ここら辺の事情は、小生のブログ「南京大逆殺の虚構宣伝と胡錦涛の秘密工作に騙されるな。」(2007.6.5~)に詳しいのでぜひ参照願いたいのだが、簡単に概略しておく。これは亜細亜大学教授(当時)の東中野修道氏の16年に渡る研究結果であることをご承知おき願う。
まず、南京大虐殺の根拠とされたティンバーリ記者の「戦争とは何か」という本は、中国国民党中央宣伝部製作の『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に、国民党中央宣伝部が作成した宣伝本であると明記されているのである。
ティンバーリ記者の「戦争とは何か」という本は、中国国民党中央宣伝部製作の『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に、国民党中央宣伝部が作成した宣伝本と記載されており、
その宣伝計画とは
(1)日本軍が暴行を働くように仕向け、
(2)それを誰かが南京で告発し、
(3)世界に発信する。
と言うことであった。
この活動を請け負ったのが、安全区に残留していた欧米人であった。しかも南京軍の唐正智司令官は彼らと交流を深め、懐柔までしていたのであった。
(1)軍服を脱ぎ捨て私服(便衣)に着替えた中国兵に暗にゲリラ活動をさせて、日本軍が彼らを摘発し処罰するように仕向けた。
(2)安全区の国際委員会の委員長のジョン・ラーベ(独人・シーメンス南京支社長)は、安全区に中国兵を多数かくまい、ゲリラ活動をさせて、日本軍に摘発・処罰させて欧米人の反感を引き出させた。
(3)中央宣伝部は、彼ら欧米人を使ってこの摘発・処罰を「敵の暴行」として発信させた。
宣伝本「戦争とは何か」を編集したオーストラリア人のハロルド・ティンバーリは、この中央宣伝部の顧問であり、中央宣伝部国際宣伝処処長の曾虚白が「お金」を支払って事前に作らせたものであった。
更に宣教師で南京大学の教授であったベイツも国民党政府の顧問であり、米人宣教師・ジョージ・フィッチ師は蒋介石の妻・宋美齢と親交があり、この宣伝に一役も二役も貢献しているのである。
さてここらで、本文・「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP112以降に戻ろう。繰り返しになる部分もあるが、本文の「南京事件の虚実」に沿ってそれを紹介する。
まず南京戦の経過を、以上見てきたものから、時系列的にまとめてみる。
1937(S12)年12月 南京攻略戦
12/3 第10軍進撃開始、中山門・太平門・和平門(図の神策門のこと)
上海派遣軍 〃 、共和門(図の光華門か?)、中華門、水西門
以上は「南京城攻略要領」による。
12/7 南京城より20km地点に到着、外周陣地と複郭陣地での戦闘
特に雨花台では激戦。「南京城攻略要領」を発布
同時に『南京城の攻略及び入場に関する注意事項』追加公布し
不法行為等を絶対禁止する。
12/9 降伏勧告ビラを投下するも反応せず。
12/9~12/12 南京城内を砲撃する。
12/12夜半 光華門、中山門、中華門突破、
中国軍撤退進行中。便意兵、安全区に逃げ込む。
12/13早朝、中国兵の退却確認
12/13夕刻、南京城占領、中華門より入城する部隊、人影を見ず。
12/14 16:30 ミニー・ヴォートリン教授水西門までドライブ、戦闘・
虐殺の痕跡見つからず。
12/14~16 掃討戦、安全区で大量の兵器・弾薬押収、兵士を捕虜。
12/16頃 中山門から入場した獣医、市内を5報復するも中国兵の死体見ず。
捕虜収容所から逃げても追わず、逃がす。
12/17 日本軍、南京城入城式挙行
12/20頃 露店多数開店、商店営業開始、兵士たち水牛の印鑑を註文し購入。
市内は平和そのものだったとの証言。
12/24~1/7 安全区の平民登録、良民証発行。人口25万人と判明。
1938(S13)年1/1 南京自治委員会成立
・・・と、このように南京戦は、城外では激しい戦闘があったものの、城内では戦闘らしい戦闘は起こっていないのであるが、そこは中国の宣伝戦である。
大規模な虐殺の暴行があったと、盛んに宣伝したのである。
12/15日号の「シカゴ・デイリーニュース」・スティール記者
南京の包囲と攻略「地獄の4日間」と投稿
12/18付けニューヨーク・タイムズ・ダーディン記者
大規模な虐殺と蛮行、殺人・略奪・暴行強姦の記事
12/15 スティール、ダーディンの両記者、南京脱出し上海へ。
彼らは12/13~14の南京しか知らない筈。上記の時系列によれば、中国
兵は南京市内からは退却済みで、市内は平穏そのもの。
ミニー・ヴォートリン教授の日記、水西門へドライブ死体など見ず。
彼らが見た南京では、殺人はおろか戦闘などは一切とは言わないが、
行われていなかったのである。
スティール、ダーディン両記者は、事実と違うことを記事にしていたことになる。安全区には記者はまだ三人もいたが、この三人の新聞記者は一切虐殺などには言及していなかったのである。もし虐殺があれば、彼らも記事にしていたであろうが、虐殺なんぞは一切なかったので、彼ら三人の記者は記事にはしなかったのである。
スティール、ダーディンの両記者は同じような内容の虚偽の報告をしていたことになるのであるが、なぜそうなったのかは、しっかりと見極めておく必要がある。
彼らは、ハロルド・ティンバーリ篇の『戦争とは何か』を種本として使っていたのであった。
(続く)