原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学力とは“見えないものを見ようとする興味”

2014年01月08日 | 教育・学校
 今回のエッセイは、前々回公開した 「教育格差と“幸せ度”との相関関係」 にも関連するエッセイとなろうか。

 上記バックナンバー内で記した私論結論部分のみを以下に要約して紹介しよう。

 「教育格差と『暮し』との関係」なるテーマは、以前より教育関係者を筆頭に世論において好んで議論されている話題であろう。  その相関関係を大袈裟な社会問題に転嫁する以前の問題として、教育現場においてより優先するべきは、子供自身の個性や多様性に応じて臨機応変に対応することであるはずだ。
 いわゆる「出来の悪い子」との差別発言こそを、教育現場が作り上げている現状と私は結論付けている。 ところが「出来が悪い」などとの一言で片隅に置かれねばならない子供たちが、この世に存在するはずがないのだ。
 正月三が日の最終日に久々に目にした我が家の上階に住む(教育経験が乏しい)某女性が、若年にして赤ちゃんを授かったようだが、本気で恋愛して自らの意思で我が子を産んだと私は信じたい。 子を持つ親となったことで彼女が今後ますます成長できることを望みたい。  色々な人生があっていいと私は思う。  教育経験が少ない若年層とて、本人の信念で次世代を生きる赤ちゃんを立派に育てていくことを祈ろう。
 教育格差と人の幸福度を深い思慮なく面白おかしく相関したがる教育業界や世論こそが、短絡的であるとも考察可能ではなかろうか?   相田みつを氏もおっしゃっている通り、幸せとは自分自身のこころが決めていいはずだ。
 (以上、当エッセイ集前々回バックナンバーの私論結論部分のみを要約引用。)


 さて、話題をガラリと変えよう。

 正月明けに放送が再開したNHKドラマ「ごちそうさん!」の現在のテーマは、「子供の教育」であるようだ。
 どうやら主人公 め以子 の長女 ふ久 が多少個性の強い存在との設定である。

 実は私は、め以子の義理妹である希子の寡黙な姿が我が子幼き頃とダブる思いでドラマを見守っていた。 我が娘の場合は、家庭内及びごく親しい人達との関係においては特段の問題はなかったのだが、一旦学校等の集団内に身を置いた場合に、怯えた表情で特異的に寡黙となる現象が高校時代終盤まで続いた。 (いや、大学生になっている現在もその習性を続行しているのかもしれないが、何分大学キャンパス内での我が子の様子を見る機会がないため、親である私が承知していないだけの話かもしれないが…。)
 希子の場合、随分と成長し現在ではアナウンサーとのキャリアウーマンになるまでの発展を遂げている。 我が娘も(あくまでも私が同席している場においては)見知らぬ相手に対する対人関係が急成長している姿に目を細める母の私だが。

 め以子の長女 ふ久 に話を戻そう。
 この子が登場した当初より、私は脚本家氏が“科学者の卵”的素質を持った子として ふ久 を描きたいのだとの印象を抱いた。 ところが ふ久 の場合、既に8歳にして自分の興味対象にのみ集中するが故に、周囲への迷惑が顧みれないとの設定である。
 実は原左都子自身も ふ久 的“科学者素質”の片鱗が幼少の頃よりあった記憶がある。 ただ私の場合は、周囲環境への適合との客観的気質が自分の興味対象に没頭する以上に先天的(一部は後天的?)に身に付いていた。 それ故に、学校等の集団内で何らかの問題を起こすどころが、(悲しいかな)「いい子」としての子供時代を全うさせられてきている。(これぞ我が学校嫌いの根源か?、とも現在分析するのだが…)
 そんな私にとっては、むしろ自分の興味対象にだけ没頭できる類稀な能力を天然質で生まれ持っている ふ久 こそが羨ましくもある。

 まあそれにしても ふ久 的特質がある子供を持った親とは実に大変であることは想像可能だ。
 我が娘幼少時代やめ以子の義理妹希子のように、その存在が“極端に寡黙”な場合は周囲に迷惑を及ぼすことはない。 学校現場で黙り込み自己主張をしないが故に放置されている事を幸運として、後は親の教育指導力で立ち回れば事が足りる。
 それに引き換え、ふ久のごとく自分の興味事にしか関心がなく、友人に怪我をさせても学校内でボヤ騒動を起こしても、周囲への迷惑の程に一切想像が付かない児童に対する学校現場の苦悩の程を推し量って余りあるともいえよう。


 おそらく、ふ久 とは平成現在の学校教育現場においては「発達障碍児」の範疇に収まるであろうと私は想像する。 現在の公立小中教育現場においては、「発達障碍児」に関する教育手段も多様化を遂げていることであろう。

 ただ困難な課題は、当該児童が学校教育が定めた枠内に収まり切れない“超天才”との可能性も否定できない場合もある事態だ。 それでも、学校とは児童生徒に「普通」であることを求め続け個性を潰し続ける存在でしかない。 そうでなければ現在の学校教育制度自体が成り立たない現状である。 
 これをどうにか改善できないものかとも私は思う。

 NHKドラマ「ごちそうさん!」が、如何なる意図でめ以子の義理妹希子の寡黙ぶりや、長女 ふ久 の迷惑度合を取り上げているのかは原左都子には計り知れない。  
 ただ、現在の学校教育現場において顕著な現象である「発達障碍児」の増殖を一つのテーマとしたいのならば、どうか今後その実態を“丁寧に”描いて欲しいものである。 一旦この困難なテーマを脚本家氏が取り上げたならば、少なくとも視聴者に誤解のみを与えて、ふ久をテキトーに成長させることだけは勘弁願いたい。


 それにしても今回のエッセイ表題に掲げた通り、原左都子の私論としては「学力とは“目に見えないものを見ようとする興味」と結論付けたい。
 アインシュタインだってエジソンだってそんな子供時代を過ごしたが故に、子供の頃は変人扱いされて今で言う「発達障碍児」の部類に当時位置づけられていたようだ。

 目に見える現象のみを追い続ける人生があってもいいだろう。
 ところが目には見えない科学・学問の世界に触れる経験、それを探究し続ける事こそが豊かな人生を歩む源であると私は信じたい。
 今現在尚、世間一般への客観的視野・配慮を第一義として大事にしつつ、科学・学問への興味も失わないそんな人生を培っていきたいと志ている原左都子だ。
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