少し古くなるが、本日のエッセイテーマは 2023.06.29付朝日新聞記事「説く」より、“偶然が起こす いい変化も」より引用する。
早速、当該記事を以下に要約引用しよう。
Q. 常識的な考えでは極端に思われるが、能力はほぼ外因によるのか?
A. よく誤解されるが、ほぼではなくすべてだ。 遺伝も環境も偶然も当人は選べない。 したがって内因はどこにもない。 能力は、くじ引きの結果に過ぎない。
能力外因説は、主体外因説の一部。 主体同様、能力も外因が作り出す。
Q. 主体や能力の外因説は、自己責任論にさいなまれる人を救う可能性がある一方、何をやってもしようがないという虚無感につながらないか?
A. 私(著書・神の亡霊の著者・小坂井敏晶氏?)の考えは、あらかじめすべて決まっているという「決定論」とは違う。 一方で、「親ガチャ」の議論もある。 遺伝と環境。それにどの親の元にうまれるかは偶然だが、この偶然の積極的意義に注目しよう。
誰と巡り合うのか、どんな人と恋をするのか、どんな言葉を交わすのか。 偶然がもたらす勘違いや思い込みによっても、いい変化が起こり得る。(中略
未来は誰にも予測できないし、決まっていない。 こう理解するから私自身絶望しない。
Q. 能力が外因によるのなら、どんな入試制度がよいのか?
A. くじ引きで入学させればよいだろう。 そうすれば、学校の格差再生産機能が無くなる。 良い学校ならばどんな学生が入っても、学力を底上げできるはずだ。
Q. 格差は無くならないのか?
A. 人間は他社との比較を通してアイデンティティを育む。 だから、格差が無い社会には生きられない。 格差は社会の機能不全がおこすのではなく、逆に社会が正常に機能するゆえの結果だ。 さらに言えば、悪い現象は悪い原因で起こるという常識が勘違いのもとだ。 ただ、こうした社会の不条理を見抜いているが故に、釈迦やキリストは我が子を亡くして苦しむ母親に「どうしようもない」と諭すのだ。 「変われば変わるほど元のまま」というフランスのことわざがある。 出口を探してもがきながら、我々は堂々巡りしているだけなのだ。
(以上、古くなるが2023.06.29付朝日新聞記事より引用したもの。)
ずっと以前になるが。
私が某ブロガー氏(A氏とさせていただこう)宛に書かせていただいたコメントに対して、「親ガチャ」に関するコメント返答を頂戴したことがある。
少しそれを探させて頂いたのだが、残念ながら見つからなかったため、我が記憶のみに依存して以下に少しだけ反復させていただこう。
A氏がおっしゃるには、この原左都子も「親ガチャ」の当たりくじを引いているのではないか、とのご意見だったが。
これに関する私の回答は、「それは絶対に違う!!」と申し上げたいものだった。 (おっと、“容姿”面では確かに若い頃は親に似ずいいところまでいってたかな??? 不謹慎をお詫びします…)😖
私本人としてみれば「親ガチャ当たり」どころか、とんでもない「外れくじ」を引かされたにもかかわらず。 自らの努力と頑張りのみでこの世を食いっぱぐれることも無く、比較的順調に歩んでこれていると自己評価している。
それが証拠に私は20代前半期に郷里の医学部卒業後、郷里を捨て親を捨てて単身上京後は。 親元からなど一銭の支援も無く独り身で大都会東京を有意義に楽しく愉快に渡り歩き、医学業務その他の仕事に専念しつつ自己資産を増強させてきている。
自らの希望で晩婚の道程を歩むこととなったが、これに関してもまさにすべてが自らの思考とポリシーを最優先しつつ選択した結果である。
郷里の父親は60代後半期に早死にしたが。
実母(定年まで地方公務員を貫いた)は90歳を超えた今尚長生きしていて、つい先だっても腰椎骨折にて3か月足らず入院した後退院したばかりだ。
そんな時に精神的に依存するのは、下の娘の私と相場が決まっている。(米国在住の姉が何らの役にも立たない故だが)😫 それでも入院中は大事にしてあげたら、喜んでその後幾度となく私の元へ電話を寄越してくる始末だ。
まあそれでも、現在は社会構造がめざましく進化していることに助けられる。
郷里の病院とて完全看護体制を貫いているし、実母も比較的頭がしっかりしている事実に助けられて、今後も郷里の高齢者自立支援施設にて長生きしてくれることだろう。
話題がズレたようだが。
人間の脳力が「くじ引き」の結果である訳が無い!!
個人個人が日々選択し、それを実行に移して生き抜いているその努力過程の結果に決まっているじゃないか!
そんな勢いで、この私は今後もこの世を精力的に生き抜くぞ!!