原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

男は “ケア”が苦手か?

2022年11月23日 | 仕事・就職
 ここのところ朝日新聞夕刊にて、「男性を生きづらい」なるタイトルのコラムが連載されている。


 本日は、2022.11.21版の当該記事を紹介しよう。 
 以下に、「『ケアが苦手』は思い込み」と題する大阪公立大学准教授 平山亮氏による記事内容の一部を要約引用する。

 昨今、「男性性」という言葉が注目を集めている。 よく「男性は介護や育児などのケアが苦手な生き物である」と言われる。 これが「男性性」」で、男「あるある」のことだ。 「男は仕事」といった「かくあるべし」という考えは「男性性役割」で、二つは同じではない。 
 たとえば、「忖度」について考えよう。 相手が求めていることを察し、言われなくても相手のニーズに応えること。 それは、配慮や気遣いを求められてきた女性にしかできないのか。そんなことはないはず。 忖度が有名になったのは「ザ・男社会」の政治の世界だ。 (中略)
 「男は察せない」という男性性を持ち出して、「男にはできない」と思い込んでいる、もしくは「できない」とみせているだけ。 男がケアに携わらない理由があるかに見せ、結果的に、ケア負担の男女不均衡を維持してしまう。

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)



 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 上記記事を読んで、かなり驚いた私だ。😨 
 一体、いつの時代の話なのかと!

 と言うのも、この私も20代後半期に医学関連企業に於いて十数人の男女部下を持つ職場長(係長)に任命されたことがあるのだが。
 上司の私にとって扱いにくかったのは男性部下ではなく、むしろ女性部下だった。
 あくまでも私の感覚だが、男性は部下として一応心得ていると言うのか。 それはもしかしたら私に対する忖度であったのかもしれないが、とにかく男性部下に苦労をさせられた経験はただの一度も無い。

 それに対して、女性部下は正直言って多少鬱陶しさがあった。
 例えば、「貴方の係長としての方針に異議があります!」と直談判してくる女性部下がいた。 それを例えば職場ミーティング中にでも発言してくれたら、その場で話し合いの議題と出来るのに。  何故か、私が一人で職務に当たっている時に抗議してくるのだ。 これ正直言って、単なる駄々をこねてきているようにも受け止めた私は、「職場にはそれぞれが果たすべく役割があると私は考えています。 私は係長ですので、その立場で物事を判断したり指揮したりするべく場面も多いです。 それに異議申し立てたい場合は、会議中にでも提案して下さい。」
 その後当該女子社員からの直談判は無かったが、どうやら係長の私を避けて通っている感も無きにしも非ずだった。



 話題を大きく変えよう。

 今現在私は左膝複雑骨折のため退院後の通院を余儀なくされている。
 我が主治医のみならず、特にリハビリ担当の男性理学療法士氏にもお世話になっているのだが。
 ご両人共々よくできたお方で、何らの不都合もなく私は回復に向かっている。

 その中でも入院中からお世話頂いている男性理学療法士が、まさに私とツーカーの関係なのだ! そのお蔭をもって、私は回復が早いとも表現可能だ。
 二人の間には何らの忖度も無く、いつも実に自然体で接しつつリハビリが展開するのだが。
 リハビリ担当の理学療法士の仕事とは、まさに患者が求めていることを察し、言われなくても相手のニーズに応えることに尽きよう。
 自身の専門力は当然ながら不可欠だが、個々に個性や人物像が大きく異なるであろう種々の患者の症状や反応を見ながら、最大限のケア方策を指南しつつ患者を回復へと向かわせる、そんなケアを提供するべく存在である。

 実に適切な理学療法士氏に恵まれた私は、ありがたいことに早期回復が望めそうだ。😃 


 膝を複雑骨折したばかりに、今現在そんな場面を経験できる身として思うに。
 「男は“ケア”が苦手か?」と問われると、それって性別とは無関係の事象だ、と応えたくなる。
 自己の仕事に対する情熱と意気込みがあるならば、介護であれ看護であれ何であれ、男女にかかわらず誰しもが全う可能な職業であるはずではあるまいか。

 こんな場面で男女差別意識を持ちだす必要は何ら無い!と、私は訴えたいのだが。
 

私の複雑骨折した左膝を“90度”曲げろ!との主治医からの勅命ご指導!

2022年11月21日 | 自己実現
 本日は、骨折入院した病院の退院後3度目の外来受診日だった。


 いつも左膝のレントゲン撮影をした後に、整形外科主治医の受診となる。
 高齢域にして、こと膝手術後の傷口の回復度合いが優秀な私のようだ。
 既に傷口は塞がり、本日の受診では傷口の上に貼り付けていた透明テープを剥がし何らの付属物をも貼り付けていない元の我が素脚に戻った!

 膝の動かし方によっては未だ多少の痛みがあるものの、気を付けつつ暮らしている分には何らの不都合も無い程に回復している我が左膝だ。

 とは言えども膝を曲げるのには限界がある。
 

 主治医受診後にリハビリ室へ行くと。
 本日の我が担当の理学療法士氏曰く、「主治医先生より、今日は原さんの膝を90度曲げるように! との勅命が下っています。 やりますよ~~~~。」

 膝を“90度曲げる”とは如何なる状態かを説明するならば、椅子に座って膝から下をまっすぐにおろした状態だ。

 私応えて、「えーーーー!! 〇〇先生も惨い指導を下しましたね!!」😱 

 もちろんのこと、いきなり我が膝を90度曲げ始める程の“鬼”の理学療法士氏ではなく、和気あいあいと話しながらだんだんと負荷をかけていく手法はさすがだ。

 30分程のご指導の最後の頃に、その“90度曲げ”を実施し始めた。

 これ、やっぱりきついし痛い!!
 それでもこれをクリアせねば、先々のリハビリが遅れることも承知している私はその痛みに耐えるのだが。
 どうしてもあまりにも痛いと、ついつい我が口から「ギャーーー!!!」なる叫び声が出る。

 結果としては、本日のリハビリでは “膝曲げ80度” が限界だった。
 来週は、“90度曲げ”達成を目指すこととなる。



 それはそうとして。

 本日の収穫は、我が趣味である5キロランニングを来年の2月頃から開始してよい、との理学療法士氏のご回答だったことだ。
 ただし、“5キロを40分程かけてゆっくりと走る” との条件付きだが。

 そうだとしても、私にとってはこれ以上ない吉報だった!
 とにかく少しでも早めにランニングを開始したい私にとしては、実にありがたいアドバイスだった。

 今後も最大限の注意を払いつつ我が膝の回復を目指し。
 来年2月になったら、またいつものコースにてゆっくりペースのランニングを再開できる喜びを味わいたいものだ!😃 
 

昨夜、娘の少し早めの誕生日を我が家で祝いました!

2022年11月20日 | 人間関係
 (冒頭写真は、亭主が買って来てくれた娘の誕生祝いケーキ。 今年 29歳になります。)


 今更ながら、29年前の“惨事”を繰り返すのはもうやめにしたいが。

 あの日の朝から、私は陣痛に苦しめられていた。
 亭主が祝日出勤のため自宅で一人でその陣痛に耐えつつ。 一方で、陣痛が来たからと言って急に産気づく訳でも無いとの情報も耳にしていたため。
 医学関係者の私としては比較的冷静に日々のルーチンワークをこなしつつ、それでも郷里の母に電話にて相談した。
 遠方の実母にしてみれば、そんなことを相談されたとて困惑するばかりの様子で、「東京の義母さんに電話しなさい」とのアドバイスだ。

 では、と義母宅へ電話を入れると相変わらず義母は留守だ。(参考だが、義母が日中家にいたためしがなかった。)代わりに出てくれた義父がとても親切に、「すぐに産科主治医に連絡しなさい。」との適切なアドバイスをくれたためそうすると。

 主治医曰く、「貴方の場合初産なので、おそらく出産は明日になるかと計算する。 それまでに何らかの異常があるようなら、また連絡下さい。」

 そうこうして陣痛が激しくなるのに耐えつつ、家事を一通りこなし夕刻になった時に、私は明らかに“破水”した。
 それを主治医に電話で告げると、「すぐに医院まで来なさい!」
 と言われても、もうすでに我が身体が硬直して動けない状態だ。
 やむを得ず職場の亭主に電話を入れて、「すぐに帰ってきて産院へ連れてって!!」 それを告げつつ、私はあらかじめ用意してあった“出産セット”を自分で持ち出し、タワーマンションの一階玄関まで一人でエレベーターで降りて、玄関先でうずくまって亭主の車での帰宅を待った。
 亭主の車に乗った時には、私は既に産気づいていた。
 やっと産院に到着し、主治医が我が容態を診察してすぐに救急車を手配し、それに私は「自分で歩けます!」と言いつつ乗り込み、地元では著名な大規模産院に到着した。

 娘を出産したのは、その夜の20時06分のことだった。
 出産が終った私をベッドごと病室へ運んでくれるエレベーター内で私は看護師氏に尋ねた。「女の子でしたか?」 二人の看護師氏が口を応えて「とても可愛い女の子ですよ!!」
 
 ただ 私が娘に初対面できたのは、それから3日後だった。
 娘は仮死産だったが故に、3日間特別措置を受けていた。
 それでも娘と3日後に初対面した際に、私は大いに感激した! 本当に“可愛い赤ちゃん”だったが故だ。 こんな可愛い子を産めた自分を褒めたい思いだった。


 時は過ぎ去り、娘は大学卒業後IT技術者として活躍する身となり。
 今年5月には「ひとり立ちしたい」との自己の決意を述べて、我が家から巣立っていった。
 その後は、1,2か月に一度程のペースで我が家に訪れてくれるのだが。
 いつも宿泊はせず、必ず都内の自宅まで帰っていく。


 昨夜は、娘の29歳の誕生日祝いを一家3人で楽しんだ。  

 まずはバースデイケーキで、29歳を祝い。

                  
       

          

          

 母の私も、娘の好物の「鍋料理」を脚の不自由さにも耐えて用意した。

          

 片や亭主は、これまた娘の好物であるピザを購入してきてくれて。

 束の間の我が娘の29歳バースデイパーティは終焉した。

 
 娘と会うたび、私は思う。
 こんなに可愛いく、かつ強い娘は何処を捜してもいないだろうと。
 仮死産を生き抜き、その後サリバン(私の事だが)の厳しい生活・学習指導にも耐え続け、自分なりのサクセスをゲットして今は独り立ちしている我が娘。
 私といつ何時再会しても、何らの苦情を呈するでもなくいつも変わらぬ笑顔で接してくれるその性質は、天性のものであろう。

 もしも、娘が私に向かって「仮死産でなど産みやがって!!」と非難してきたとしても、私はそれに一生涯懺悔し続けるつもりでいた。「すべてはこの母の落ち度だ」と。

 ところがそんなそぶりなど一切見せずいつも笑顔の我が娘に、私は感謝する以外に手だてが無い。


 とにかく、今年29歳を迎える我が娘だが。
 もしも今後娘の気が変わって、母の責任を責める気になったとしても、私にはそれを全面的に受け入れる覚悟がいつもある!

 それこそが、私の娘に対する“真の愛情”であるかもしれない。


今回私は転倒骨折したことにより、“死に方”が少し分かったように思う

2022年11月19日 | 自己実現
 (冒頭写真は、門賀美央子氏著「死に方が分からない」を朝日新聞記事より転載したもの。)


  久々に、朝日新聞「書評」ページより話題を拾おう。


 朝日新聞2022.11.12付「書評」ページより、門賀美央子氏著「死に方が分からない」に対する文化人類学者・磯野真穂氏による書評「独身、子なし、望む道筋をつける」の内容を、以下に要約引用しよう。

 「きれいさっぱり死んでいく」ことは、既に日本では至難の業である。 では、そんな環境下で私の望む死は達成されるのか? 本書ではこのことを考え抜く。
 この問いを一人称で考えるに当たり、独身、子なし、兄弟姉妹なしの自分にとっては、キビしい。 何故かと言うと、死に際する意思決定及び対応の代理は親族に限るという法的拘束があるからだ。 (中略)
 まず著者は、絶対に望まない状態を明確にする。 ①死後腐って発見されるのは嫌だ。 ②自発的に動けず意思表明もできない状態で生き続けるのは嫌だ。
 ①に関しては現在のLINEサービス等によりあっさりクリアされる。 
 他方、②は難しい。 延命措置はもういらないと判断できる身体状況はいななるものか。 例えば外出先でバッタリ倒れ、それを見つけてもらえなかったらどうしたらいいのか。
 とはいえ、これにもある程度の道筋をつけて著者は先に進む。 お金があれば、遺体、スマホにある個人データ等々で、これらはお金で解決できる。
 でも、お金がなかったら? 著者は、ここでファイナンシャルプランナーに相談を仰ぐ。
 「嫌なことを避ける」という平明な視点から、著者は社会の仕組みを調べ上げる。それは自ずから自身の価値と人生の在り方を明瞭にすることに彼女を導く。
 「家族がいるから必要ない」。そう胸を張るはあなたこそ、この本を読むべきだ。社会を知ることは己を知る事でもあるのだから。
 
 (以上、朝日新聞「書評」ページより要約引用したもの。)



 原左都子の私見に入ろう。

 この本の著者である門賀氏(71年生まれらしい)や書評を書かれた磯野氏は、おそらく私め原左都子よりずっと若い年代のお生まれであろう。
 門賀氏に関しては71年生まれと明記されているが、私よりも10数年年下で現在50代少しの若さとの計算となる。

 やはり、人生観や死生観とは人物それぞれの生きて来た年数により大幅に異なるものであることを実感させられる。


 確かにもしもこの私が未だ50歳ちょっとだったとしたら、骨折でなど死んでいられない!との思いが熱く沸き起こる事だろう。
 我が50歳頃とは、産んだ娘が未だ中学生になった頃だ。 実際娘のサリバンをずっと担当した我が身としては、娘のためにだけでも生き抜いてサリバン業を全うせねばならない使命感に燃えていたものだ。


 年月が流れ、今回路上で転倒し骨折にて救急搬送された時点で私は既に高齢域に達し、娘も家を出て独立し立派に一人で生き抜いている、との環境下だ。

 実際、骨折の手術を受けて病棟のベッドで痛みに耐えつつ寝ながら、少し我が脳裏を過ったのは、(このまま私が死に至っても、誰も困らないだろうなあ…)との感覚だった。
 それはマイナスの意味合いではなく、むしろプラスの感情だ。
 “人に迷惑を掛けずに死にゆける事とは、ありがたいことではなかろうか”なる思いだ。

 結果としては、どうやら私はしばらくは多少の不自由は覚悟するべきではあるものの、今のところ“死ぬ運命”ではなさそうなのだが。

 年齢を重ねることとは、実際“人に迷惑をかける”との事態から遠のくこととプラス評価できそうにも思える。


 そんな意味で、高齢域に突入した今、こんな骨折災難が我が身に降りかかった事態もそう悪いことではないと思えてきたりする。 


(株)フランスベッドより入院中の請求書が届いたが、一体何の費用??

2022年11月18日 | お金
 (冒頭写真は、本日室内で撮影した原左都子。 ご覧のように、左足にサポーターを巻いて日々暮らしています。)



 表題の(株)フランスベッドからの請求書だが、私が入院した病院名も列挙されていて。
 よもや入院中に使用したベッドが実はレンタルであり、その料金を退院後に請求してきたのかと一瞬思った。😵 
 そして今時はそんな時代になったのかと、摩訶不思議に感じたものだ。


 実はそうでななく、入院前に契約した「入院セット」代金の請求だったのだが。(何故か(株)フランスベッドがその業者だったという訳だが。)
 この「入院セット」に関して説明すると、今時は病院側がパジャマやタオル、歯ブラシ等々のセットを患者に斡旋していて、それを契約すると入院中毎日それらの洗濯した新しいグッズをベッドまで持参してくれるとのシステムだ。
 この恩恵で、家族がいちいち患者のそれらを持ち帰って洗濯する手間が省けるとの大いなるメリットがある。

 我が亭主が過去に入院時にこれを利用して、私もその利点を十分に承知していた関係で迷いなくこれを契約した。

 
 ところが、困ったことに。
 私が入院した病院では、それらセットを初日と手術後しか看護師氏が持参してくれず、その後のパジャマは退院まで“着の身着のまま”を強いられた。
 タオル類など、自身が自宅から持参したものを使用したため特談不自由は無かったのだが、とにかく、これを契約したがために“大損”した感覚のみは残った。

 その請求が退院時に病院から来なかったため、さすがの病院も責任を感じたのかと思いきや。

 そうではなく(株)フランスベッドがその業者であり、今になって我が手元に請求書が届いた、との事実だ。


 私としては、当然納得できない!
 日々洗濯した新たなパジャマをベッドまで持参してくれると信じていたのに、ずっと着の身着のままを強いられたにもかかわらず、満額の請求書が届くとは到底許し難い!!😡 


 ただこの制度、その運用のすべてが病院現場に任されている点に大きな落ち度があろう。
 特に私が入院した病院では、この担当が看護師だったのだが。 それに所詮無理があろうと結論付ける。
 看護師氏とは病院内で一番多忙を極めている存在と私は認識しているのだが、その人材に患者の着換えを配らせる制度に大きな誤りがあろう。


 いずれにせよ、請求書が届いてしまったものは仕方がない。
 一着のパジャマの着替えにそれを買うよりも多大な出費がかかった計算だが、ここは太っ腹で支払いをするしかないであろう。


 1年後に左膝の金属(針金)を除去する手術を受ける際には、決してこのパジャマレンタルを利用することなく、自身のものを持参しようと固く志している!