原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

教育格差と“幸せ度”との相関関係

2014年01月04日 | 時事論評
 正月三が日最終日だった昨日(1月3日)、やっと重い腰を上げて近くの神社に初詣にでも出かけようかとの気になった。
 同じく自宅でうだうだ過ごしている娘を伴い、前回のエッセイで紹介した我が家に程近い“人気神社”へ出かけたものの、1月3日にしていまだ予想以上の混雑ぶりで長蛇の列が出来ているではないか!

 メディア報道によると、どうやら今年は例年に増して初詣に出かけた国民が多数だったとのことだ。 アベノミクス経済政策で恩恵をこうむっているリッチ層国民が“ほんの一握りの実態”を思い知らされる風景ではなかろうか。  国政の歪んだ経済政策により“貧富の格差”が急激に拡大しつつある現在、末端国民の皆さんが採る行動とはとりあえず“神頼み”といったところであろう。

 結局長蛇の列を一見して辟易とした我々親子は近くの神社での初詣は諦め、急きょ歩いて行ける距離にある娯楽施設で新年の一日を楽しむスケジュールに変更した。
 そして訪れた場所とは、前々回エッセイ内で紹介した都内某所に位置する遊園地なのだが、親子連れを中心にそこそこ混雑している。 冬季はスケートリンクも併設している当該遊園地だが、そのスケート場がこれまた大混在状態だ。 これではスピードなど出せないのはもちろんのこと、もし一人が転んだならば将棋倒しが起きニュース沙汰になる程の負傷者を出すのではないか!?! と、傍で見ていて娘と共に気をもまされたものだ。
 娘幼少の頃より引き連れよく通っている当該遊園地であるが、その寂れ様が痛々しくもある。 遊具設備は老朽化し一昔の栄光の程がはかなくもノスタルジー化の一途だ。 せめてもの対策として夜間はイルミネーション公開を売り物としているようだが、これまた全国各地観光地の例外ではなく、点灯時間が17時15分と随分遅い時間帯設定がせいぜいの経営収支生命線なのであろう。
 それでもとにかく、せっかくこの地を訪れたのだからイルミネーションを観賞した後で夕食をとる段取りとして、その後我が家に帰宅した。

 
 さてその後、我々親子が自宅集合住宅に帰り着いたのは夜8時頃だっただろうか?
 小規模集合住宅のため普段共用場所で居住者と出くわすことは滅多にないのだが、昨日はちょうど玄関前に停車している車と出会うはめとなった。 その車から降り立った女性がベビーカーを押している風景を我々母娘はおそらく50m程後ろ手の離れた地点から見る形となる。 車はその後すぐさま玄関前から発車した。

 このベビーカーを引いた女性こそが、今回の「原左都子エッセイ集」の主役である。

 実は私は、この女性に関し数年前のバックナンバーに於いて綴り公開している。 今一度、当該女性が少女だった頃の様子を少しだけ以下に紹介させたいただこう。
 我が家の娘と同じ一人っ子、そして一つ違いのその少女には、母親が存在しないかあるいはほとんど在宅していない様子だった。 そのため少女は幼き頃は学童保育の世話になっていたようだが、小学校高学年以降は放課後自宅で一人で過ごすことを余儀なくされていた。(参考のため、我が家は娘が小学校3年の冬にこの集合住宅に買替え転居している。) 少女が小学校高学年そして中学生になった暁には友達数人を自宅に招いて室内外で暴れはしゃいだり、集合住宅玄関前で皆で座り込み雑談する姿も何度か見かけた。 その後少女は全日制高校には行かなかったようだ。 金髪に超ミニ制服もどきの格好で昼頃外出する姿を何度か見かけた事から察するに、何処かの定時制高校あるいは専門学校にでも通っていたのであろうか。(これに関して少女の家庭と一切の付き合いがないため不明のままである。)
 少女は既に成人に達しているであろう事は、わが娘が昨年20歳になっていることから推し量れる事実だ。その後少女がずっと自宅にいたのか、何処で何をしていたのかに関してはまったくもって我が家の知るところではない。
 そして時が流れ偶然出くわしたのが昨夜の風景である。 ベビーカーを引く女性の後ろ姿が当時の少女とダブった。 同じく我が娘も「彼女ではないか??」との印象を抱いたようだ。 もしも我々の推測が正しければ、彼女は若年にして既に赤ちゃんを出産している事実となろう。

 現在大学2年生である我が娘にとっては、自分が置かれている立場が最優先であることに間違いない。 それでも彼女が赤ちゃんを連れた姿にある意味で多少の衝撃を受けたのかもしれない。
 それ以前の問題として、我が子のお抱え家庭教師を今現在も貫いている原左都子自身が、少し気持ちを揺さぶられたのが正直なところだ。 私の子供に対する教育こそが誤っているのか!? 私自身が結婚・出産を二の次にする人生を欲した故に我が娘にも現在その道程を歩ませているが、女とは子供を産んでこそ幸せを享受できる生き物なのか???  もしかしたら上階の彼女は自分の子供を出産することで、今後の生きる道を確かなものにしたのかもしれないのか!?、等々と……。


 そんな夜に自宅玄関メールボックスから持ち帰った朝日新聞1月3日の一面トップ記事が、「教育2014格差を超える 暮らしのせいにしない」だった。

 教育格差と「暮し」との相関関係に関しては以前より議論され続けている課題であろう。
 このテーマに関する私論は「原左都子エッセイ集」“学校・教育“カテゴリーにおいて何本も公開してきているのに加えて、ここで元教育者である原左都子の教育理念趣旨を述べるには多大な時間を要するので割愛させていただく。

 その上で、朝日新聞紙面に公開されている「教育格差と『暮し』」の論評に関して以下に一部を要約して紹介させていただこう。
 授業で算数の問題が解けないとき、ある子が言った。「何もかも嫌や。どうせできへんもん。」 教師が叱ると「自分なんかいなくても誰も悲しまん。」 これに対して専門家は「暮しのしんどさのせいにしたら、この子らずっと浮かび上がれん。 教育の機会均等を守るのが教師の役割やないか」

 ここで原左都子の私論に移ろう。
 上記朝日新聞の事例の場合、「教育格差と『暮し』」などとの大袈裟な社会問題に転嫁する以前の問題として、教育現場の教員としてもっと優先して子供に対し指導するべきことがあるのではなかろうか? 
 元教育者の私の視点では、この子は「どうせできへん」「自分がいなくても誰も悲しまん」との言語を発することにより、現実逃避を企てているとの印象を抱く。 その心理を何故教師が見抜いてやれず、いきなり叱るのか?  いやいや実際の教育現場実態とは、そんなに単純ではない事は明白である。 教員の皆さんが日々苦労しつつ子供の指導に当たっていると信じたい。
 要するに、学校教育現場における子供の教育とは子供自身の個性や多様性に応じて臨機応変であるべくはずだ。
 いわゆる「出来の悪い子」との、差別発言こそを教育現場が作り上げている現状と私は結論づけている。 そんな子供たちがこの世に存在するはずもないのだ。


 正月三が日の最終日に久々に目にした我が家の上階に住む彼女が、本気で恋愛して我が子を産んだと私は信じたい。 子供を産んだことで彼女が今後ますます成長できることを望みたい。
 色々な人生があっていいと私は思う。  教育経験が少ない若年層とて、本人の信念で次世代を生きる赤ちゃんを立派に育てていくことを祈ろう。

 教育格差と人の幸福度を深い思慮なく面白おかしく相関したがる教育業界や世論こそが、短絡的であるとも考察可能ではなかろうか? 
 相田みつを氏もおっしゃっている通り、幸せとは自分自身のこころが決めていいはずだ。

いとも美しき 「江戸紅型」

2014年01月01日 | 芸術
 (写真は、昨年12月上旬に東京都内で開催された きもの博覧会会場にて買い求めた「江戸紅型」の訪問着反物及び帯が12月末仕立て上がり、我が家に到着したもの。)


 新年 明けまして おめでとうございます。 

 本年も何卒よろしくお願い申し上げます。  


 2014年東京地方の元旦は、好天に恵まれ何とも穏やかな日和である。
 午前中は高層住宅上階に位置する我が家は多少南風が強かったものの、午後に入ってからは風もおさまり最高気温16℃の予報通り気温が上昇し、真冬とは思えないような暖かい日差しが今現在も室内に降り注いでいる。

 混雑を嫌う我が家の場合、まかり間違っても年末年始のこの時期に旅に出たり行楽を楽しんだりはしない。 ひたすら一家皆で家に籠り、昼になるとやっとこさ家族に我が下手な手作り雑煮と出来合いのおせちを出すのが関の山である。

 初詣にぐらい外出しても罰が当たらない事は承知だが、(何のご利益があるかは未だ不明なものの)我が家に程近い神社が毎年ゲロ混み状態なのだ! その混み様とは、(冗談抜きで)新しいゲームマシンが新発売される都心の家電量販店店頭のごとく何百メートルと続く長蛇の列である!
 娘の七五三7歳のお祝い時にはこの神社でご祈祷までしてもらったものの、とにかく混雑を嫌う我が家の場合、その長蛇に耐えてまで初詣をしたいとの希望はさらさらない。  そこで正月三が日が明けた頃にやっとこの神社を訪れるのが例年の習慣だが、それでもまだ順番待ちの列に少し耐えねばならない程の人気の神社である。 (実際問題何らかのご利益がある訳などないと我が論理思考より判断しているのに加え、我が亭主など数年前にこの神社に「凶」のおみくじを引かされて以降、この地に足を運ぶことすらない…


 さて、「原左都子エッセイ集」今年最初のエッセイは本日元旦のこの穏やかでよき日柄に便乗し、きものの話題で美しくまとめることにしよう。

 皆さんは、「紅型(びんがた)」なる着物素材をご存知であろうか?
 実は私の場合、「琉球紅型」に関してはそういうものが存在する程度の認識はあったのだが、それが如何なるものかを沖縄を訪れた時にさえ探索せずに終わっている。

 ここでウィキペディア情報を参照しつつ、まずは「紅型」に関して説明しよう。
 「紅型(びんがた)」とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮するとその起源は13世紀頃と推定されている。 「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われる。この定義をしたのは鎌倉芳太郎と伊波普猷とする説がある。 「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは昭和期に入ってから。 沖縄県は「びんがた」と平仮名表記する場合が多い。 古文書に現れる文字は「形付」、「形附」で「紅型」表記はない。
 歴史的背景としては、琉球王国の時代、主に王族や士族の衣装として染められていた。王府は染屋を首里城の周りに置き庇護した。 薩摩の琉球侵攻の後は、日本本土との交易などに重点が置かれ、殖産の増進政策によって技術が飛躍的に向上した。しかし、明治時代の王府廃止に因って庇護を失った染屋は廃業を余儀なくされ、多く職人が首里を後にし、宮廷のために生まれた紅型は衰退していく。
 現在、古紅型と呼ばれるものは江戸時代頃の作品が多い。本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多いともされているが、ほとんどは中国の吉祥文様を図案とし、当時の王族・士族階級の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められる。 江戸時代は袋物などの小物用生地、明治からは着物などにも使われていた。
 紅型の技法には、一般的な型染め、筒描き、藍染め(漬染め)がある。 型染めで特徴的なのは型の上から色を挿すのではなく、防染糊を置くことだが、フクギを用いて染めると黄色となる。 ほか、赤地や白地のものが生産されている。 柄色は顔料を色止めのために豆汁で溶いたものを使用する。 赤い色はコチニールから取るほか、緑などは顔料化した藍などの混色で作る。そこに隈取りをする。これによって柄が引き締まるのが、紅型の大きな特徴である。

 引き続きネット情報から、「琉球紅型」と「江戸紅型」の違いに関して論説した情報を引用する。
 紅型は元禄時代に交易により琉球から江戸へともたらされた。 当時江戸では友禅が大流行していた時代背景だ。 そのため紅型は友禅の影響を受けて南国では見ることの出来ない草木・鳥の文様が描かれるようになる。 (ここで参考だが上記写真の通り、私が買い求めた「紅型」も草木や鳥の文様が巧みに描かれている。) こうして紅型は柔軟に成長していった。
 紅型の魅力の1つは美しい色使いである。 題材本来の色に縛られることない豊かな色合いで表現していくのが特徴だ。 江戸紅型も琉球紅型に倣って 鳥や草花の大きさも実際の大きさに縛られずに構図を取り全体の雰囲気を大切にする。
色合いに関してははそれぞれの特徴があり、琉球紅型は植物染料を使うため顔料を使う江戸紅型に比べて原色の強い色が出る。 片や、 江戸紅型ははんなりとした優しい色合いになる。  江戸紅型は、金線・型箔・刺繍などで仕上げをする場合もある。
 (以上、「紅型」に関するネット情報を要約引用。)


 昨年12月にきもの博覧会会場にても上記同様の説明を担当者から見聞した私だが、今回ネット情報を得たことにより我が「紅型」認識が更に深まった思いである。 と同時に、これが無駄な浪費でなかった感覚も自分なりに紡げたというものだ。

 とにかく、実際に仕立て上がって到着した「江戸紅型」一式を自宅で広げて観賞した瞬間の感動とは、実に素晴らしいものがあった。 今回は娘と共用目的で仕立て発注した江戸紅型一式だが、美術経験がある娘も江戸紅型の構図や色彩力に唸ったものだ。


 さてさて皆さんが一番ご興味を抱くのは、上記写真の「江戸紅型」が如何程の値段なのかとの観点ではあるまいか?

 その回答を申し上げるために、先ほど同金額の販売物をネット上で検索してみた。 そこでたまたま検索できたのが少し以前の一般大衆車(マツダプリウス等)や、オメガの時計(ピンキリだろうが同じ価格の商品が検索できた)の定価であった。
 ただし私の経験則によると、物品価格が高価な商品程に折衝による価格設定が可能との事でもあるまいか。 

 まあそれにしても現在経済力のない原左都子にして、上記写真「江戸紅型」に“大盤振る舞い”してしまった事態に、新年を迎えた本日も多少の反省の念を抱かされる…。
 少し自己弁護するならば、私は現在車にはまったく興味がないのに加えて今後一生に渡って車を運転する嗜好など描けそうもないため、その出費を他の趣味に回しても許されるとの事ではなかろうか。

 とにもかくにも、過去に芸術系を志向した娘も賞賛する「江戸紅型」の歴史的に培われた芸術力に感動できる事こそが、今年の我が母娘に幸運をもたらすであろうと信じよう。