヤーにも、電報した。「(賠償金の放棄を)今日本を説得しようとしているので、ロシアは自分の勧告に応ぜよ。」と皇帝に進言せよ、と言うものであった。

そして更に金子に、前日の趣旨をしたためた書簡を郵送した。内容は(意訳だが)次の2点であった。

(1)日本は既に韓国、満州の支配権、遼東半島および満州鉄道の租借権を得て、樺太にも地歩を確立した。これ以上戦っても、費消する費用にふさわしい賠償金を獲得するのは、不可能である。だから、勝っている内に戦争を終わらせて、早く列国の一員になったほうが身のためである。

(2)世界の列国は日本が平和を確立することを信頼している。これほどまでに世界が日本に期待しているので、日本はその期待にこたえる義務がある。世界の日本に対するこの信頼を損なうことの無いよう切望する。

要するに、「12億円」のために戦争を継続させるな、賠償金は諦めよ、既得の利益を拡大して「元」を取れ、と言うものである。

そしてウィッテにも以上の全て(金子への書簡、英国大使への電報、駐露大使への訓電)を電報で伝えた、金子への書簡は全て郵送であったが。

午前9時50分、5日振りに談判が開始された。(8/18→8/23)

ウィッテは「本国から拒否訓令を受けた。ついては談判は不調に終わるが、新奇なる事情が生じたので少し延期したい。」と続けた。新奇なる事情とは、皇帝から大統領への回答が必要と言うことと、大統領の金子を通じた対日説得工作、のことである。しかし小村は(大統領が皇帝に賠償金の支払いを勧告したことは知っているが)金子元法相に「賠償金の放棄」を説得した「変心」は伝えられていない。

小村は、大統領の親電に対するロシア側の検討が長引いているものとだけ推察し、延期に同意する。そして8/26(土)の午後3時までとし、本国からの訓電が遅れれば更に延期することとした。そして本日の会議は午後2時まで休憩となる。

(続く)
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日韓併合100年(125)

2011-08-05 10:40:57 | Weblog

8/22、午前7時に本日の会議が翌日午前9時に延期された旨、公式発表された。

記者たちの見方は、大統領は日本側に立ちロシアを説得する、と言うものと、否、日本は異人種・異教徒・異文化なのでロシア側に立つ、と2分されていた。当事者は日露の2国であるので、この味方は当然であったが、「AP」通信は、大統領は日本の賠償額を12億円から7.5億円減額を勧告した、と報道した。この情報はルーズベルト大統領筋から洩れたものであった。

そして皇帝への大統領親電の写しがウィッテにも届けられた。そしてウィッテからも皇帝に打電されたが、これはロシア政府内でニコライ2世までの途中で内容が改ざんされないためのものであった。内容を知ったウィッテは、前日の外相ラムスドルフからの回答電報の内容に合点したのであった。

そして午後に、前日に続いてロシア代表団の記念写真撮影が行われた。そして樺太の分割領有の情報や7.5億円への減額などから、「ザ・タイムス」などは「平和への希望が生まれた」と報道していたが、そうは問屋が卸さなかったのであった。

午後10時ごろ、「明日夕刻に送る」とした外相ラムスドルフからの電報が届いた。その中には三つの訓令(上からの指示)があった。

(第1訓令)
日本の要求は過大に付き、日本がそれらを放棄しない場合には談判を打ち切ってもよい。賞金問題は最も承諾できない項目である。従って「サガレン」の割譲問題なんぞは討議に及ばず。
(半分でも譲渡はしない、しかし破裂の理由は賞金問題だと言うこと。)

(第2訓令)
談判打ち切りの勅命を受けたことを大統領に話すとよい。そして今までの協力に丁重に感謝の意を呈し、今後状況が好転した場合には日本と談判を再開したいとも伝えよ。

(第3訓令)
ロシアとしては、談判破裂の場合には世界に声明を発するつもりであるので、談判打ち切りの正確な日取りを電報すること。

というものであった。

軍人随員たちは、第2訓令の「状況好転などは考えられない」と憤慨したが、ウィッテはそのようには考えなかった。ウィッテは裏読みして、「これではロシアは妥協できない。妥協できるように大統領をして、日本説得に努めて欲しい」と言う意味ではないかと考えた。

第3訓令にしても、「皇帝は怒っているが、それを鎮める何か良い考えはないか」と言った外相ラムスドルフの「対皇帝工作」ではないか、とも考えたのである。

そして大統領が皇帝に親電を打ってきたのであるから、皇帝から大統領に回答しない内に談判を破裂させるわけにはいかないであろう、それに大統領は日本へも勧告するはずでありもう少し様子を見たほうがよい、と返電した。

事実その通りに状況は進展した。

(続く)
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日韓併合100年(124)

2011-08-04 10:41:53 | Weblog

そして大統領がローゼンに言ったことは、(小生なりに簡単にまとめると)ロシアは樺太を割譲せよ。残るは賠償金だけである。これはいくら当事国同士で話し合ってもまとまらない。だからロシアは仏大統領E・ルーべに、日本は英国王エドワード七世に委任して、協議してもらいそれを参考にして話し合ったらどうか、話し合いに時間が掛かるために、その間に日本の感情も静まるのではないか。

と言ったものであったが、確かに日本の要求する12億円は問題である。英仏の元首まで引っ張り出すと言うことは、いずれにせよ実現の見込みは薄い。大統領は「日本」への説得も考えているはずだ、と委員ローゼンは好意的に考察して岐路に着く。

この日の午後、小村委員は秘密合意を金子元法相に伝え、大統領から委員ローゼンとの会談内容の把握と、同時に12億円を減額する余地はほとんど無いことを伝える様依頼する。日本はすでに朝鮮の管理、清国におけるロシア権益の譲渡、更には南満州鉄道の権益の譲渡も、ロシアに認めさせている。韓国や満州に関する要求は全て、ロシアに認めさせているので、12億円の減額が認められないと言うことは、ある意味無いものねだりに近いものであったかもしれない。

そして日本国内でも、ロシアに日本側が押されているとのニュースが優勢であった。そのため日本世論は、激昂していた。

8/20(日)、日本側では賠償金15億円としていたものが、12億円となっていることに議論が集中したが、ともかく講和が必須だと言うことで報酬金12億円は多少の減額があっても講和をまとめるよう、小村に打電された。英紙「ザ・タイムス」も、日本の言う報酬金は敗者の賠償金ではなく、シベリア・沿海州を取られないための保証金であるから、ロシアは早く講和すべきである、との論調の載せていた。

8/21、この日は最終談判を前にして、日本全権団の写真撮影が行われた。そして午前11時金子元法相はオイスター・ベイでルーズベルト大統領と会っていた。大統領は秘密合意の内容に賛意を表明したが、ニコライ2世に親電を出す前に、報酬金の減額の可否を聞いてきた。「12億円は多額であれば、これを6億円とし捕虜費用を1.5億円と見て、7.5億円がよかろう」と言うものであった。金子が不可と答えると話題を変え、ロシア皇帝宛の親電文を口述しだした。内容は、日本の妥協案は真っ当なものであるので承諾すべきである、と言うものであった。

ウィッテとローゼンは、昼からヨーク・ビーチにドライブに言った。ヨーク・ビーチはポーツマスから15~20kmほど海岸沿いに北上した観光地で、蚊の多いウェントワースとは大違いであった。

午後5時ドライブから帰着するとロシア外相ラムスドルフより大統領の親電に対する回答電報が届いていた。駐ロシア米国大使マイヤーが受電次第すぐにニコライ2世に伝達したからであった。その内容は「1フィートの地、1カペイクの金も与えず。談判打ち切りの電報は明日夕刻送る。」と言うものであった。談判を断ち切るに際しては大統領が親電を送った以上、大統領にも事前に連絡すべきであり、更には明日(8/21月)の夕刻の電報となると、8/22(火)最終談判は延期せざるを得ず、8/23(水)に延期を申し入れた。

記者たちは、大統領が日露両国への調停工作に乗り出していることは知らない。しかし大統領が乗り出しても1日では何も出来ない。事態は悲観的だと感じていた。

小村も金子も最終談判が1日延期されたこと、そのことを大統領に知らせること、親電の内容は穏当であること、談判終結に際しては48時間の猶予を取ることなどを電報でやり取りしていた。

(続く)
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日韓併合100年(123)

2011-08-03 10:19:25 | Weblog

(1)樺太を二分して北緯五十度以北をロシアに還付し、以南を日本が領有する。
(2)日露両国は、宗谷および間宮海峡の自由航行を阻害しないことを約束する。
(3)樺太の北緯五十度以北の還付の報酬として、ロシアは日本に12億円を支払う。
(4)以上の協定が成立すれば、日本は、捕虜休養費などを除いて、軍備賠償に関する要求を撤回する。

しかしこの秘密合意は、両委員の「個人的合意」であるので、両政府の正式な決定を待たなければならない。そのため次回の談判は8/22(火)とすることにした。

8/18(金)、午後の会議。(12)ロシア領海・領水の漁業権の許与(付加条件)が合意され、8/22(火)は午後からの開催とし、散会となる。


対立項目は次の4項目てあった。'11/7/29,NO.120を参照のこと。

(5)樺太の割譲問題(9)日本の戦費の「払い戻し」(10)中立港逃避のロシア艦の引渡しと(11)ロシアの極東海軍力の制限の4項目である。(10)と(11)項目は先に日本が撤回している。8/1のNO.121を参照のこと。(12)ロシア領海・領水の漁業権の許与、は8/18に合意している。

従って残る対立項目は、(5)樺太の割譲問題、(9)日本の戦費の「払い戻し」、だけである。この解決策がこの「秘密合意」である。後はニコライ2世の承諾待ちだけである。

その頃元法相の金子堅太郎は、オイスターベイの大統領ルーズベルトの別荘を訪問していた。8/17に小村委員から「ロシア説得」を大統領に依頼するよう頼まれた金子は、まだこの「秘密合意」は知らない。金子はこの2点の項目は両国とも譲ろうとせず、妥協の見込みが無いので大統領に「ロシア皇帝への親電」を発して、説得をしてもらう依頼したものである。

大統領は、まずウィッテ宛の譲歩勧告の電文を口述して発信させた。この電報はその日の夜、「ウェントワース」ホテルに届いた。しかし国務次官補のパースは深夜までホテルには戻ってきていない。

大統領は、談判が不調となっても決裂させずに48時間の猶予を取るよう小村委員に伝えるよう依頼した。ロシア説得の時間をとるためであった。


8/19、ローゼンは日が変わってから酔っ払って帰ってきた。しかし電報を読むや否や「ウィッテ」の部屋に疾走しウィッテをたたき起こして、電報の内容を伝えた。

「最重要のメッセージを伝えるので、委員ローゼンをオイスター・ベイに派遣されたし」との内容であった。ウィッテも委員ローゼンの部屋へ急ぎ、大統領との会見を指示した。そして国務次官補パースに聞いた最も早い方法で、ローゼンは翌日早朝オイスター・ベイに向けて出立した。

(続く)
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