世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

ヨーロッパと日本(36)

2008-11-30 17:13:03 | Weblog

18.富国強兵

江戸時代の京都の治安維持の任務は、京都所司代と言う役職が当たっていた。所司代とは、所司の代理と言うのが本来の意味であるが、元々「所司」とは、鎌倉・室町時代の軍事・警察を担当する「侍所」と言う組織の長官の名称であったが、江戸時代は侍所を置かずに、京都所司代がそれらに倣って設けられていた。

幕末の動乱期にはその上に「京都守護職」を設けて、治安の維持を図らなければならないほど混乱していた。京都守護職は京都市中の治安維持と御所、二条城の警護などの役割を担っていた。1862年9月24日(文久2年8月1日)会津藩主・松平容保(かたもり)がその職につく。1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」により薩摩と長州が政治の支配権を獲得した為、廃止されている。

最も貧乏くじを引いたのは、会津藩であった。会津藩は、当初守護職への就任をかたくなに固辞していたが、一橋慶喜や福井の松平春嶽等に再三に渡って就任を要請されたため、しぶしぶその任についている。そのため戊辰戦争では、最後まで幕府側にたたざるを得なかったため、1868年11月新政府軍に滅ぼされてしまったのだ。

明治元年5月24日(1868年)徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、政府は江戸が帝都に適しているかの検討を始める(慶喜は7月に駿河に移る)。明治元年7月7日に遷都可能の判断を下す。そして7月17日江戸を称して東京と為すの詔書」が発せられる。そして天皇は明治元年9月20日、京都を出発し10月13日に江戸城に到着、江戸城はその日の内に東幸(東京への行幸)の皇居と定められ、江戸城は東京城と改称された。東京への行幸(東幸)には、長州・土佐・備前(岡山藩)・大洲藩(愛媛県伊予国)の4藩の兵の3,300名がその警護に当たった。東京奠都(てんと、都を定める)の後は、長州藩の部隊が東京城の警護に当たった。

西郷隆盛は鹿児島藩(薩摩藩の版籍奉還後名前)の政務に当たっていたが、新生軍隊の編成のために新政府に呼び出され、明治4年1月4日東京へ向け出発する。しかし中央での政策に関する対立などの政争の深刻化に嫌気が差し、自らは専ら与えられた軍隊編成だけに力を注ぐことになる。そして明治4年2月13日(1871年)、薩摩、長州、土佐の兵およそ8,000人を以って入京する。そして正式に「御親兵」として発足する。

・薩摩藩 歩兵4大隊、砲隊4隊
・長州藩 歩兵3大隊
・土佐藩 歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊

御親兵は名目上兵部卿有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)を長とし、公称は1万人であった。日本最初の国軍の誕生である。
(続く)
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