原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

公立小学校集団登校時の死亡事故を撲滅するには

2016年10月31日 | 時事論評
 2年程前に、日本にて美術個展を開催するためにアルゼンチンからはるばるやって来た知人女性の個展画廊までの道案内をしていた時の事だ。

 小学生の娘さんを持つ母親でもあるその女性が、たまたま日本の小学生達の下校風景を見て驚いて私に尋ねる。
 「日本ではこんな小さな子どもを、学校下校時に親の付添いなく子供だけで帰らせているのですか?!?」
 私が応えて、「はい、その通りです。 朝の登校時とて同様です。集団登校と称して子供達のみで登校させています。 こんな無謀で危険な事態を平気で放置しているのはおそらく先進国内では日本だけでしょう。」


 実は、米国在住の姉からも同様の話を耳にしていた。
 米国でも、小学生の登下校時には必ずや親が車で送り迎えする義務があると。 仕事等でそれが不能な場合も親同士で話し合いを持ち、相互扶助の体勢を採っているらしい。 相互扶助とは言えども日本の“なあなあ主義”とはまったく異なり“ポイント制”を採用して、入学から卒業まで親同士が公平になるように合理的に計算され尽しているとのことだ。


 私は過去にも、本エッセイ集にて小学生の集団登校に対し批判エッセイを綴り公開している。

 2012.4.25公開の 「『集団登校とは“集団逃避無責任思想”でしかない」 と題するエッセイの一部を以下に要約して紹介しよう。
 2012.4.23 朝、京都府亀岡市の府道を集団登校中の小学生の列に車が突っ込み10名の死傷者を出した事故を受けて、京都府内の公的機関が通学路や子ども達の登校の様子を点検しているニュースが流れた。
 近年、集団登校中の子ども達の団体に車が突っ込み幼き数人の犠牲者を出す大惨事が後を絶たない。 国民の多くが「痛ましい…」と言うよりも、「またか…」との感覚を抱いているのが正直なところではあるまいか。 この状況下に於いては、もはや公的関連機関が小手先の対策や付け焼刃的改善策を掲げたところで埒が明くべきもないのではなかろうか?
 学校教育現場に於ける「集団登校」の慣習とは、元々「交通安全」対策のために1960年代以降文部科学省(旧文部省)の指揮の下に各都道府県に於いて実施されるようになったらしい。 2000年以降は、防犯対策の面でも「集団登校」が有効との位置付けとなったとの朝日新聞の報道である。
 ところが、当然ながら学校現場よりの異論・反論も存在する。 例えば、「集団」とは児童一人ひとりの注意が散漫になり易いとのマイナス面もありむしろ交通安全面上危険性が高いとの理由で、実施を見送っている自治体も存在するようだ。
 文部科学省も68年の通知で、集団登校が「(例えば車が高速で走行する場所等)は大事故を起こす危険性があるため、集団登下校を避けることが望ましい」ことを既に指摘しているとのことだ。  平野文科相相は、「(事故現場が)通学路としてふさわしいのかも含め検証して、改めて全国の通学路の選定の方法が本当に良いのかどうかまで検討すべきかどうかを詰めて行きたい」と(原左都子に言わせれば遅ればせながら)述べているようだが……
 ここで、原左都子の私事を述べさせていただくことにしよう。
 我が娘も小学校低学年(高学年は他校に転校)に通学していた公立小学校に於いて、「集団登校」を経験している。 学校が全校生徒に強制するこの「集団登校」制度の内容が、想像以上にいい加減なのである。 その一例を挙げよう。 我が子が小学校に入学当初の4月の下校時に、まだ登下校に慣れない1年生児童のために学校教員が「集団登校」班に同行し保護者が道中まで迎えに行くとのシステムがあった。 その場に行くと、な、な、なんと、娘の姿がない!! 何分事情を抱えている我が子である。そんな事もあろうかと予想可能な私ではあるが、同行していた見知らぬ若い教員に我が子がいない旨を伝えた。 そうしたところ、返された応えには驚いた。「間違えて別の班で帰ったんじゃないですか~~?」 その教員の対応に唖然としつつも未だ6歳の我が子の安否こそを気遣い帰宅を急いだ。 そうしたところその同行教員から我が子がいない連絡を受けたとの、担任先生からの切羽詰った電話があったとの亭主の話だ。 警察に通報しようかと考えたその後、娘は雨にずぶ濡れになりつつ一人で帰宅してきた。 幸いな事にいつも母子で遊んでいた公園方面へ迷い込んだようだが、その辺の土地勘があったために自宅までの道程が把握できたことが幸いした。   義務教育に於ける「集団登校」実施の責任とは、最終的には学校が全校生徒一人ひとりに対してそれを負うべきではないのかと、娘の入学当初より抱かされた我が感慨深い出来事である。 それが不能であるならば、最初から児童の登下校時の全責任を保護者に転嫁しておくべきだ。
 最後に原左都子の結論に入ろう。   我が国の義務教育が「集団主義」に囚われ続けてきた長年の歴史に於いて、「集団登校」を今さら終焉させろ!と噛み付くこと自体が困難と成り果てている教育現場であろうことは悲しいかな私にも想像がつく。
 ただ義務教育が「集団登校」を「交通安全」「子どもの治安」との名目で深い思慮もなく安直に死守し続け、その歴史的変遷や社会的背景の移り変わりの実態を捉えないまま、近年どれ程の幼い尊い命を犠牲にしてきているかに関しても、そろそろ認識するべき時ではないのか!?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 つい最近、横浜市に於いて登校中の9名小学生団体の列に87歳の高齢者が運転する車が突っ込み、多数の負傷者と共に小学一年男児の死者を出した事故は皆様の記憶に新しいことであろう。

 悔やんでも悔やみ切れない同様の集団登校時の死亡事故発生を、何故学校教育行政は放置し続けているのか?!
 “根本解決”を目指そうと、誰かが訴えないものなのか!?


 原左都子の私論でまとめよう。

 可愛い子供を学校ごときに殺されるてたまるものか!! との憎しみにも似た感情を抱きつつ我が子の安全を死守して来た(学校嫌いの)私から、登下校時の子どもの安全確保に関する根本的改善策を指南しよう。

 日本の公立小学校も、そろそろ「世界標準」を視野に入れるべきではあるまいか?
 その基本とは、年端もいかない子供達の登下校時安全確保を「親に委ねる」方式を採用することに踏み切ることだ。 
 その際に、一案として米国式を採用してはどうか。 要するに親同士で自主的に話し合いを持たせ“ポイント制”を導入し、あくまでも親同士が平等理念の下に親間での子どもの送迎を任せるとの方式だ。
 私の認識によれば、日本の小学校登下校時の事故に関して学校は単に安価な保険制度に加入しているだけの話で、自治体は何らの責任を負っていない現状と理解している。
 それならば、親に自身の子供の送迎を委ねても、当該民間保険システムに依存すれば事故発生時の保証には何らの変化も無いのではあるまいか?


 もう一点、まったく別の視点からの私論を記そう。

 今回の横浜の事故は、87歳高齢者の運転が引き起こした惨事らしい。
 ここは、もうそろそろ高齢者の運転免許取得制度を大幅に変更してはどうなのか!? 
 我が実母とて自分の判断で運転免許証を返上し、高齢者介護施設への入居を勇断したばかりだ。

 警視庁が強制力を持って高齢者の運転免許証取得(更新)を阻止しない限り、この種の事故が全国的に勃発し続けるだろうと危惧する…。