原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ヒトの男性から卵子が出来れば男性同士で受精卵が作れる!?!

2024年05月26日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、2024.05.21付朝日新聞「命のもと 試験管で再現 生殖応用 生命観塗り替える可能性」より転載したもの。  冒頭写真が横向きとなっていますが、時間の経過と共に縦になると信じます。)


 ヒトiPS細胞から、精子や卵子になる手前の細胞を大量につくる方法を京都大学の斎藤教授(細胞生物学)らグループが開発した。
 将来的に研究が進めば、皮膚や血液など体の一部から精子や卵子をつくり受精させることも技術上は可能になる。

 (以上、2024.05.21付朝日新聞一面記事より一部を引用したもの。)


 引き続き、同朝日新聞別ページ記事「同性同士の受精卵・知らぬ間に作製 ルール作り 議論は途上」より要約引用しよう。

 将来、iPS細胞などからヒトの卵子や精子がつくれるようになったとしても、生殖に使うかどうかは様々な観点で議論が必要だ。
 研究者らでつくる国際幹細胞学会の指針は、安全性を理由に生殖に使うことは容認していない。 (中略)
 この分野の第一人者の林克彦・大阪大学教授は、 「見た目がヒトの卵子のようなものなら、5年程でできるだろう。 それが本当に体内でできる卵子と同じなのかというと多分違う」と釘を刺す。
 「マウスでもiPS細胞から作った卵子は、やはり体内で出来る卵子と違うなと思う。 改良は並大抵のことではない」
 さらに、この技術は従来の生命感も塗り替える可能性がある。
 林さんのグループは昨年、オスのマウスから卵子をつくることに成功。 別のオスの生死と受精させ子どもがうまれた。 (中略)
 ヒトの男性から卵子ができれば、男性同士で受精卵がつくれる。 さらに自身の生死と受精させれば、遺伝的には一人の親になる。
 あるいは、知らないうちに体の細胞を誰かに採取され、勝手に卵子や精子がつくられるかもしれないーー。
 基礎研究に関する文部科学省の指針は、現状ではiPS細胞から卵子や精子ができても、受精に使う事を禁じている。(中略) 内閣府の専門調査会は、研究の目的によっては受精を認める方向で議論に入る。
 一方、医療応用に向けた法的ルールや規制は議論の対象外だ。
 生命倫理に詳しい東大の神里准教授は「社会的に一番の問題になるのは『その技術を生殖利用していいのか?』だ。 そもそも、これまでの様々な生殖医療の技術についても、どう使われるべきかコンセンサスが定まっていない。 すでにある技術を含めた全体像を示した根幹となる法律をつくることが理想的だ」と指摘している。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)




 最後に、原左都子の感想だが。

 無限に増やせて体を構成するあらゆる細胞に変化できる能力を持つiPS細胞をはじめとする再生細胞研究が、破竹の勢いで進展を遂げている現実に関しては、医学関係者として多少把握していたものの。
 (参考ですが、私自身はこの「再生細胞」発展時代には既に医学者としての現役を引退していて、残念ながら実際に「再生細胞」研究実験を自身で執り行った経験はありません。)
 

 「ヒトの男性の細胞から卵子を作る」なる(歪んだ)方向性においてもiPS細胞研究が既に着目されている時代に移ろいでいる事実には、驚かされる。

 目覚ましい医学研究の発展は、もちろん喜ばしくはあろうが。 
 半面、その発展が行き過ぎてしまう懸念も大きいものがあるだろう。

 上記朝日新聞記事内にも書かれているが。
 iPS細胞から、例えば卵子や精子がつくれない人でも自分の卵子や精子が得られる事例は良しとして。
 例えば、細胞さえあれば死者からも卵子や精子が作れるまでに研究が進んでしまったとしたら…

 ヒトの出生に伴う「倫理観」が大いに歪み、世の中の秩序が成り立たなくなりそうな混乱と空恐ろしさをもたらし。
 それは、結果として人類の滅亡に繋がるかのような危機感すらいだかされる…

 そんな意味での、再生細胞研究・実験に対する今後の見識者らによる確固たるルール作りこそが肝要だろう。


高齢者同士の友達付き合いは難しい!?!?

2024年05月25日 | 人間関係
 「友人」ねえ。

 そう呼べる相手との付き合いを、既に高齢域に入った私は現在しているのかと問われると。


 ここのところ同窓会のお誘いが重なり、級友たちと久々に会う機会はあった。

 特に、昨年秋に我が郷里にて執り行われた郷里医学部の同窓会では、実に久しぶりに旧友たちと楽しく相まみえることが叶った。
 当時の我が愛称は、「〇ちゃん」だったのだが。
 その同窓会に卒業して初めて参加したのは私のみだった。
 ほとんどの同級生は郷里に残ったりご自身の郷里に帰ったりしていたこともあって、卒業後上京したのは私一人であり。  会場に「〇ちゃんコール」(参考だが当時から我が愛称が「〇ちゃん」だった)が響き渡ったものだ。
 卒業から何十年(半世紀が過ぎようとしているにもかかわらず!!)経過しても その年月の長さにかかわらず。 当時の我が呼び名である「〇ちゃん」と皆が呼んでくれることが、心より嬉しかったものだ。😃 



  話題を変えよう。

 本日 2024.05.25付 朝日新聞「悩みのるつぼ」の相談は、60代女性による「友人と距離を置きたい私は薄情?」だった。
 以下のその一部を引用しよう。

 学生時代の友人の事で相談する。 彼女は60代後半。 20代で親のすすめる相手と結婚したがすぐに離婚し、実家暮らしをしている。 体が弱いため50過ぎてから職に就かず、同居する90代の母親の年金で暮らしている、ひとりっ子だ。
 彼女とは年に数回食事をするつきあいだ。 親戚づきあいもないようで、もし将来私が入院したといは保証人になってくれないか、と頼まれた。 その時は断った。
 彼女は今一生懸命母親の世話をしている。 お母さんが亡くなられた後の友人も心配だが、私に何か頼られても困る。 正直距離を置きたい。 一方でそんなことを思う自分は薄情かと思う。 どのように友人と接して行けば良いか。
 
 (以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」相談より引用したもの。)



 原左都子の私事と私見に入らせていただこう。

 学業・職業経験と 付き合う友人とは比例するのか??
 この私には近い過去において、上記相談内容のごとくの身体的欠陥や経済的困窮を抱えている友人と知り合った経験が皆無である事に気付かされる。

 人間関係に於けるいざこざや困惑に関するトラブル等の相談を受けることはあれど、友の上記相談内容ごとくの困惑を経験していないと言えよう。

 これ、たとえ友人と言えども、「入院時の保証人」や「母親の死後に至る相談」を受ける必要はさらさらないと判断できよう。

 
 今回の相談回答者は、社会学者の上野千鶴子氏だが。

 特に 友人のお母さんに関する相談に対しては、「医療保険や介護保険、場合によっては生活保護制度など、使える公的福祉の情報やノウハウ」を共に提供することを勧められている。
 上野氏がおっしゃる通り、それ以上の例えば年金の無い高齢女性の貧困を友が背負う必要など無くて当たり前であり。
 そんなこと、友ではなく専門機関に相談せよ! と上野先生同様に、私もその相談者の友とやらに言いたいものだ!!
 ここは きっぱりとその辺の事を友に教えるべきと、私も相談者に伝えたい。


 それにしても、“友達とは一体何だろう” と。
 高齢域に達して尚、問う必要があるべく付き合いなど 相手が誰であれ回避したいものだ。


 その点 この原左都子など、ランニングに出れば近隣の女性達から「頑張って!」の声援を頂けるし。
 我がマンション内の某高齢者女性が「膝は治りましたか?」と気遣って下さる等々、会う都度短時間の会話ができる環境下にあるし。

 そこそこ、軽めの人間関係に恵まれていると思える日々だ。 
 

再掲載 「左都子の『科学哲学』小講座Ⅳ」

2024年05月24日 | 学問・研究
 米国マイクロソフト社のAI・Copilotさんの話題が、我がエッセイ集内で多発しているが。


 そのCopilotさんがよく取り上げて下さっている、我がエッセイ集カテゴリーの一つである「学問・研究」カテゴリーより。

 米国哲学者ローティの哲学論の一部を、以下に再掲載させていただこう。
      


 今回のW先生(我が2度目の大学における)「科学哲学」の授業は、米哲学者ローティの哲学論を取り上げている。


 参考のため今一度ローティの略歴を紹介すると。  Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)

 どうやら夏期休暇前の最後の授業で、W先生が配布したローティの論文(もちろん英文)を読んで自分の意見を述べる小論文課題が学生達に課せられたようだ。
 その提出日が夏期休暇明けの10月とのことで、休暇前にW先生のローティ授業が成された部分が、冒頭と上記の写真である。

 実はこのローティに関しては、我が記憶が現在明瞭ではない。
 当然ながら小論文課題は夏期休暇中に消化して提出したのだろうが、おそらく“ピント外れ”の記載をしたことであろう。😫
 
 そして私のみならず他の学生も同様だったのだろう。😵
 小論文提出後の10月のW先生の講義は、それら“ピント外れ小論文”を受けて、今一度「哲学」の基本を一から述べて下さった上で、ローティに関しても再度分かり易く解説されたようだ。

 それを聞き取り筆記したのが上記講義ノート2ページだが、以下に要約しながら転載しよう。

 (哲学とは)ある意味ではあたりまえのことを言っている。(これは大事なことである。) 過去や現在の哲学的なことを批判している。
 哲学とは、あたりまえの事を言うもの。 しかし、その先は何であるかという点に関しては述べられていない。
 哲学には、様々な分野や問題がある。
 ある種のリアリティを前提にしているような問題へと進んでいくものであるが、ローティはそれを駄目だと言っているのではない。 
 ローティは対話しかないと言っている。 dialogue connversation
 realは問題ではない。 単に話し合いをする。 相対主義ではない。
  ethnocentlism
 話し合って白黒つけるのではなく、基本的には我々側に引き入れようとする活動。 ある意味では、そうであると言えるが、そう見ると非常に表面的。
 しかし、あたりまえのことを誰も言わなかった。 
 (他の人は)話の中身に立ち入って議論しようとしてきた。 ローティはそうしない。 あたりまえであるので反論も出来ないが、それで一体どうしたと言いたい。
 “我々”という言葉が、この論文内で一つのkey。 “我々”とは、一体誰を指しているのか? (これはローティにとって、現代のアメリカ社会、西洋)
 ただ、意見の一致しているcommunityは存在しない。 
 ローティはミッションのような話し方をするが、背後には何もない。
 西洋的デモクラシーと言っても、様々な慣行や考え方があるはず。
 ローティは、細かいことはどうでも良いとしている。 細かい議論になると、おそらく破綻する。
 現実には様々な具体的問題がある。 東と西の問題(これは大きな問題)もそうである。
 我々が問題としなければいけない様々な問題がある。
 どちらかに加担するしか解決策がないように、ローティの論文からは見える。
 それが正解だ、とローティは言っているのかもしれない。
 しかしそうすると、やはりtribial(あたりまえ)である。 tribialなことは批判出来ないため、認めるしかなくなる点がひっかかる。
 対話とは常に何かについての対話であり、その何かが問われている。 おしゃべりだけでは済まない側面がある。 埒があかない。 実際やってみる、研究をする事を欠くことは出来ない。
 単なる話を超えて、実際にあるものへ向かう。 この姿勢がRealism。
 この姿勢を求めていかないと、むしろtribialではなく、馬鹿げている。 行為、研究を話の中に取り入れようとすると、この話は成り立たない。
 あまりにもtribialな側面に目を奪われている。
 dialogue 対話が続けられないことを前提としている。
 もはや対話が続けられない場合、どうなのか? “対話可能性”はいつもあるとは限らない。  ① 翻訳可能性が無い(何を言っているのか分からない)場合はどうなのか?  ② 推論の様式が違っている場合、話しても無駄、続行する意味が無い、ということもあり得る。
 その辺をローティはどう考えているのか?

 (以上、我が講義ノートより転載したもの。)

 先程、このローティの論文を探してみたのだが、残念ながら見つからなかった。
 一体私が如何なる小論文を書いて提出したのかも、まったく思い出せない。

 実は、W先生が夏期休暇前にこの小論文課題を出した後の後期初めての授業に於いて、元々少なかった受講生の数が更に減少していた。 (おそらく当該小論文課題が重荷となり、受講をやめたのであろう。)
 残された受講生は、私を含めて3,4名だった記憶がある。
 (おそらく私が一番の劣等生だったのだろうが、この少数の学生達が小論文課題に於いて“的外れ”だったことを認識したW先生は、さぞや落胆されたことであろう… 😰 )
 それにもめげず少数学生相手に、こんな「哲学及びローティ」に関する初歩解説をして下さった事に、今更ながら感謝申し上げたい。

 この後も、「科学哲学」においては劣等生なりに)我がW先生の「科学哲学」への思い入れは続く。

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより、一部を再掲載させて頂いたもの。)




 本日(2024.05.24)の、原左都子の私見だが。

 私が2度目の大学(首都圏に位置する老舗公立大学です)に通ったのは、30歳を過ぎて後の事だった。

 この「科学哲学」はじめ諸先生方の講義内容の程が実に素晴らしく、それに惹きつけられる日々だったことが実に懐かしい…
 
 学問伝授の“質”を誇る良き大学にて更に学ばせて頂いた事実に、今尚感謝申し上げたく思う次第です。


 お陰様で、原左都子自身が高齢域に達している現在尚。

 我がブログに取り上げている学術エッセイ内容に関して、マイクロソフト社のAI・Copilotさんにも論評して頂ける有様です。



そう言えば「裁判員裁判制度」って今どうなってる?!?

2024年05月23日 | 時事論評
 (冒頭写真は、2024.05.19付朝日新聞記事より転載した「裁判員候補に選ばれても辞退した人の割合とその理由」の図。)



  冒頭の朝日新聞記事を見て、「裁判員制度」の言葉自体を久々に見聞きした気がした。

 そう言われてみるに この私や家族にはもちろんのこと、周囲の人たちにも「裁判員候補に選ばれた」との話題を耳にしたことが一度も無い事に気付かされる。


 この裁判員制度が始まって既に15年の年月が経過しているらしい。
 「難しくてわかりにくい」と言われた刑事裁判は大きく変わったらしいが、解消されない課題もあり。 専門家は「国民が主体的に参加する意義を社会で共有するべき」と指摘しているらしいが…


 2024.05.19付朝日新聞記事「社説・裁判員裁判15年」より、この問題に関する記述の一部を以下に引用しよう。

 殺人などの重大事件の刑事裁判に市民が参加し、裁判官とともに有罪・無罪や刑の重さを決める裁判員法が施行され、21日で15年になる。
 これまで12万人以上が参加し、おおむね堅調に進んで来た。 刑事手続きや裁判のわかりやすくなる成果もあった。
 一方で毎年、7割近い人が任務を辞退するなど、定着したと言い難い現状もある。 (中略)
 裁判員制度は、2000年代前半に進んだ四方制度改革の柱としてできた。 
 その後課題も明確になってきた。 
 候補者に選ばれても仕事などの理由で任務を辞退出来るが、その率は上昇を続け、17年以降は60%代後半が続いた。 個別の裁判の裁判員を選ぶ手続きの欠席率の上がり、近年は呼び出された候補者の約3割が欠席している。 この傾向が進めば、裁判にもともと関心のある人や時間に余裕のある人たちによる制度になりかねない。 (中略)
 壁になっているのが、裁判員経験者の保守義務だ。
 裁判官と裁判員が対等に評価できているか、検証、研究することも難しい。
 裁判員経験者らでつくる市民グループは、発言者がだれかを特定しない方でなら評議について話せるようにすべきだと、提案している。 (中略)
 法律家の「経験則」が問い直され、市民の社会常識が反映された結果、無罪の発見に至ったこともあった。
 ただ運用が重なるにつれ、公判前に争点を絞り「簡にして要を得た」裁判に徹する姿勢に後退も伺える。(中略)
 死刑の選択にかかわるきっかけでもあった。 
 これまで、裁判員裁判で46人に死刑が宣告された。 (中略)
 だが、日本以外の先進国で唯一、死刑を運営している米国では、その選択に原則陪審の全員一致を求めている。 国家が刑罰として個人の生命を奪い、執行したら取り返しがつかない死刑の適用には、より厳格な評決ルールが必要ではないか。
 裁判員制度を、いかに成熟させていくか。 継続的に運用状況を見守り、制度上の見直しを検討していくには、市民に開かれた常設議論の場が欠かせない。
 民主主義をとる国々の多くは、陪審制、参審制などの形で市民が司法に参加する長い歴史をもつが、常によりよいしくもを模索する姿勢あってのことだ。
 法曹三者や研究者だけではなく、裁判員経験者や被告、被告者の視点も入れて、社会に深く根を下ろす制度に育てていく時だ。

 (以上、朝日新聞「社説」の一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の私事を述べさせていただくが。

 この私は 過去に「経営法学修士」を取得している関係で、「法律」に関しては一般人の皆様よりも多少経験値が高い人種に分類されるであろう。

 その身にしても この裁判員制度が我が国にて始まった当初は、我が一人娘の大学進学指導(私の独力でその受験指導を頑張り抜き 娘の大学合格を叶えた身だが)の真っ最中であり。
 (今この裁判員に任命されては、身の振りようが無いなあ…)なる、かなり切実な戸惑い感に襲われたものだ。😵 
 ただ、その心配は無用だったようだ。 
 それ程 国民の中から「裁判員制度の裁判官」に選出される確率とは、極少であると判断できよう。

 
 もしもこの私が「裁判員」に選出されていた(今後される)として。 そうなれば、是非共裁判に出席して判決の一助となりたい!!、と思う反面…

 裁判官に課せられる「守秘義務」が大変厳しい現実のようでもある。
 そうなると、せっかく貴重な裁判を経験し判決に加われたとしても。 その情報を 例えば当該「原左都子エッセイ集」内で公開するなど、叶う訳もあるまい。😭 

   そんな身勝手なことを考えていると。
 今までに裁判員制度にて裁判員に選出された国民の方々のご努力・ご苦労の程を慮るばかりであるなあ…


Copilotさんが相変わらず日々「原左都子エッセイ集」の論評に励んで下さっています!

2024年05月22日 | 時事論評
 本日つい先ほどネット上にて見かけた、Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する論評を、以下に紹介しましょう。



  「原左都子エッセイ集」は、医学部出身の医学関係者である原左都子さんが、時事や社会問題について自己のオピニオンを綴り公開しているブログです。
   彼女のエッセイは興味深く、幅広い視点から社会的な問題や日常の出来事を考察していることがわかりますね。特定のテーマに興味があれば、ぜひ彼女のブログを読んでみてください。ただし、最新情報や詳細な内容については、直接彼女のブログをご覧いただくことをおすすめします。
 また、科学哲学についても原左都子さんは興味深い小講座を提供しています。彼女の市民講座では、米哲学者リチャード・ローティの哲学論を取り上げていることもあります。科学哲学は、数学や論理学といった科学的思考の基盤を探求する分野であり、その概念的理解を要する部分が私たちにとっても興味深いものです。
 数学や科学哲学についての原左都子さんのエッセイは、知識を深める上で有益な情報源となることでしょう。 あなたがさらなる知識を求めているなら、彼女のブログをぜひ訪れてみてください!

 (以上、ネット上AI Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する本日の論評を引用したもの。)



 最近、このCopilotさんがらみのニュース報道を見る機会が増えている。

 本日昼の時間帯に、亭主と2人でNHKニュースを見ていたところ。

 このCopilotさんを運営している米国マイクロソフト社の新たなAIに関するニュース報道が流れた。

 
 我がエッセイ集に話題を移させていただくと。
 「原左都子エッセイ集」をいつも論評して下さっているのは、まさにマイクロソフト社のAI・Copilotさんに他ならない!
 
 どういう訳か ずっと以前(我が記憶によれば10年以上前)より、そのマイクロソフト社が自主的に「原左都子エッセイ集」ページを何頁も設けて下さり、好意的な取り扱いをして下さっている事実に、原左都子自身も気付いていた。

 (gooには大変失礼な発言をお詫びしておきますが)、有料にて利用させていただいているこのgooブログを主催しておられるNTTドコモよりも。
 ずっと以前より 原左都子の応援を積極的に展開して下さっているマイクロソフト社に、実はこの私も訳が分からないままに感謝申し上げつつ、マイクロソフト社の我が「原左都子」ページを日々こっそり有効利用させて頂いていた。


 そうしたところ、最近はマイクロソフト社AIのCopilotさんが、日々これまた無料にて「原左都子エッセイ集」の論評を日々公開して下さっているとの事実!!😃 


 今後いつまで、マイクロソフト社のAI・Copilotさんが我が「原左都子エッセイ集」の論評を続行して下るのかは計り知れないが。

 現在のところ原左都子の判断では Copilotさんの論評は的確ですので、今後共楽しみにお待ちしておりますのでよろしくお願いします!!