世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(127)

2011-08-09 10:19:59 | Weblog

金子から小村にルーズベルトの変心が知らされていれば、小村からは何らかの対抗策がウィッテに向けられていたことであろう。例えば樺太全島の譲渡か、または樺太の北半分を(報酬金と引き替えに)還付するのどちらかを選択せよと迫るとか、はたまた、北韓作戦の開始と浦塩攻略をほのめかすなど、である。このときはまだ休戦協定は結ばれていない。更にはロシア国内での革命機運の高まりなどを話題にしての談判の継続などである。

ルーズベルトの勧告は、ロシアは樺太の2分割案に乗って平和を希望せよ。そうすれば、自分は日本に報酬金を放棄させるから。それがロシアのためであり、世界平和のためでもある。・・・と言ったところであろう。ルーズベルトの本心が剥き出されたものである。当初は小国日本が大国ロシアを負かせたことにやんやの喝采をおくったものだが、よく考えてみると、日本はこのアメリカとやがてはぶつかることとなろう。アメリカの戦略にとっての(日本は)棘(トゲ)となるかもしれないし、なんと言ってもロシアは同種、同文、同宗である。ここはひとまず日本の頭を抑えておく必要がある、と言うことでの変心であろう。事実1904年に、T・ルーズベルト大統領は「カラーコード戦争計画」を下問している。それに基づいて対日戦争計画War Plan Orangeは1919年から立案されたものである。そして白い大艦隊Great White Fleet(戦艦16隻他)を1907/12/16~1909/2/22間、世界一周航海させ1908/10/18~25の間、横浜港に停泊させた。日本政府は大いに歓迎したが、T・ルーズベルトが計画した黒船に継ぐ恫喝外交の一種であった。

ホテルに戻ったウィッテには、大統領からの先の電報が届いていた。「ルーズベルトはついにロシアに加担した」とほくそ笑んだ。金子が大統領の最初の書簡を打電したのはこの頃であった。小村は一歩遅れていたので、有効な手を打てなかった。反対にウィッテの策に飲まれることになる。

ウィッテはこれらの事情から、世界を味方につけることを考えていた。即ち日本は「金のために戦争」を遂行している、と世界に吹聴することであった。今ルーズベルトは、日本に金のために戦争をするなと言っている。日本があくまでも報酬金に固執すれば、平和を希求する世界を敵に回すことになる。日露戦争は、ある意味、世界戦争となっていたのである。

8/23(水)午後2時半、本会議開催。日本側から8/18の秘密合意('11/8/3,NO.123)の覚書が提出された。

するとウィッテは小村に次のような質問をした。

サガレンの半分の還付に対する報酬金と言っても、それは賠償金に他ならない。本国は賠償金を認めてくれない。従って、樺太島全島を日本に譲渡した場合には、報酬金は不必要となる。その場合には日本は金銭払い戻しに関する一切の要求を撤回するか。と言うものであった。

結果として日本は樺太の半分のみしか得られなかったので、賠償金を得られないとすれば樺太全島を得たほうがよかったのである。これは結果が判っていたから言える事ではある。それに世界の列強の考え方に日本は疎かったに違いない。それに連戦連勝で鼻高々となって、周りがよく見えていなかったのではなかったか。小村が陥った重大な間違いのひとつであったであろう。いま少し周りが見えていれば、と思うのである。そして金子からの「大統領は賠償金を放棄せよと言い出した」との電報があれば、小村も違った対応が出来たかもしれない。

当時は、「一文無しの講和」は夢想外であった。と「日露戦争8」(児島襄)には記されている。

ウィッテは樺太の2分割論を提案した。それに小村が乗って、樺太の半分還付に対する報酬金を要求した。今度は反対に樺太の半分の還付は要らないから、報酬金を撤回せよ、と反駁してきた。まだ成り立ってもいない話を盾に使ってきた。小村はそれに気付いていない。「賠償金を放棄せよ」との大統領の勧告を知っていれば、少しは違った対応をとったかもしれない。今となっては詮の無いことである。

(続く)
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