世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

ヨーロッパと日本(26)

2008-11-16 13:44:15 | Weblog

16.明治、惟(これ)新(あら)たなり

1867年11月9日(慶応3年10月24日)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が明治天皇に統治権の返上を上奏し、翌日1867年11月10日(慶応3年10月25日)に大政奉還の勅許の沙汰書が下り、大政奉還が成立する。

そして年の明けた1868年1月3日(慶応3年1月29日)に岩倉具視や西郷・大久保らの手配により、明治天皇による「王政復古の大号令」が発せられる。これにより、岩倉具視ら一部公卿と薩摩・長州を主体とする新政府が樹立された。新政府の新しい政治方針は、1868年4月6日(明治元年・慶応4年・3月14日)京都御所紫宸殿において、天神地祇御誓祭と言う儀式によって、「五箇条の御誓文」として示された。

そして1868年6月11日(明治元年・慶応4年・4月21日)、「政体書」を発布し、政治機構を定めている。これは総裁、議定、参与の3職体制に代えて新たな官制を定めたものである。これを政体書体制と言う。この政体書の冒頭には、先に示した「五箇条の御誓文」を新政府の基本方針として掲げ、中央政府に国家権力の全体を支配する組織の太政官を置きその権力を「立法・行政・司法」の三権に分けた。三職のうち総裁が廃止され、副総裁2人が輔相と称して事実上の政府首班についた。立法権議政官と言う組織が司り議定・参与からなる上局と諸藩の代表から下局で構成された。行政権を司るには、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(庁)からなる五官が設置された。その行政官は輔相が長となり他の四官を監督した。司法権司法官と言う組織が司ったが、行政官の監督を受けていた為、必ずしも司法権は独立したものではなかった。更に、輔相は議定の資格で議政官の上局の構成メンバーでもあったため、権力分立の制度はその揺籃期であった。

そして1885年12月22日(明治18年)伊藤博文が初代の内閣総理大臣として内閣を組織するまで、新生日本の政治組織はさまざまな改革を経たのである。

さて、1868年10月23日(明治元年・慶応・4年9月8日)に、明治改元の詔を発し、年号を「明治」と改め、慶応4年を1月1日よりさかのぼって明治元年とした。

明治新政府は、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗する為に、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指し、矢継ぎ早に改革を断行していった。
(続く)
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ヨーロッパと日本(25)

2008-11-15 20:38:47 | Weblog

中国では「易姓革命」と言う文化があるため、中国の歴史の継続性はないに等しい。易姓革命とは、「天(あらた)めて、(か)わる」と言うことで、中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるのである。その時に大虐殺が行われた。前政権に関与した人間はもちろんの事、その都の住民達も皆殺しにされている。これを現す言葉が「屠城」として中国語に存在する。いわゆる王朝が変わるたびに屠城と言う人民の虐殺が行われている。もっともひどい屠城を受けた都市のひとつが南京なのである。万人塚として骸骨が発掘されるのは、このときの虐殺の跡なのであり、日本軍の虐殺などは存在していないのである。現代中国では、毛沢東による2,000万人とも3,000万人とも言われる大虐殺がある。日本にはこのような文化はない。

このように中国では政権の継続性が殆どなかったため、国民国家としてのまとまりが欠け、近代化が遅れた。そこを西洋諸国に突け込まれた。そのためそこからの影響を日本は、極端に恐れたのである。そこで日本は、支那のすばやい近代化を願って、留学生の受け入れや制度の移植などのあらゆる援助を惜しまなかったのである。

さて話を元へ戻そう。

西暦478年の倭王武(雄略天皇)の南宋への上表文には次のように記されている。

昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。

このように日本を統一してゆき、もちろんその間紆余曲折はあったものの、現在の御皇室へとつながっていったのである。

もちろんこの「新日本建設に関する詔書」で、天皇が神であることを否定したが、天皇の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止することもなかった。日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の目的であった、とこのWikipediaは続けている。神話と呼ばれる時代から営々として築かれてきた日本のある種の歴史であり、日本人の心の拠り所であるわけであるから、それはそれでよいと考える。その過程で尊敬すべき対象、崇め奉る対象になってきた訳であるから、昔はそのように神格を与えられてきたのであろうと理解できるのである。現代では誰も天皇が神であるなどとは思っていない。神代の昔からの歴史の中でそのような立場や位置に立って来た、または置かれてきたと思っているだけである。しかしそれはそれで、そのことが大切なのである
(続く)
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ヨーロッパと日本(24)

2008-11-14 15:08:50 | Weblog

この詔書は、1946年(昭和21年)1月1日に官報として発布された。此の官報の原本は墨書であり、天皇陛下の力強い御名と御璽がある、実際の官報そのものは印刷物であったが。上記に引用したこの詔書の赤字に修飾した部分が、自らの神格性を否定した部分であり、これは昭和21年元旦の各新聞の一面で「天皇の人間宣言」として、紹介されたのである。

「人間宣言」をした昭和天皇は、その後、全国を「巡幸」し、国民の歓迎を受けた。人々は「咽び泣いた。万歳を叫んだ」(戦後最初の侍従長の大金益次郎の著作『巡幸余芳』)

大日本帝国憲法(明治憲法)の第3条には、「天皇は神聖にして侵すへからす」と規定されていたが、此の宣言では、天皇と国民とのつながりは「神話や伝説」によるものではなく、従って天皇は現御神(あきつみかみ、人の姿をした神)などでもなく、いわんや、日本国民は他の民族より優れていて、世界を支配する運命を持っている、などと言う考え方に基づくものでもない、と言っているのである。

大日本帝国憲法 第一章 天皇
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治
     す
第二条 皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男
     子孫之を継承す
第三条 天皇は神聖にして侵すへからかす
第四章 天皇は国の元首にして統治権を総攬
    (一手に握って統べ治める)し此の憲法
     の条規により之を行う
・・・・・・・となっている。

これに対して現行憲法では、

日本国憲法(公布 昭21・11・3 施行 昭22・5・3) 第一章 天皇

第一条[天皇の地位、国民主権] 天皇は、日本
    国の象徴であり日本国民統合の象徴で
    あって、この地位は、主権の存する日本
    国民の総意に基づく。

第二条[皇位の継承] 皇位は、世襲のもので
    あって、国会の議決した皇室典範の定める
    ところにより、これを継承する。

第3条[天皇の国事行為と内閣の責任] 天皇の
    国事に関する全ての行為には、内閣の
    助言と承認を必要とし、内閣が、其の責任
    を負う。

第4条[天皇の権能の限界、天皇の国事行為の
    委任] 
    天皇は、この憲法の定める国事に関する
    行為のみを行い、国政に関する権能を有し
    ない。
  ②略。

以上見てきたように、明治憲法では、天皇は元首として日本を統治し、その統治は明治憲法により行う、となっていた。

それが昭和憲法では、主権は日本国民が有しており、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴となっている。

何はともあれ、明治維新では、天下の政権は幕府の独裁から朝廷に奉還され、貴族院と衆議院の両院を設けて帝国議会を成立させ、万機を公論で決める仕組みの上で、天皇がこれを統治した。人材の登用もなり、幕府政治から近代化へと一大模様替えを図っていった。幕藩体制から政権が朝廷に奉還され其の運営は維新政府へと返還された。

その中心には天皇制があった。天皇制があったからこそ明治維新が成就できたのである。古の神代の時代から連綿と継承されている天皇制があったればこそ、日本国全体が一致団結できたのである。天皇を頂点として、公卿、諸侯、一般民衆が日本国民として、まとまることができたのである。このことなくしては封建体制から明治近代化への脱皮は難しかったことであろう。
(続く)
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ヨーロッパと日本(23)

2008-11-13 02:52:06 | Weblog

新日本建設に関する詔書

ここに新年を迎う。顧みれば、明治天皇、明治の初、国是として五箇条の御誓文を下したまえり。

曰く。

1.広く会議を興し、万機公論に決すべし。
1.上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
1.官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を
  遂げ、人身をして倦まさらしめんことを要す。
1.旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべ
  し。
1.智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべ
  し。

叡旨公明正大、また何をか加えん。朕はここに、誓を新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し(ちょうたつ、のびのびとしている様)、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生(国民生活)の向上を図り、新日本を建設すべし。

大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は真に心を痛ましむるものあり。然りと雖(いえど)も、我国民が現在の試練に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、克(よ)く其の結末を全うせば、独り我国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。夫(そ)れ家を愛する心と国を愛する心とは我国に於いて特に熱烈なるを見る。今や実に此の心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努力を致すべきの秋(とき)なり。

惟(おも)ふに長きに亘(わた)れる戦争の敗北に終わりたる結果、我国民は動もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪(ちんりん、おちぶれること)せんとするの傾きあり。詭激(きげき、現行が中正を失って過激なこと)の風漸を長じて道義の念頗(すこぶ)る衰え、為に思想混乱の兆しあるは洵(まこと)に深憂に堪えず。

然れども、朕は爾(なんじ)等国民と共に在り、常に利害を同じうし、休戚(きゅうせき、喜びと悲しみ・幸と不幸)を分たんと欲す。朕は爾等国民との間の紐帯(ちゅうたい、ひも帯のように物事を結びつける働きをするもの、血縁地縁利害などさまざまなもの)は、始終相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以って現御神(あきつみかみ、現世に姿を現している神の意から天皇を尊んで言った語)とし、且(かつ)日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すとの、架空なる観念に基づくものに非ず。

朕の政府は国民の試練と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は我国民が時艱(難)に蹶起し(けっき、勢いよく立ち上がる・決起)、当面の困苦克服の為に、又産業及文運(学問芸術)振興の為に勇往(いさんでゆく)せんことを祈念す。我国民が其の公民生活に於いて団結し、相寄り相扶(たす)け、寛容相許すの気風を作興するに於ては能く我至高の傳統に恥じざる真価を発揮するに至らん。斯(か)くの如きは実に我国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以(ゆえん)なるを疑わざるなり。

一年の計は年頭に在り、朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして自ら奮い自ら励まし、以って此の大業を成就せんことを庶幾(こいねが、しょき)う。

御名御璽

昭和二十一年一月一日           ]
(続く)
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ヨーロッパと日本(22)

2008-11-10 23:34:46 | Weblog

15.新日本建設に関する詔書(1946年1月1日、年頭の詔書)

以下はWikipediaの引用となる。

昭和天皇裕仁ひろひと陛下はこのことを深く理解されていたため、戦後1946年(昭和21年)1月1日の「」(年頭の詔書)に、このご誓文の条文を加えることをご自身でご提案されたのである。1977年8月23日の記者会見で、次のように述べられている。

「それが実は、あの詔書(天皇の意思表示の公文書)の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義と言うものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」

そして当時の吉田茂首相も、1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議での日本国憲法の審議の初めにそのことに言及しているのである。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと言ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字にあらわしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、敢えて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ninngennsenngenn.htm にこの詔書が引用されているので、独自の補いを図りながら、それをここに紹介しよう。
(続く)
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ヨーロッパと日本(21)

2008-11-09 16:37:16 | Weblog

さて五箇条のご誓文の第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」の真意とは、どう解釈すればよいのであろうか。一般的には、単純に現在の民主主義を連想するのが普通であるが、もう少し深い意味があるようである。

http://datas.w-jp.net/theImperialCovenantOfFiveArticles.html(Eternity)に、納得の行く解説がある。それを紹介しよう。

「広く会議を開催して、政治上の全ての事柄は公の議論を通じて決めようではないか」と言う意味と小生は解釈するが、この思想は、古くは聖徳太子の「十七条の憲法」に既に盛り込まれていると言う。

「十七条の憲法」の第十七条がそれである。「現代語訳」が記載されているのでそれを引用する。

十七にいう。物事は1人で判断してはいけない。必ずみんなで論議して判断しなさい。些細なことは、必ずしもみんなで議論しなくても良い。ただ重大な事柄を論議するときは、判断を誤ることもあるかもしれない。その時みんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。] と言うものである。

ここで言う「道理にかなう結論」と言うモノは、現代の多数決の民主主義とは大いにその趣をことにしている。今の民主主義は、個人の意見をぶつけ合うものであり、個人の意見を押し通すこととなる。そのために多少の妥協や修正も行われるかもしれないが、結局は多数決となり強いものの意見が往々にして通ることとなる。従ってその場合には必ずしも「道理にかなう」モノにはならないこともあろう。

この「万機公論に決すべし」とは、「もっとも理を得た結論を出すための、各人が知恵を出し合って最良の道を共に探る公議(社会全体の議論)公論(公平な議論)」なのである。要するに、議論は個人の利害から離れて、社会全体に対して理にかなったやり方を求めよ、と言っているのである。そういう意味では、利己心をはなれて”公おおやけ”にとって最善と思われる策を論じ合うと言う、現代民主主義を更に発展させたと言うか超越したところに基準を置いているのである。

なお、聖徳太子の「十七条の憲法」の第十条には、この民主主義の考えも述べられていると言う。
(続く)
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ヨーロッパと日本(20)

2008-11-09 01:29:05 | Weblog

ちなみに、奉答書とは、群臣が天皇の意思に従うことを表明した文書であり、Wikipediaによると、公卿と諸侯は総数で544名、その他が288名が署名している。なお当日署名できなかった者は後日署名している。署名者は公卿・諸侯のほか、天皇に直属する朝臣(あそん、朝廷の臣下のこと)となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わっている。

奉答書」を以下に記す。

勅意宏遠(広くて遠大)、誠に以って感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出ずべからず。臣等謹んで叡旨(天子の思し召し・お考え)を奉戴(謹んでいただく)し死を誓い、 黽(勤)便従事、冀(願わ)くは以って宸襟を安んじ奉らん。
慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯名印 』

天皇の意志は遠大であり、誠に感銘に耐えない。今日の急務と永世の基礎は、これに他ならない。われ等臣下は謹んで天皇の意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を安心させよう。」と言う意味である。

木戸孝允や藩士出身の新政府実力者達の署名はない、とWikipediaには記載されているが、彼等がお膳立てをして、明治天皇とご相談をして五箇条の御誓文を起草し天皇親政を進めたのであるから、その過程でそのことは十分お誓い申し上げているとの思いであったことであろう。



さて五箇条のご誓文の第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」の真意とは、どう解釈すればよいのであろうか。一般的には、単純に現在の民主主義を連想するのが普通であるが、もう少し深い意味があるようである。
(続く)
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ヨーロッパと日本(19)

2008-11-04 13:17:04 | Weblog

次に坂本龍馬の「船中八策」を列記してみる。

一策、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事

二策、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決す
べき事(上下両院を設置し、議会政治を行え)

三策、有材の公卿諸侯及天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無
実の、官を除くべき事(公卿諸侯のほか有能な人材を選抜し顧問とせよ)

四策、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事(不平等条約を改
正せよ)

五策、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事(憲法を制定せよ)

六策、海軍宜しく拡張すべき事

七策、御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事

八策、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事(金銀の交換レートを国内用と国外用とを統一させよ)


1867年6月(慶応3年4月)坂本龍馬(33歳)は長崎から京都へ向かう土佐藩の船夕顔丸の船上にいた。上洛している前土佐藩主の山内容堂(41歳)に対して大政奉還を進言するためだ。その船上で土佐藩参政の後藤象二郎(30歳)に、大政奉還を旨とした政治構想を示した。これをまとめたものが「船中八策」であるが、後藤はこの坂本の構想を山内容堂に進言した。山内容堂はこれを大政奉還の建白書として1867年10月に第15代将軍徳川慶喜(31歳)に提出する。そして1867年11月9日(慶応3年10月14日)慶喜による大政の奉還となる。このように大政奉還の立役者は坂本龍馬であったと言っても過言ではない。

坂本龍馬と後藤象二郎は共に土佐藩の出身であるが、龍馬は郷士の身分であり、後藤の身分は上士であり、坂本にとっては後藤家ははるか雲上の人であった。しかも後藤は山内容堂の指示を受けて、竜馬などとも親交のあった土佐勤皇党を弾圧した。2人は仇敵の間柄であったが、龍馬は後藤の人物の大きさを認め両者は手を結び、薩長連合による討幕軍に土佐藩も加わることとなる。

坂本龍馬は此の年、1867年12月10(慶応3年11月15日)京都の旅籠・近江屋の2階で、中岡慎太郎と共に京都見廻り組(と言う説が有力であるが)により暗殺される。真に惜しい人物を亡くしたものであるが、日露戦争の日本海海戦の直前に、龍馬は皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対に勝てます」と語ったと言う。此の話は全国紙にも掲載されたと言うが、龍馬は死しても日本国の行く末を案じていたものと思われる。
(続く)
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