いえいえ私は、人間とは年齢を重ねる毎に一段一段と素晴らしく発展し続ける動物と考えている人間だ。
その観点から、毎年誕生日を迎える事がとても楽しみである。
その私見に関しては、毎年誕生日を迎える都度、年々の感慨深い思いをエッセイに綴って公開している。
例えば、今からちょうど5年前の2011年に本エッセイ集にて公開した「誕生日雑感」と題するバックナンバーの一部を、以下に再び紹介させて頂こう。
私は、昔から年齢を重ねていく事を好意的に捉えている。 そしてよもや生命の危機が訪れるような場面に直面しても、“命乞い”をしてまで生き延びようとの発想もない。
子どもの頃とにかく学校嫌いだった私は、日々自己を押し殺して義務感で生真面目に学校へ通いつつも、さっさと学校を卒業して自由になりたい思いから、子供心にも早く年をとりたいと考えることがよくあった。
残念ながら子どもの頃の私が年をとることを肯定的にとらえていた理由とは、上記のごとく“後ろ向き”思想に基づいていたことを今となって実感させられる。 年端もいかない子どもが“早く年をとりたい”などと欲する現状を、周囲の誰かが気付いて助ける社会の受け皿など昔も今も存在し得ないのであろう。 ただ、私の場合自殺願望がさほどなく、自分の将来は必ずや花開くべく未来像が描けそうな“奇妙な図太さ”が根底にあったのが幸いとも言えるのだが…
“適齢期”(当時の表現であり今や死語と化しているが)を過ぎて30代に突入する時など、既に27歳頃からとっとと30代になりたい思いが強靭だった。 その後の我が人生において結婚などせず独り身で自立して生きる場合、さっさと30代に突入した方が世間の様々なしがらみから解放され、更に自由に羽ばたけそうに思えたものだ。 (事実そうだったと振り返る。)
そして我が人生の中で最高に輝かしき“華の時代”30代を煌くばかりに通り過ぎ、40歳を過ぎた頃、私は癌を患った。 この時、私は初めて「死」というものを直接的に意識するはめと相成る。 だが、産んだ子どもが未だ2歳であるが故の母親としての今後の責任を除き、我が人生に悔いも未練もなかった。 もし万一近いうちに命を落とすことになろうとも、私は心より「いい人生だった!」と思えるような40年間を主体的に歩んで来たと自負できたからである。
ところが癌など屁とも思わない私は命を落とすどころかその後も図太く生き残り、50歳になろうとした時にも早く50になりたかったものだ。 その時の心理状態について今分析するに、今後も心身共に自分なりの“若さ”を保ちつつ、主体的に生きていける自信があったからに他ならないように思う。
朝日新聞2011.10.15別刷「be」に、「100歳まで生きたいと思う?」と題する記事があった。 この質問に関する原左都子の応えは、「何歳まで生きてもよいが、生命の危機に直面するがごとく事態が訪れた時にみっともなくも“命乞い”などせぬよう、常に自分が欲する生き方を貫きたい!」 これに尽きる思いだ。
本日(2011.10.17)は私の誕生日である。 子どもの頃には母の仕事故に“放ったらかされて育てられた”印象を我が郷里の母に対して抱き続けている私だが、その母は私が上京後必ずや誕生日に電話を寄こす。 その日も母が私の誕生日を祝って曰く、あくまでも自分勝手な懐古趣味の観点から「あなたを産んだ日のあの出産の苦しみを今でも鮮明に覚えている」との事だ。 それは分かる。 私も我が娘を超難産で産んだ日を一生忘れる事はないであろうからだ。(ただそれを自分が産んだ子供に平気で言う実母の愚かさ加減がほとほと嫌になる…)
誕生日とは、特に親からは我が子がこの世に産まれ出た奇跡こそを第一義に祝福して欲しいものであると思いつつ、既に年老いた我が母が“愚かな”誕生祝いを寄こす事を、我が還暦に近づく今となっては受け入れねばならないのであろう。 自分の子を産んだ事をそんな気持ちで祝福したい年老いた親が存在する事を、今受け止めてやるのが現在の私の親孝行というものなのだろう。
(以上、「原左都子エッセイ集」2011年10月バックナンバーより一部を引用したもの。)
さてさて、私は明日またもや一つ年齢を重ねることが叶いそうだ。
還暦を迎えた1年間も、まさに様々な出来事と遭遇した。
最近の出来事で記憶が鮮明なのは、8月の台北旅行中にバスタブ内で転倒して後頭部を強打した事件だ。 あの直後、本気で(早くも車椅子生活か……)との危惧感が我が脳裏にその不運を嘆かせたものだ。 ただ、もしそうなったとしても決して家族をはじめ誰にも迷惑をかけまい! と内心強い決意も抱いていた。
ところがどっこい、今となっては我が不死身ぶりに自分で感激出来る事が何より嬉しい。 レントゲンの一枚も撮影することなく、私は現在、来たる11月のロードレース出場・完走を目標にランニング練習を強化している。
(このバスタブ転倒後頭部強打の件でご心配を頂戴した読者の皆様、誠にありがとうございました。 この通り私は日々元気に活動を続けております。)
更には、年々身内高齢者である義母・実母の介護責任の重圧が増すのも私にとって大きな試練だ。 これは今後ますます我が身に重くのしかかって来る使命であろう。
実際問題、介護保証人の任務とはストレスばかりが溜まり、それを遂行したからといって“達成感”が得られる対象ではない事はバックナンバーでも述べている。
それでもそれをやり遂げねばならない。
私が未来に於いて70代に突入した頃には、介護重圧から解放されて「よく頑張り抜いた! 自分を褒めよう!」と晴れて言える時期が来るのだろうか?
その後再び我が青春時代が蘇るだろうか? あるいは、私こそが親達より先に命を閉じるのだろうか……
前者である“再びの青春”を視野に入れ、それを今から楽しみにしつつこの局面を頑張り抜きたいものだ!!
そして70代に達した暁には、またもや素晴らしく発展を遂げている自分に感動出来る日が来ると信じたい。
- P.S. -
明後日から、郷里の実母を高齢者有料介護施設へ入居させる引越のため旅に出ます。
夏頃まで入居を「監獄に入れられるようだ」と渋っていた母も、秋の訪れと同時に「〇子(私のこと)がせっかく入居に向けて一生懸命動いてくれたから、私も入居の決断が出来た。 施設への引越をよろしくお願いします。」と発言するまでに至っている…。
未だ日々マニュアル車の運転を実行している母だが、その長年の車依存生活がたたり足腰が極度に弱ってしまった…。 そんな母が施設でリハビリを続けながら歩行力を保ち、少しでも元気に生活してくれることに期待したいものだ。
留守中は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーをご訪問下さいますように。
その観点から、毎年誕生日を迎える事がとても楽しみである。
その私見に関しては、毎年誕生日を迎える都度、年々の感慨深い思いをエッセイに綴って公開している。
例えば、今からちょうど5年前の2011年に本エッセイ集にて公開した「誕生日雑感」と題するバックナンバーの一部を、以下に再び紹介させて頂こう。
私は、昔から年齢を重ねていく事を好意的に捉えている。 そしてよもや生命の危機が訪れるような場面に直面しても、“命乞い”をしてまで生き延びようとの発想もない。
子どもの頃とにかく学校嫌いだった私は、日々自己を押し殺して義務感で生真面目に学校へ通いつつも、さっさと学校を卒業して自由になりたい思いから、子供心にも早く年をとりたいと考えることがよくあった。
残念ながら子どもの頃の私が年をとることを肯定的にとらえていた理由とは、上記のごとく“後ろ向き”思想に基づいていたことを今となって実感させられる。 年端もいかない子どもが“早く年をとりたい”などと欲する現状を、周囲の誰かが気付いて助ける社会の受け皿など昔も今も存在し得ないのであろう。 ただ、私の場合自殺願望がさほどなく、自分の将来は必ずや花開くべく未来像が描けそうな“奇妙な図太さ”が根底にあったのが幸いとも言えるのだが…
“適齢期”(当時の表現であり今や死語と化しているが)を過ぎて30代に突入する時など、既に27歳頃からとっとと30代になりたい思いが強靭だった。 その後の我が人生において結婚などせず独り身で自立して生きる場合、さっさと30代に突入した方が世間の様々なしがらみから解放され、更に自由に羽ばたけそうに思えたものだ。 (事実そうだったと振り返る。)
そして我が人生の中で最高に輝かしき“華の時代”30代を煌くばかりに通り過ぎ、40歳を過ぎた頃、私は癌を患った。 この時、私は初めて「死」というものを直接的に意識するはめと相成る。 だが、産んだ子どもが未だ2歳であるが故の母親としての今後の責任を除き、我が人生に悔いも未練もなかった。 もし万一近いうちに命を落とすことになろうとも、私は心より「いい人生だった!」と思えるような40年間を主体的に歩んで来たと自負できたからである。
ところが癌など屁とも思わない私は命を落とすどころかその後も図太く生き残り、50歳になろうとした時にも早く50になりたかったものだ。 その時の心理状態について今分析するに、今後も心身共に自分なりの“若さ”を保ちつつ、主体的に生きていける自信があったからに他ならないように思う。
朝日新聞2011.10.15別刷「be」に、「100歳まで生きたいと思う?」と題する記事があった。 この質問に関する原左都子の応えは、「何歳まで生きてもよいが、生命の危機に直面するがごとく事態が訪れた時にみっともなくも“命乞い”などせぬよう、常に自分が欲する生き方を貫きたい!」 これに尽きる思いだ。
本日(2011.10.17)は私の誕生日である。 子どもの頃には母の仕事故に“放ったらかされて育てられた”印象を我が郷里の母に対して抱き続けている私だが、その母は私が上京後必ずや誕生日に電話を寄こす。 その日も母が私の誕生日を祝って曰く、あくまでも自分勝手な懐古趣味の観点から「あなたを産んだ日のあの出産の苦しみを今でも鮮明に覚えている」との事だ。 それは分かる。 私も我が娘を超難産で産んだ日を一生忘れる事はないであろうからだ。(ただそれを自分が産んだ子供に平気で言う実母の愚かさ加減がほとほと嫌になる…)
誕生日とは、特に親からは我が子がこの世に産まれ出た奇跡こそを第一義に祝福して欲しいものであると思いつつ、既に年老いた我が母が“愚かな”誕生祝いを寄こす事を、我が還暦に近づく今となっては受け入れねばならないのであろう。 自分の子を産んだ事をそんな気持ちで祝福したい年老いた親が存在する事を、今受け止めてやるのが現在の私の親孝行というものなのだろう。
(以上、「原左都子エッセイ集」2011年10月バックナンバーより一部を引用したもの。)
さてさて、私は明日またもや一つ年齢を重ねることが叶いそうだ。
還暦を迎えた1年間も、まさに様々な出来事と遭遇した。
最近の出来事で記憶が鮮明なのは、8月の台北旅行中にバスタブ内で転倒して後頭部を強打した事件だ。 あの直後、本気で(早くも車椅子生活か……)との危惧感が我が脳裏にその不運を嘆かせたものだ。 ただ、もしそうなったとしても決して家族をはじめ誰にも迷惑をかけまい! と内心強い決意も抱いていた。
ところがどっこい、今となっては我が不死身ぶりに自分で感激出来る事が何より嬉しい。 レントゲンの一枚も撮影することなく、私は現在、来たる11月のロードレース出場・完走を目標にランニング練習を強化している。
(このバスタブ転倒後頭部強打の件でご心配を頂戴した読者の皆様、誠にありがとうございました。 この通り私は日々元気に活動を続けております。)
更には、年々身内高齢者である義母・実母の介護責任の重圧が増すのも私にとって大きな試練だ。 これは今後ますます我が身に重くのしかかって来る使命であろう。
実際問題、介護保証人の任務とはストレスばかりが溜まり、それを遂行したからといって“達成感”が得られる対象ではない事はバックナンバーでも述べている。
それでもそれをやり遂げねばならない。
私が未来に於いて70代に突入した頃には、介護重圧から解放されて「よく頑張り抜いた! 自分を褒めよう!」と晴れて言える時期が来るのだろうか?
その後再び我が青春時代が蘇るだろうか? あるいは、私こそが親達より先に命を閉じるのだろうか……
前者である“再びの青春”を視野に入れ、それを今から楽しみにしつつこの局面を頑張り抜きたいものだ!!
そして70代に達した暁には、またもや素晴らしく発展を遂げている自分に感動出来る日が来ると信じたい。
- P.S. -
明後日から、郷里の実母を高齢者有料介護施設へ入居させる引越のため旅に出ます。
夏頃まで入居を「監獄に入れられるようだ」と渋っていた母も、秋の訪れと同時に「〇子(私のこと)がせっかく入居に向けて一生懸命動いてくれたから、私も入居の決断が出来た。 施設への引越をよろしくお願いします。」と発言するまでに至っている…。
未だ日々マニュアル車の運転を実行している母だが、その長年の車依存生活がたたり足腰が極度に弱ってしまった…。 そんな母が施設でリハビリを続けながら歩行力を保ち、少しでも元気に生活してくれることに期待したいものだ。
留守中は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーをご訪問下さいますように。