正月三が日最終日だった昨日(1月3日)、やっと重い腰を上げて近くの神社に初詣にでも出かけようかとの気になった。
同じく自宅でうだうだ過ごしている娘を伴い、前回のエッセイで紹介した我が家に程近い“人気神社”へ出かけたものの、1月3日にしていまだ予想以上の混雑ぶりで長蛇の列が出来ているではないか!
メディア報道によると、どうやら今年は例年に増して初詣に出かけた国民が多数だったとのことだ。 アベノミクス経済政策で恩恵をこうむっているリッチ層国民が“ほんの一握りの実態”を思い知らされる風景ではなかろうか。 国政の歪んだ経済政策により“貧富の格差”が急激に拡大しつつある現在、末端国民の皆さんが採る行動とはとりあえず“神頼み”といったところであろう。
結局長蛇の列を一見して辟易とした我々親子は近くの神社での初詣は諦め、急きょ歩いて行ける距離にある娯楽施設で新年の一日を楽しむスケジュールに変更した。
そして訪れた場所とは、前々回エッセイ内で紹介した都内某所に位置する遊園地なのだが、親子連れを中心にそこそこ混雑している。 冬季はスケートリンクも併設している当該遊園地だが、そのスケート場がこれまた大混在状態だ。 これではスピードなど出せないのはもちろんのこと、もし一人が転んだならば将棋倒しが起きニュース沙汰になる程の負傷者を出すのではないか!?! と、傍で見ていて娘と共に気をもまされたものだ。
娘幼少の頃より引き連れよく通っている当該遊園地であるが、その寂れ様が痛々しくもある。 遊具設備は老朽化し一昔の栄光の程がはかなくもノスタルジー化の一途だ。 せめてもの対策として夜間はイルミネーション公開を売り物としているようだが、これまた全国各地観光地の例外ではなく、点灯時間が17時15分と随分遅い時間帯設定がせいぜいの経営収支生命線なのであろう。
それでもとにかく、せっかくこの地を訪れたのだからイルミネーションを観賞した後で夕食をとる段取りとして、その後我が家に帰宅した。
さてその後、我々親子が自宅集合住宅に帰り着いたのは夜8時頃だっただろうか?
小規模集合住宅のため普段共用場所で居住者と出くわすことは滅多にないのだが、昨日はちょうど玄関前に停車している車と出会うはめとなった。 その車から降り立った女性がベビーカーを押している風景を我々母娘はおそらく50m程後ろ手の離れた地点から見る形となる。 車はその後すぐさま玄関前から発車した。
このベビーカーを引いた女性こそが、今回の「原左都子エッセイ集」の主役である。
実は私は、この女性に関し数年前のバックナンバーに於いて綴り公開している。 今一度、当該女性が少女だった頃の様子を少しだけ以下に紹介させたいただこう。
我が家の娘と同じ一人っ子、そして一つ違いのその少女には、母親が存在しないかあるいはほとんど在宅していない様子だった。 そのため少女は幼き頃は学童保育の世話になっていたようだが、小学校高学年以降は放課後自宅で一人で過ごすことを余儀なくされていた。(参考のため、我が家は娘が小学校3年の冬にこの集合住宅に買替え転居している。) 少女が小学校高学年そして中学生になった暁には友達数人を自宅に招いて室内外で暴れはしゃいだり、集合住宅玄関前で皆で座り込み雑談する姿も何度か見かけた。 その後少女は全日制高校には行かなかったようだ。 金髪に超ミニ制服もどきの格好で昼頃外出する姿を何度か見かけた事から察するに、何処かの定時制高校あるいは専門学校にでも通っていたのであろうか。(これに関して少女の家庭と一切の付き合いがないため不明のままである。)
少女は既に成人に達しているであろう事は、わが娘が昨年20歳になっていることから推し量れる事実だ。その後少女がずっと自宅にいたのか、何処で何をしていたのかに関してはまったくもって我が家の知るところではない。
そして時が流れ偶然出くわしたのが昨夜の風景である。 ベビーカーを引く女性の後ろ姿が当時の少女とダブった。 同じく我が娘も「彼女ではないか??」との印象を抱いたようだ。 もしも我々の推測が正しければ、彼女は若年にして既に赤ちゃんを出産している事実となろう。
現在大学2年生である我が娘にとっては、自分が置かれている立場が最優先であることに間違いない。 それでも彼女が赤ちゃんを連れた姿にある意味で多少の衝撃を受けたのかもしれない。
それ以前の問題として、我が子のお抱え家庭教師を今現在も貫いている原左都子自身が、少し気持ちを揺さぶられたのが正直なところだ。 私の子供に対する教育こそが誤っているのか!? 私自身が結婚・出産を二の次にする人生を欲した故に我が娘にも現在その道程を歩ませているが、女とは子供を産んでこそ幸せを享受できる生き物なのか??? もしかしたら上階の彼女は自分の子供を出産することで、今後の生きる道を確かなものにしたのかもしれないのか!?、等々と……。
そんな夜に自宅玄関メールボックスから持ち帰った朝日新聞1月3日の一面トップ記事が、「教育2014格差を超える 暮らしのせいにしない」だった。
教育格差と「暮し」との相関関係に関しては以前より議論され続けている課題であろう。
このテーマに関する私論は「原左都子エッセイ集」“学校・教育“カテゴリーにおいて何本も公開してきているのに加えて、ここで元教育者である原左都子の教育理念趣旨を述べるには多大な時間を要するので割愛させていただく。
その上で、朝日新聞紙面に公開されている「教育格差と『暮し』」の論評に関して以下に一部を要約して紹介させていただこう。
授業で算数の問題が解けないとき、ある子が言った。「何もかも嫌や。どうせできへんもん。」 教師が叱ると「自分なんかいなくても誰も悲しまん。」 これに対して専門家は「暮しのしんどさのせいにしたら、この子らずっと浮かび上がれん。 教育の機会均等を守るのが教師の役割やないか」
ここで原左都子の私論に移ろう。
上記朝日新聞の事例の場合、「教育格差と『暮し』」などとの大袈裟な社会問題に転嫁する以前の問題として、教育現場の教員としてもっと優先して子供に対し指導するべきことがあるのではなかろうか?
元教育者の私の視点では、この子は「どうせできへん」「自分がいなくても誰も悲しまん」との言語を発することにより、現実逃避を企てているとの印象を抱く。 その心理を何故教師が見抜いてやれず、いきなり叱るのか? いやいや実際の教育現場実態とは、そんなに単純ではない事は明白である。 教員の皆さんが日々苦労しつつ子供の指導に当たっていると信じたい。
要するに、学校教育現場における子供の教育とは子供自身の個性や多様性に応じて臨機応変であるべくはずだ。
いわゆる「出来の悪い子」との、差別発言こそを教育現場が作り上げている現状と私は結論づけている。 そんな子供たちがこの世に存在するはずもないのだ。
正月三が日の最終日に久々に目にした我が家の上階に住む彼女が、本気で恋愛して我が子を産んだと私は信じたい。 子供を産んだことで彼女が今後ますます成長できることを望みたい。
色々な人生があっていいと私は思う。 教育経験が少ない若年層とて、本人の信念で次世代を生きる赤ちゃんを立派に育てていくことを祈ろう。
教育格差と人の幸福度を深い思慮なく面白おかしく相関したがる教育業界や世論こそが、短絡的であるとも考察可能ではなかろうか?
相田みつを氏もおっしゃっている通り、幸せとは自分自身のこころが決めていいはずだ。
同じく自宅でうだうだ過ごしている娘を伴い、前回のエッセイで紹介した我が家に程近い“人気神社”へ出かけたものの、1月3日にしていまだ予想以上の混雑ぶりで長蛇の列が出来ているではないか!
メディア報道によると、どうやら今年は例年に増して初詣に出かけた国民が多数だったとのことだ。 アベノミクス経済政策で恩恵をこうむっているリッチ層国民が“ほんの一握りの実態”を思い知らされる風景ではなかろうか。 国政の歪んだ経済政策により“貧富の格差”が急激に拡大しつつある現在、末端国民の皆さんが採る行動とはとりあえず“神頼み”といったところであろう。
結局長蛇の列を一見して辟易とした我々親子は近くの神社での初詣は諦め、急きょ歩いて行ける距離にある娯楽施設で新年の一日を楽しむスケジュールに変更した。
そして訪れた場所とは、前々回エッセイ内で紹介した都内某所に位置する遊園地なのだが、親子連れを中心にそこそこ混雑している。 冬季はスケートリンクも併設している当該遊園地だが、そのスケート場がこれまた大混在状態だ。 これではスピードなど出せないのはもちろんのこと、もし一人が転んだならば将棋倒しが起きニュース沙汰になる程の負傷者を出すのではないか!?! と、傍で見ていて娘と共に気をもまされたものだ。
娘幼少の頃より引き連れよく通っている当該遊園地であるが、その寂れ様が痛々しくもある。 遊具設備は老朽化し一昔の栄光の程がはかなくもノスタルジー化の一途だ。 せめてもの対策として夜間はイルミネーション公開を売り物としているようだが、これまた全国各地観光地の例外ではなく、点灯時間が17時15分と随分遅い時間帯設定がせいぜいの経営収支生命線なのであろう。
それでもとにかく、せっかくこの地を訪れたのだからイルミネーションを観賞した後で夕食をとる段取りとして、その後我が家に帰宅した。
さてその後、我々親子が自宅集合住宅に帰り着いたのは夜8時頃だっただろうか?
小規模集合住宅のため普段共用場所で居住者と出くわすことは滅多にないのだが、昨日はちょうど玄関前に停車している車と出会うはめとなった。 その車から降り立った女性がベビーカーを押している風景を我々母娘はおそらく50m程後ろ手の離れた地点から見る形となる。 車はその後すぐさま玄関前から発車した。
このベビーカーを引いた女性こそが、今回の「原左都子エッセイ集」の主役である。
実は私は、この女性に関し数年前のバックナンバーに於いて綴り公開している。 今一度、当該女性が少女だった頃の様子を少しだけ以下に紹介させたいただこう。
我が家の娘と同じ一人っ子、そして一つ違いのその少女には、母親が存在しないかあるいはほとんど在宅していない様子だった。 そのため少女は幼き頃は学童保育の世話になっていたようだが、小学校高学年以降は放課後自宅で一人で過ごすことを余儀なくされていた。(参考のため、我が家は娘が小学校3年の冬にこの集合住宅に買替え転居している。) 少女が小学校高学年そして中学生になった暁には友達数人を自宅に招いて室内外で暴れはしゃいだり、集合住宅玄関前で皆で座り込み雑談する姿も何度か見かけた。 その後少女は全日制高校には行かなかったようだ。 金髪に超ミニ制服もどきの格好で昼頃外出する姿を何度か見かけた事から察するに、何処かの定時制高校あるいは専門学校にでも通っていたのであろうか。(これに関して少女の家庭と一切の付き合いがないため不明のままである。)
少女は既に成人に達しているであろう事は、わが娘が昨年20歳になっていることから推し量れる事実だ。その後少女がずっと自宅にいたのか、何処で何をしていたのかに関してはまったくもって我が家の知るところではない。
そして時が流れ偶然出くわしたのが昨夜の風景である。 ベビーカーを引く女性の後ろ姿が当時の少女とダブった。 同じく我が娘も「彼女ではないか??」との印象を抱いたようだ。 もしも我々の推測が正しければ、彼女は若年にして既に赤ちゃんを出産している事実となろう。
現在大学2年生である我が娘にとっては、自分が置かれている立場が最優先であることに間違いない。 それでも彼女が赤ちゃんを連れた姿にある意味で多少の衝撃を受けたのかもしれない。
それ以前の問題として、我が子のお抱え家庭教師を今現在も貫いている原左都子自身が、少し気持ちを揺さぶられたのが正直なところだ。 私の子供に対する教育こそが誤っているのか!? 私自身が結婚・出産を二の次にする人生を欲した故に我が娘にも現在その道程を歩ませているが、女とは子供を産んでこそ幸せを享受できる生き物なのか??? もしかしたら上階の彼女は自分の子供を出産することで、今後の生きる道を確かなものにしたのかもしれないのか!?、等々と……。
そんな夜に自宅玄関メールボックスから持ち帰った朝日新聞1月3日の一面トップ記事が、「教育2014格差を超える 暮らしのせいにしない」だった。
教育格差と「暮し」との相関関係に関しては以前より議論され続けている課題であろう。
このテーマに関する私論は「原左都子エッセイ集」“学校・教育“カテゴリーにおいて何本も公開してきているのに加えて、ここで元教育者である原左都子の教育理念趣旨を述べるには多大な時間を要するので割愛させていただく。
その上で、朝日新聞紙面に公開されている「教育格差と『暮し』」の論評に関して以下に一部を要約して紹介させていただこう。
授業で算数の問題が解けないとき、ある子が言った。「何もかも嫌や。どうせできへんもん。」 教師が叱ると「自分なんかいなくても誰も悲しまん。」 これに対して専門家は「暮しのしんどさのせいにしたら、この子らずっと浮かび上がれん。 教育の機会均等を守るのが教師の役割やないか」
ここで原左都子の私論に移ろう。
上記朝日新聞の事例の場合、「教育格差と『暮し』」などとの大袈裟な社会問題に転嫁する以前の問題として、教育現場の教員としてもっと優先して子供に対し指導するべきことがあるのではなかろうか?
元教育者の私の視点では、この子は「どうせできへん」「自分がいなくても誰も悲しまん」との言語を発することにより、現実逃避を企てているとの印象を抱く。 その心理を何故教師が見抜いてやれず、いきなり叱るのか? いやいや実際の教育現場実態とは、そんなに単純ではない事は明白である。 教員の皆さんが日々苦労しつつ子供の指導に当たっていると信じたい。
要するに、学校教育現場における子供の教育とは子供自身の個性や多様性に応じて臨機応変であるべくはずだ。
いわゆる「出来の悪い子」との、差別発言こそを教育現場が作り上げている現状と私は結論づけている。 そんな子供たちがこの世に存在するはずもないのだ。
正月三が日の最終日に久々に目にした我が家の上階に住む彼女が、本気で恋愛して我が子を産んだと私は信じたい。 子供を産んだことで彼女が今後ますます成長できることを望みたい。
色々な人生があっていいと私は思う。 教育経験が少ない若年層とて、本人の信念で次世代を生きる赤ちゃんを立派に育てていくことを祈ろう。
教育格差と人の幸福度を深い思慮なく面白おかしく相関したがる教育業界や世論こそが、短絡的であるとも考察可能ではなかろうか?
相田みつを氏もおっしゃっている通り、幸せとは自分自身のこころが決めていいはずだ。