ティンバーリ記者の「戦争とは何か」という本は、中国国民党中央宣伝部製作の『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に、国民党中央宣伝部が作成した宣伝本であると書かれている通り、
中央宣伝部国際宣伝処処長の曾虚白が、中央宣伝部の顧問であったティンバーリに「お金」を支払って事前に作らせたものであった。
この本を、安全区国際委員会の中心的活動家であった、ベイツ南京大学教授がどうも宣伝活動に使ってもらおうと、広めたものであった。
ベイツは「戦争とは何か」という本に次の様なメモを書いており、それを記者たちに配っていたであった。だからあの2人は同じような内容の記事を書いたのである。
ベイツのメモを一寸長いが、「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP115より引用する。
『 二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行を含む家庭生活の嘗て極まる妨害などによって、自体の見通しはすっかり暗くなっていました。市内を見回った外国人は、この通りには市民の死体が多数転がっていたと報告しています。‥…死亡した市民の大部分は13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入てきた時に射殺されたり、銃剣で尽くさされたりしたものでした。‥…元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは数珠つなぎに縛り上げられて射殺されました。これら兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていたものもしました。‥…南京で示されるこの身の毛もよだつような状態は‥…』
と言った内容であり、あたかも通州事件での内容をなぞったような表現が見受けられますが、それらも参考にして作成したメモだったのでしょう、内容は捏造そのものですが。
スティール、ダーディンの両記者やこのベイツの他の外国人は、どんなことを言ったり書いたりしているのが、興味あるところである。
それも「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP116~に書いてあるので、概略しておきたい。
(1) 国際委員会事務局長・ルイス・スマイス教授
『12/13午後1時に、漢中路で日本軍の分遣隊に合う。バスを点検中で人を傷つけることはない。更に約百人の先遣隊が道路に腰かけていたが、周りには沢山の支那人が眺めていた。日本兵を攻撃するものが居ない限り、安全だと言った。』
スティール記者の言う「地獄の四日間」とは程遠い内容である。
もう一つ、9/4のNO.13で紹介した安全区の組織・国際委員会の
(2) 金陵女子大学教授のミニー・ヴォートリン教授の日記がある。
彼女は安全区から水西門までドライブしたが、一つの遺体のほか、虐殺や暴動の跡などは一つも見ていなかった、と報告している。
(3) 京都第16師団輜重兵第16連隊・獣医少尉、稲垣清氏(97・当時)
(週刊新潮の2007年12月20日号に掲載されていた証言内容)
「・・・それから、南京大虐殺記念館で発行したアルバムに収録されている地図に、(虐殺者数が)ここで何万、ここで何万と書かれてございます。その場所に私は、軍に用意されたBMWのサイドカーに乗って行っておりますが、まるきり綺麗なもんでございまして、死体があった痕跡も、ひとつも見ておりません。」
という証言にある通り、彼は南京市街をBMWのサイドカーで数回往復しており、後に南京大逆殺記念館で大虐殺があったと説明されている場所も訪問していたのだが、そこには虐殺の跡などなくまるきりなく、きれいなもんでした、と言っていたのである。
南京大虐殺は、中国の虚偽・捏造報告なのである。
もう一つ、その証拠を見せよう。これは、中国政府の公式見解だと思ってもよい記録なのである。
(4) それは、重慶の国際問題委員会監修で刊行されたもので、安全区での事件簿をまとめた「南京安全地帯の記録」である。これは当時の現場で記録された一次資料である、とされている。
これも「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP120~121に記されているものである。
それによると、
殺人事件 合計25件
うち伝聞24件
目撃 1件 注「日本軍が合法的に行う処刑については、 我々に抗議する権利などない」と書かれている。
この目撃の1件は合法的な処刑であり、虐殺などではない。
しかも残りの伝聞の24件は不確かな事例であり、虐殺・暴行が多発したなど℃と言うことは、限りなくゼロに近い、というよりも、無かったということである。
(5) 事実東京裁判では、安全区の国際委員会のマギー牧師の長々とした告発の後に、ブルックス弁護人が「今のお話の不法行為又は殺人行為の現行犯をどれほど見たのか」との反対尋問に対しては、「ただ一人の事件だけです」と答えている。これも誰何スイカされた中国人が突然逃げたし、日本兵がそれを追いかけて射殺した、というものであった。
この殺人は合法的な行為であり、虐殺には当たらないものである。先の「安全地帯の記録」と同じ事件でなかったか、と思われるものである。
(続く)