世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(12)

2024-09-03 00:00:00 | Weblog

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP104~105~108では、次の様に記したている。 

 

この指示に基づき、各部隊は南京に向かい敵を追撃していきました。 

 ドイツ軍事顧問団指導によるトーチカ群と拠点陣地群が上海から南京にかけて構築されていましたが、日本軍はそれらを次々に突破していきました。首都南京の周りには多くの陣地が構築され、南京郊外20キロ付近には外周陣地が、南京城付近には複郭陣地がつくられていました。南京攻略戦はその大部分がこの周辺複郭陣地での戦いでした。 

12月7日、南京まで約20キロの地点まで迫り、いよいよ南京攻略を前に、 「南京城攻略要領」が発せられ、各軍の作戦地域が定められました。 

・派遣軍:中山門、太平門、和平門 

・第10軍:共和門、中華門、水西門 

 そして各師団は、1個連隊が城内の定められた作戦地域に入り敵軍を掃討することを命じられていました。 

 また、不法行為の防止が強調され、「南京城の攻略及び入場に関する注意事項」がさらに追加交付されました。そこでは、冒頭に、 

皇軍が外国の首都に入場するは、有史以来の盛事にして、長く竹帛(竹簡や布帛フハク・布に字を書いた事から書物の事)を垂るべき事蹟たると、世界に斉しく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々将来の模範たるべき心組みを以て、各部隊の乱入、友軍の相撃ち、不法行為等、絶対になからしむを要す」 

 と書かれ、将来の模範となる戦いを行うよう命じられていました。‥… 

・・・・・ 

 12月9日正午、松井司令官は降伏勧告文を南京防衛司令官宛に飛行機から投下しました。(10日正午までに中山路の所定場所へ回答を持参せよ、と指定したが)‥…しかし、期限がきても回答者は現れず、いよいよ日本軍の攻撃が開始されました。』 

 

 

ここで南京市街図を見てみよう。 

 

中山路とは図中の中山北路のことである。当時は北の字は無かったが、この中山北路の左側の2区画が、いわゆる安全区であったところであり一般市民など20万人が集められていたところであった。逃亡した便意兵たちが隠れたところでもある。 

 

 

次に参考までに「中山門」の写真を添付する。 

(いずれもhttps://4travel.jp/travelogue/10538858 よりの借用です。) 

 

 

南京城攻撃の様子も「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP108より引用して載せる。 

 

 

 南京防衛軍は外周陣地に3.2万~3.5万、城内・複郭陣地に3万、合計6.5万~7万程度と推定されます。城内への砲撃などと並行しますが、場外の複郭陣地などの戦いが主体で、中でも雨花台では大激戦となりました。遂に、12日夜半、光華門、中山門、中華門を突破して城内に入ったところ、中国軍は一斉に撤退を行っていました。したがって、城内では大きな戦いは起きませんでした。むしろ、適切な撤退命令が無いまま敗走する中国軍の一部は、中国軍の督戦隊によって、撤退を阻止するための射撃を受け死亡する兵士が続出すると言った有様でした。また多数の兵士が、軍服を脱ぎ捨てて平服に着替えて安全区にもぐりこみ、それを国際委員会が黙認していたことが後に大きな問題を引き起こすことになりました。 

 13日早朝、南京城の敵が退却したことが判明しました。各師団は予め示された攻略要領に基づき、各1個連隊を入場させ城内掃討を行いました。南京場内で死闘が行われたと思っている方がおられるかと思いますが、実際はまるで違います。』 

 

複郭陣地とはどんな陣地かは知らないが、どうも最終防御陣地のことを言うらしいが、つまびらかではないがそれ相応の形態の陣地なのでしょう。 

 

南京城外では雨花台の戦いが大激戦であったが、この城外の複郭陣地での戦いが大半であり、南京城内・南京市内での戦いは殆ど無かったのが歴史的な事実なのであり、中国共産党の宣伝する「南京大虐殺」などは起こりえなかったものである。「南京大虐殺」というのは、中国共産党の得意とする「捏造」「欺瞞」「プロパガンダ」そのものなのであり、騙されてはいけないのである。 

 

雨花台は南京市街図では雨花門(市街図の下部)となっているところの城外である。ここでの戦いが激戦であったようだ。 

(続く)

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