原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

新日鉄火災  社会に対する説明責任を放棄する気か!?

2014年01月18日 | 時事論評
 昨日(1月17日)午後1時のNHKニュースを見ていた私の身中に戦慄が走った。

 17日正午ごろ、愛知県東海市の新日鉄住金名古屋製鉄所内で火災が発生したとの速報と共に、現場の映像が数分に渡って流されたのだ。
 その映像によると、広大な敷地内工場の至る所から燃え盛る火と濛々と立ち上がる黒煙の数々が写し出されている。
 更に不気味なのはNHKアナウンサー氏の説明によると、この大火災に関する情報が何一つ得られていないとの事だ。 工場内には2000人を超える作業員が勤務しているがその安否も一切不明、との報道が私の戦慄に追い打ちをかける。

 しばらくこのニュースを見守っていたのだが、NHKのニュース時間内には詳細報道が入手不能だった様子で火災報道は中途半端に打ち切られた。
 (もしや、大参事か!?!)なる不安感で身震いしつつ、私は行きつけのスポーツジムへ出かけた。 そのジムでも新日鉄火災その後の推移が大いに気になり、いつものようにトレーニングに集中できない。 夜帰宅したら一目散にニュース報道を確認しよう、との思いばかりが募った昨日午後だった。


 折しも、昨日は阪神・淡路大震災発生後19年目を迎えた。

 19年前の1月17日の歴史的大震災の日を私は忘れることはない。

 あの日私は1歳になってまもない娘と二人で自宅にいた。 1月下旬に住居を買替え転居を予定していた我が家に、売却仲介不動産会社の担当者が不動産売却の最終確認でやって来た。 まだ午前中の時間帯だったのだが、その担当者が我が家を訪れるなり発したのが、「神戸で大きな地震が起きて何百人もの死者(当日午前中時間帯の報道に基づいている)が出ているようです!」
 訳が分からないままに仰天した私だ。 それまで歩んできた私の人生において、我が国内で地震による死者数が何百人にまで上る大参事を経験していなかった。
 その後不動産会社担当者と何を最終確認したかの記憶は全くない。 とにかく担当者退室後、急いでテレビのスイッチを入れた私だ。
 そのテレビ映像を一見して、(これは死者数百人などでは済まされない歴史的大参事だ!)と辛くも恐ろしくも悟らざるを得なかった…。

 とり急ぎ私がとった行動とは、神戸に海を隔てて程近い地にある実家に様子確認の電話を入れることだった。 幸い実家現地では震度4程度の揺れだったらしく、さほどの被害は出ていないらしい。 
 夜になって、滅多に電話をよこさない米国在住の姉より電話がかかってきた。「アメリカでも日本阪神地方の大地震についての速報報道があるが、どうなのか??」 その時点では死者数報道が既に千人単位となっていただろうか?? 
 その日は夜遅くまで阪神地方被害の生々しい現実をテレビ報道を通して見守り続けた。
 その中で私が一番ショックを受けたのは、神戸市長田区の街全体が地震に伴い発生した火災により燃え盛っている映像だった。  こんなにも壊滅的被害を被っている長田区市民がどう逃げればよいというのか… “真実は小説よりも奇なり”と言うが、映画でも見たことのないこんな悲惨な出来事がこの世に本当に発生してしまうのか…… 
 世の無常の現実を叩き付けられ、やるせない思いを募られたものである。


 話題を変えるが、実は私は成人後身近な場所での火事現場を数回経験している。

 その一つは20代前半に勤務していた職場の近くにおいてだった。 午後の時間帯だっただろうか、近くのタイヤ工場から黒煙が上がり始めた。 火事発生時に職場に居たことが幸いして、職場内での火事等危機管理措置対応がすぐに機能した。 まだ未熟者の私は指定された場に避難するのみで、結局我が職場までの延焼被害はないままに済んだ。

 その次は20代後半時期であるが、真夜中に5軒程隣の住居が全焼した。 消防車のサイレンで目覚めた私は、その家が燃える風景を確かに見た! ところが避難等の誘導指示が一切なく自主避難時代背景だったのか、誰も何も言ってこない。 ここでこのまま居ていいのかどうかの判断がつかないまま、私は近燐火災の消火活動を見守った。 鎮火を見定めて私は再び眠りについた。

 次なる火災の試練は、我が子幼稚園時代の出来事である。 娘を徒歩で幼稚園へ迎えに行った後帰宅道中にあるコンビニに立ち寄った。 その直前に、上空に黒煙が少し吹き出ているのを確認していた。 それを軽視してコンビニ内で5分程買い物をして外に出ようとした私は、周囲が黒煙で立ち込めているのに仰天した。 娘に口を塞ぐよう指示しつつ、親子で一目散にその場から逃げ去った。  集合住宅の自宅に戻り上階から火事現場を展望すると、更に黒煙が上空まで拡大していた。
 結局、この火災は1階にコンビニがあるビルのすぐ裏に位置するビル火災だったことが後で判明したのだが、火災とは発生当初はそれが火災とは判断しかねることを学習させられたものだ。


 話題を、冒頭に紹介した昨日の新日鉄火災に戻そう。
 
 夜自宅に帰り着いた私は、即刻上記「新日鉄火災」続報を得ようと、テレビのニュース報道に注視した。
 ところがどうしたことか、NHK7時のニュースは元より何処の民放ニュースにチャンネルを切り替えても、「新日鉄火災」に関する報道がない。
 夜9時になって、NHK「ニュースウォッチ9」のサブキャスターである井上あさひ氏が初めてこの大火災に関する報道を伝えてくれた。 
 その井上氏の解説によると、今回の新日鉄火災とはあくまでも“内部火災”であるが故に新日鉄内部にてすべて対応済みとの事だ。

 ここで、ネット情報より「新日鉄火災」に関する追加情報を紹介しよう。
 東海市消防本部などによると、第7コークス炉の高さ約10メートルの部分から出火した。製鉄所内の発電所と、別の建物内からも炎が上がった。死傷者や行方不明者の報告は午後1時半現在で入っていないという。  製鉄所の職員が一時、消火を試みたという。 
 その後、愛知県東海市の新日鉄住金名古屋製鉄所で17日に発生した火災の原因は、構内の発電所にある配電設備のショートとみられることがわかった。 火は作業員が消し止め、けが人はなかった。一方、コークス炉から噴き出した炎や黒煙は炉内のガスが燃焼したもので、同製鉄所は火災にあたらないとした。 黒煙の噴出は夜も続いたが、市などによると健康被害を訴える人は確認されていない。
 愛知県警や同製鉄所によると、作業員が発電所の電流を流すスイッチを更新する作業中、配電設備がショートして出火。停電が発生し、コークス炉への送電ができなくなった。石炭を蒸し焼きにする過程で発生するガスが炉外に噴き出すおそれが生じたため、非常装置が作動してガスを燃焼させ、大量の黒煙が出たという。 新日鉄住金は同日の記者会見で「お騒がせして申し訳ありません」と謝罪した。


 
 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 昨日はまさに「阪神・淡路大震災」発生から19年目を迎える日だった。 
 時悪くして新日鉄製鉄所現場で大火災が発生したのは、単なる偶然の出来事だったのかもしれない。
 そうだとしても、大震災及びそれに追随して発生した大火災の下で、かけがえのない命を失わなければならなかった多数の市民の皆さん及びそのご遺族の方々のやり場のない思いに、新日鉄は少しでも思いが馳せられなかったものなのか??
 しかも今回の新日鉄火災に関しては、地域住民の方が「いつもとは違う火や黒煙が出ている」との切羽詰まった一報を公的機関に連絡しているとの報道だ。 それら地域住民の皆さんに配慮してこそ成り立つ巨大企業存命ではないのか!?

 昨日発生させ世間を騒がせた「新日鉄(内部)大火災」に関する社会への正式な謝罪を、是非共メディアを通して一度は拝見したい思いの原左都子である。

子どもとは親が育てた通りに育つもの

2014年01月16日 | 教育・学校
 (何度も娘の振袖姿を披露して恐縮だが、写真は先だっての成人の日に都心ターミナル駅に程近いファッションビル内で撮影したもの。)


 今回のエッセイは、前々回のバックナンバー 「我が娘よ、心から成人おめでとう!」の続編となる。

 当該バックナンバーでは、2009年3月に公開した 「We can graduate!」 と題するエッセイを参照しつつ、娘誕生以来中学を卒業するまでの道程を中心として、親子で歩んだ壮絶かつ苦難の日々に対する我が感慨深い思いを綴った。 (よろしければ、前々回のバックナンバーをご参照下さい。)

 エッセイ最後の部分のみを以下に再び紹介しよう。
 あれから5年の月日が流れ、我が娘は明日「成人の日」を迎える。  上記紹介の娘中学卒業時点で綴った我がエッセイを本日読み返してみて、原左都子自身が実に感慨深く思うと同時に、その後5年間の娘成長の度合いとは筆舌に尽くしがたい程の急発展ぶりだ。
 娘幼少の頃には、これ程までに成長した姿で我が子が「成人の日」を迎えられるとは 「お抱え家庭教師 サリバン」の私とて予想だにしていなかった。  
 もちろん未だ多少の課題を抱えている娘ではある。 だが、親である私の予想を大きく覆す成長を遂げ明日立派に「成人の日」を迎えようとしている娘が今ここにいる。  その姿、そして我が「お抱え家庭教師」として苦悩努力した日々の歩みや娘に対する思いを今一度分析し直し、次回以降に我がエッセイ集にて紹介したいと考えている。   同じような子供さんを持ち現在苦悩されているご家庭の一助となれば嬉しく思いつつ…。 
 (以上、前々回バックナンバーより一部を引用。)


 本題に入ろう。

 上記に紹介した今からほぼ5年前の娘中学卒業時点では、不安材料をまだまだ数多く抱えていた。
 子どもとは親の背中を見て育つもの。 そして、親が育てた通りに育つもの。 そう信じつつ「お抱え家庭教師 サリバン」の私はいつかはその夢が叶う日の姿を脳裏で描きつつ、まだまだ日々切磋琢磨していた。

 高校に内部進学した我が娘は、もちろん彼女なりにある程度の素晴らしい成長を遂げていた。 それまでと何ら変わりない真面目な態度の学習習慣を貫きつつ、校内(大して偏差値の高い高校でなかったことが幸いして)ではそれ相応の学業成績を修めていた。 
 同時に小学校の頃より造形美術方面専門家の下で精進させていたことが幸いして、高校入学と同時に自らが美術分野への進路志望をそれとなく志したようだ。 それを目敏く察した私は、すぐさま娘を夜間の美大予備校へ入学させた。

 ところがこれが大失敗と相成る運命だった。
 今までずっと娘の教科学習「お抱え家庭教師」として二人三脚で歩んできた私だが、何分美術に関しては自分の専門とは程遠い。 それ故にその専門である美大予備校に娘を入学させたものの、デッサン、色彩構成等々描くもの描くものが(レベルDなる)とんでもない低評価を容赦なく予備校から下される日々だ。 それでも私は娘の美術力を信じて陰ながらその上達を願っていた。 親の欲目では、娘の美術力は少しずつではあるが上達していた…
 高3進学前の春になって、娘が涙ながらに私に訴える。 「自分には全然美術の適性がないから、他分野に進路変更したい…」 忍耐強い娘が本気で大粒の涙を流す姿を見たのは幼少の頃以来だっただろうか…。 実は美術方面では娘に能力以上の期待をしていたことを薄々承知していた私は、すぐさま、「分かった!」と返答した。 
 その上で娘の進路先代替案をすかさず尋ねた私だが、その回答とはさすが私が育てている我が娘だったものだ。 厳しい「お抱え家庭教師」である私からそれを問われることを重々想定した上で、娘なりに高3直前に意を決した進路変更意思決定だったことに私こそが降参の思いだった。
 (参考だが、私は美大予備校担当教員氏とも娘の実態や指導のあり方等々に関して十分に話し合った。既に2年間の修業を積ませているのに、親としてこのまま黙って引き下がれる訳がないからだ。 担当教員氏の対応は真摯だった。これから入試までの1年こそが勝負時であるのに、今リタイアするのは予備校側としても実に無念とも言って下さった。 それでも私は娘の涙と進路変更意思を尊重し、後の1年を変更先進路成就に賭けるとの決断を下した。)

 その直後の我が対応が迅速・綿密かつ的を射ていた事が、「お抱え家庭教師」決定的な場面での“火事場の馬鹿力”だったことを自分で褒めたい思いでもある。
 即刻、娘が通っている私立高校から配布されている「校内推薦規定」及び「推薦先大学側の推薦基準」を確認した。 そうしたところ娘が新たに目指す方面の「推薦」基準を満たしており、結果として高校から辛くも推薦を得られたのである!

 娘は自分自身が新たに目指した大学入学の「公募制推薦」合格が叶い、現在その大学専門分野での学業に日々励んでいる。(断っておくが信憑性不明なコネになどには一切頼らず、あくまでも我がお抱え家庭教師力一本で大学推薦合格を導いてきているぞ!)
 今後大学卒業そしてその後に及んでまだまだ「お抱え家庭教師」としての不安材料が盛沢山であるのが正直なところでもある。 それでも、大学ゼミ教官を筆頭に他の教官の方々より頂いた娘宛の年賀状返答を覗き見すると、娘が地道に大学で頑張っている姿が想像可能なところが親としては少しばかり嬉しく顔がほころぶ次第だ。


 最後に私論で締めくくろう。

 子どもとは親が育てた通りに育つことを、娘20歳にしてやっと実感でき感慨深い思いである。
 出生時に事情を抱えてこの世に誕生せざるを得なかった我が娘の場合、親である私がその実感を得るために長い年月を要したのが事実だ。 

 そうだとして、もしも我が子が生来的に何らの障壁もなくこの世に誕生していたとしたら、私はこの子に「いい大学・いい就職」等々の単純に歪んだ英才教育でも施したのだろうか??

 私の場合は、どう転んでもそうではなかったような気がする。 それと言うのも、私自身がその種の表面だけしつらって中身のないくだらない人生には全く興味がないためだ。 そんな世界とは無縁の一貫した意思の下で、我が人生を意欲的に歩んで来ていると考察・実感するからだ。
 もしも我が子がこの世に普通に産まれ出ていたとしたなら、少なくとも私の娘の教育指導に関して裂く時間が大幅に軽減された事は事実であろう。 それでもおそらく私は基本姿勢として現在と同じような指導教育を娘に施し、我がポリシーに満ち溢れた親としての背中を見せつつ娘に接したであろうと思う。

 今後も親として娘に見せる姿は娘成人の後も何ら揺らぎなく、一生に渡り普遍であろうとの確信がある。

成人の日に見た若者像雑感

2014年01月14日 | 時事論評
 (写真は、昨日成人の日に娘、義母と共に出かけた東京巣鴨とげぬき地蔵にて撮影した娘と私の写真。)

 

 我が娘はほぼ1年程以前から、来る自分の成人の日に自治体が主催する「成人式」に出席するべきか否かに関して大いに迷っていた。
 そもそも集団内では極度に寡黙とならざるを得なかった高校生時代までの娘である。(大学生になっている現状に関しては集団内の様子を心得ていない母の私だが…。) そんな娘が「成人式」になど好んで出席するはずもないのか、との分析も可能であろう。
 それ以前の問題として娘は現在の住居地には小学校3年の冬に転校して来たため、小学校時代の同級生とはわずかな期間の付き合いだ。 加えて中高時代は自宅から程遠い場所にある私学に通い、現在では地元の同級生と会合する機会が一切ない。 娘の談話によれば同じく電車で遠距離通学している小学校時代の同窓生も少数ながらいるはずだが、今となっては皆が大きくなり風貌が大幅に変化し、もし会っているとしても誰が誰だが識別不能状態との説明だ。  大学とて同様どころか学生の通学区域がより広範囲となるのは必然的で、付近には娘が通う大学へ通学する学生は誰一人として存在しない。

 片や、娘の振袖は1年前に既に仕立て上がって手元に届いている。
 その振袖を目の前にして、愚かな私は娘に告げた。 「成人式など私も出ていないからどっちでもいいけど、こんなに素晴らしい振袖が仕立て上がったんだから、大人になった自分の晴れ姿を皆に“披露”する意味で成人式に出席したらどうなの???」  それに対し、「う~~ん……」と考え込む我が娘だった。

 その後1年足らずの年月が経過し、娘が出した結論とは 「やはり、成人式には出席しない。」である。
 多少残念には思いつつ、性懲りもなくその「残念」の“意味合い”が親として低レベル過ぎる事にも気付かされる…。 (せっかく大枚はたいてあなたの振袖を仕立てたんだから…)との馬鹿さ加減……
 いやはや、愚かな私だ。
 可愛い娘に振袖を着せたい思いばかりが優先して、娘が「成人」するという本来の考察がすっかり抜け去っていたことを改めて思い知らされる私だ。  一方で、娘本人は自分なりの「成人」のあり方を見つめていた事に感激させられた次第である。

 さてそんなこんなで、娘成人の日当日のスケジュールに関しては娘の考えを第一義として尊重実行することと相成った。
 まずは娘振袖のスポンサーである祖母(私にとって義母)にそのお礼をする目的で、義母を招待しての「成人祝い会」を義母実家に程近い地の寿司屋個室を予約して執り行うことと決定した。


 その前に振袖着付け及びヘアメイクを施した娘を、昨日、東京都心ターミナル駅に位置するファッションビル上階の美容室まで迎えに行った私だ。
 その後混雑する人混みをかき分けつつ大都会を移動する我々に、視線を投げかけてくれるのはお年寄り達でしかない。  その他大勢の人の視線とは、「鬱陶しいなあ」「こんなところで振袖を来て歩かれても歩行の邪魔だ!」とでも言いたそうな様子が見て取れる有様だ。

 (とにもかくにも都心とはいつも混雑しているのが現状と心得つつ)、私の関心は主に成人式前後の若年層(特に女性)に及ぶ…。  おそらくその年頃女性達とは、「自分と比べてどっちが綺麗だろうか??」なる感覚を内心抱きつつ我が娘の晴れ姿を横目ででも観賞するのかと思いきや、その無関心さには心底驚かされる事態だ。
 当日は「成人の日」祝日であるが故に、若者達も数多くターミナル駅や首都圏交通機関に出没している。 にもかかわらず、振袖を着ている我が娘を(故意か自然体かは判断不能なものの)、皆が皆“無視”して通り過ぎるのだ。 その「不自然さ」にこそ私が驚かない訳もない。 もしも我が娘が振袖など着てチャラチャラ歩いている姿が癪に障るのならば、「バーカ!」「鬱陶しいよ!」などとの罵声でも浴びせてくれれば、よほど貴方たちの思いの程も分かる気がするのだが…
 公教育に於ける「横並び教育の所産」(本エッセイ集2007年冬頃のバックナンバーをご参照下さい。)故に、これが現世に於いては自然の姿なのか。 あるいは今の厳しい世の中を生きねばならない若者達の「故意」の行動として「無視」を貫くのが“王道”であるのか。 計り知れない思いを抱きつつ我々一家は巣鴨とげぬき地蔵へと向かった。

 片や、とげぬき地蔵までの道中でお会いする見知らぬ高齢者の皆さん(特に女性陣)の素直な我が子への「成人の激励」のお言葉の数々には感激ひとしおだったものだ。
 上記写真も、とげぬき地蔵で一期一会した女性に撮影して頂いたものである。

 寿司屋個室での親族会合を終えた後自宅に程近いメトロ駅に降り立った時点で、娘の振袖姿を見た通りがかりの同年齢層と思しき女性グループより、「“この子”は綺麗だ!」なる評価を頂いた。(その女性達が見たその他成人振袖女性は“綺麗ではなかった”のだろうか!?!)
 いやはや、親の立場としては若年層より初めて頂戴した“お褒めのお言葉”に実に嬉しい思いだった。
 その若者女性軍団の我が子への評価の程が“客観的”過ぎる事態に多少懸念を抱くものの、「好評」とはもらってこその思いを再確認しつつ自宅へ急いだ我が親子である。


 それにしても、大都内で出会う若者層が周囲の人間や物事・出来事に“無関心”過ぎる事態に、大いなる懸念を抱かされた昨日だった。
 「成人の日」を迎えた女性達が振袖を着ている姿など、確かにそれと無関係の若者にとっては二の次の命題ではあろう。
 そうだとして、それ以外の社会現場で接する有事の出来事や現象に際しても、これら若者達が“無関心”や“知らんふり”を貫き通すことを常識としてるとすれば、これぞ学校現場の「横並び教育」の負の所産と結論付けたくなったのが昨日成人の日の私の雑感である。

我が娘よ、心から成人おめでとう!

2014年01月12日 | 教育・学校
 (写真は、明日1月13日成人の日に娘が着る振袖絵柄の一部を昨日撮影したもの。 新しいパソコンの写真処理に不慣れなため、せっかくの素晴らしい花絵柄の色彩が不明瞭で残念です。 明日娘が実際この振袖を着用している写真を撮影し、後日披露させていただく予定でおります。)


 長い道程だった。

 この一文で始まる我が子指導教育の道程に関するエッセイを綴り公開したのは、ほぼ5年前の2009年3月のことであった。
 「We can graduate!」 と題する「原左都子エッセイ集」バックナンバーの一部を要約して再び以下に紹介させていただくこととしよう。

 一昨日、我が子が中学校を卒業した。  娘誕生以来中学卒業までの期間は、我々親子にとって実に長い道程だった。
 我が親子の義務教育の9年間は、まるで“ヘレン・ケラーとサリバン先生”のごとくの親子関係と表現可能だ。 我が子が持って生まれた事情に即した子どもの学ぶ“権利”を最大限保障してやりたいがための、親としての“義務”との格闘の9年間だったと言える。
 当ブログバックナンバー「医師の過失責任」において既述しているが、出産時のトラブルにより仮死状態で生まれざるを得なかった我が子は、多少の事情を抱えての誕生だった。
 瑕疵を抱えて誕生した子供のケアは早期から着手するほど効果が高いとのことで、子ども3歳時より親子で某教育研究所に通いつつ、家庭では“サリバン先生”としての娘に対する私の本格的な「教育」が早くも始まった。
 小学校入学直前に学校は保護者を対象に説明会を開催するが、その時点で「自分の名前を“ひらがな”で書けるようにしておいて下さい」との指示がある。 誰だってその程度の事なら放っておいても出来るに決まっている、とお考えの方が多いのであろう。 ところが世の中には自分の名前をひらがなで書かせることに手取り足取りの指導を要して、何年もかかる子どもも存在するのが事実だ。 我が家の場合は某教育研究所を通して既にその情報は得ており、小学校入学時に娘が単独で名前をひらがなで書けるようになるための段階を経た学習を3歳時点から開始している。 お遊び半分で線を引くことから開始し3年間かけて入学までに何とか間に合ったというのが当時の実情である。
 小学校入学後は子どもの学習机をリビングにおいて、学校での学習の復習を来る日も来る日も私が付きっ切りで行い、確実な学習内容の理解に努めさせた。
 中学校進学段階で我が家が私立の中高一貫校を志望したのは、高校受験における私の教科指導の負担を回避するためというのが実は本音の理由である。  進学した私立中学校が学習指導力のある学校だったため、そのお陰で家庭学習における私の負担は大幅に軽減した。 それでも中学2年の半ば頃までは、国数英の3教科に関してはやはり私がそのすべてに目を通し更なる指導を加えた。  中2半ば以降は本人の学習意欲を尊重し、私は子どもの家庭学習から一歩退き、子どもの疑問質問にのみ答える方針に切り替えて現在に至っている。
 以上のように私も娘と共に学んだ9年間だった。  私は人生において2度、義務教育の学習をしたような感覚である。 いや、自分自身が学ぶことは容易であるが、人に指導する事とは自分が学ぶ何倍ものエネルギーと忍耐力を要するものだ。
 底辺高校(失礼な表現をお詫びするが)での教員経験のある私ですら、我が子の指導は特に小さい頃程難儀を極めた。 堪忍袋の緒が切れて娘に手を上げたことも何度かある。 自己嫌悪から泣けてしょうがなかった。 子どもが泣く横で私も一緒に泣いた。 親子二人でどれ程の涙を流してきたことであろう。
そんな娘も、生まれ持った素直さと忍耐力の賜物で、学習面においては何ら見劣りがしない程の学習能力を身につけての中学卒業である。  もしかしたら、我が子ほど9年間に渡り弛まぬ努力を続けた小中学生は他に類を見ないかもしれない。
 “学ぶ権利”と“学ばせる義務”。 ふたつの力の二人三脚で、我が子の「学び」に対して真っ向から立ち向かった我が家における義務教育の9年間だった。
 心から、卒業おめでとう。   We can graduate! 
 (以上、娘が中学校卒業時点で綴った本エッセイ集のバックナンバーより一部を引用。)


 あれから5年の月日が流れ、我が娘は明日「成人の日」を迎える。

 上記紹介の娘中学卒業時点で綴った我がエッセイを本日読み返してみて、原左都子自身が実に感慨深い思いである。 それと同時に、その後5年間の我が娘成長の度合いとは筆舌に尽くしがたい程の急発展ぶりだ。
 娘幼少の頃には、これ程までに成長した姿で我が子が「成人の日」を迎えられるとは 「お抱え家庭教師 サリバン」の私とて予想だにしていなかった。
 
 もちろん未だ多少の課題を抱えている我が娘ではある。 だが、親である私の予想を大きく覆す程の成長を遂げ明日立派に「成人の日」を迎えようとしている娘が今ここにいる。  その姿、そして我が「お抱え家庭教師」として苦悩努力した日々の歩みや娘に対する思いを今一度分析し直し、次回以降に我がエッセイ集にて紹介したいと考えている。

 同じような子供さんを持ち現在苦悩されているご家庭の一助となれば嬉しく思いつつ…。

学力とは“見えないものを見ようとする興味”

2014年01月08日 | 教育・学校
 今回のエッセイは、前々回公開した 「教育格差と“幸せ度”との相関関係」 にも関連するエッセイとなろうか。

 上記バックナンバー内で記した私論結論部分のみを以下に要約して紹介しよう。

 「教育格差と『暮し』との関係」なるテーマは、以前より教育関係者を筆頭に世論において好んで議論されている話題であろう。  その相関関係を大袈裟な社会問題に転嫁する以前の問題として、教育現場においてより優先するべきは、子供自身の個性や多様性に応じて臨機応変に対応することであるはずだ。
 いわゆる「出来の悪い子」との差別発言こそを、教育現場が作り上げている現状と私は結論付けている。 ところが「出来が悪い」などとの一言で片隅に置かれねばならない子供たちが、この世に存在するはずがないのだ。
 正月三が日の最終日に久々に目にした我が家の上階に住む(教育経験が乏しい)某女性が、若年にして赤ちゃんを授かったようだが、本気で恋愛して自らの意思で我が子を産んだと私は信じたい。 子を持つ親となったことで彼女が今後ますます成長できることを望みたい。  色々な人生があっていいと私は思う。  教育経験が少ない若年層とて、本人の信念で次世代を生きる赤ちゃんを立派に育てていくことを祈ろう。
 教育格差と人の幸福度を深い思慮なく面白おかしく相関したがる教育業界や世論こそが、短絡的であるとも考察可能ではなかろうか?   相田みつを氏もおっしゃっている通り、幸せとは自分自身のこころが決めていいはずだ。
 (以上、当エッセイ集前々回バックナンバーの私論結論部分のみを要約引用。)


 さて、話題をガラリと変えよう。

 正月明けに放送が再開したNHKドラマ「ごちそうさん!」の現在のテーマは、「子供の教育」であるようだ。
 どうやら主人公 め以子 の長女 ふ久 が多少個性の強い存在との設定である。

 実は私は、め以子の義理妹である希子の寡黙な姿が我が子幼き頃とダブる思いでドラマを見守っていた。 我が娘の場合は、家庭内及びごく親しい人達との関係においては特段の問題はなかったのだが、一旦学校等の集団内に身を置いた場合に、怯えた表情で特異的に寡黙となる現象が高校時代終盤まで続いた。 (いや、大学生になっている現在もその習性を続行しているのかもしれないが、何分大学キャンパス内での我が子の様子を見る機会がないため、親である私が承知していないだけの話かもしれないが…。)
 希子の場合、随分と成長し現在ではアナウンサーとのキャリアウーマンになるまでの発展を遂げている。 我が娘も(あくまでも私が同席している場においては)見知らぬ相手に対する対人関係が急成長している姿に目を細める母の私だが。

 め以子の長女 ふ久 に話を戻そう。
 この子が登場した当初より、私は脚本家氏が“科学者の卵”的素質を持った子として ふ久 を描きたいのだとの印象を抱いた。 ところが ふ久 の場合、既に8歳にして自分の興味対象にのみ集中するが故に、周囲への迷惑が顧みれないとの設定である。
 実は原左都子自身も ふ久 的“科学者素質”の片鱗が幼少の頃よりあった記憶がある。 ただ私の場合は、周囲環境への適合との客観的気質が自分の興味対象に没頭する以上に先天的(一部は後天的?)に身に付いていた。 それ故に、学校等の集団内で何らかの問題を起こすどころが、(悲しいかな)「いい子」としての子供時代を全うさせられてきている。(これぞ我が学校嫌いの根源か?、とも現在分析するのだが…)
 そんな私にとっては、むしろ自分の興味対象にだけ没頭できる類稀な能力を天然質で生まれ持っている ふ久 こそが羨ましくもある。

 まあそれにしても ふ久 的特質がある子供を持った親とは実に大変であることは想像可能だ。
 我が娘幼少時代やめ以子の義理妹希子のように、その存在が“極端に寡黙”な場合は周囲に迷惑を及ぼすことはない。 学校現場で黙り込み自己主張をしないが故に放置されている事を幸運として、後は親の教育指導力で立ち回れば事が足りる。
 それに引き換え、ふ久のごとく自分の興味事にしか関心がなく、友人に怪我をさせても学校内でボヤ騒動を起こしても、周囲への迷惑の程に一切想像が付かない児童に対する学校現場の苦悩の程を推し量って余りあるともいえよう。


 おそらく、ふ久 とは平成現在の学校教育現場においては「発達障碍児」の範疇に収まるであろうと私は想像する。 現在の公立小中教育現場においては、「発達障碍児」に関する教育手段も多様化を遂げていることであろう。

 ただ困難な課題は、当該児童が学校教育が定めた枠内に収まり切れない“超天才”との可能性も否定できない場合もある事態だ。 それでも、学校とは児童生徒に「普通」であることを求め続け個性を潰し続ける存在でしかない。 そうでなければ現在の学校教育制度自体が成り立たない現状である。 
 これをどうにか改善できないものかとも私は思う。

 NHKドラマ「ごちそうさん!」が、如何なる意図でめ以子の義理妹希子の寡黙ぶりや、長女 ふ久 の迷惑度合を取り上げているのかは原左都子には計り知れない。  
 ただ、現在の学校教育現場において顕著な現象である「発達障碍児」の増殖を一つのテーマとしたいのならば、どうか今後その実態を“丁寧に”描いて欲しいものである。 一旦この困難なテーマを脚本家氏が取り上げたならば、少なくとも視聴者に誤解のみを与えて、ふ久をテキトーに成長させることだけは勘弁願いたい。


 それにしても今回のエッセイ表題に掲げた通り、原左都子の私論としては「学力とは“目に見えないものを見ようとする興味」と結論付けたい。
 アインシュタインだってエジソンだってそんな子供時代を過ごしたが故に、子供の頃は変人扱いされて今で言う「発達障碍児」の部類に当時位置づけられていたようだ。

 目に見える現象のみを追い続ける人生があってもいいだろう。
 ところが目には見えない科学・学問の世界に触れる経験、それを探究し続ける事こそが豊かな人生を歩む源であると私は信じたい。
 今現在尚、世間一般への客観的視野・配慮を第一義として大事にしつつ、科学・学問への興味も失わないそんな人生を培っていきたいと志ている原左都子だ。