原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

就活と学問の狭間で…

2010年12月04日 | 時事論評
 “大学とはあくまでも学問を伝授する学府であるべきだ” 
 
 「原左都子エッセイ集」において幾度となく訴え続けているテーマの一つに、上記のごとくの大学の本来あるべき姿についての私論がある。


 例えば、先だっての学校・教育カテゴリーバックナンバー「センター試験難易度2分割案に異議申す!」においてもその趣旨のオピニオンを述べている。  独立行政法人“大学入試センター”が現在存在する大学の実態に即して大学センター試験を難易度に応じて2分割する案を提示しているのを受けて、これが学問を伝授しているとは言い難い“名のみの大学”を切り捨てる意図であるのならば容認できるが、そうでなくその種の大学を温存する趣旨だとするならば、学力の無い学生を生み出している高校教育以前まで遡って学校教育を再考するのが先決問題である、との私論を展開した。 
 少々古くなるが2009年6月時事論評カテゴリーバックナンバー「某実学志向大学の経営破綻」においても、同趣旨のオピニオンを展開している。 資格取得を開学の趣旨として全国で初めて設立された“株式会社立”の大学がわずか5年にして閉学に至った話題を取り上げ、大学とはあくまでも学問を伝授する学府であるべきであり、大学とは名のみの実学志向大学が経営破綻するのは当然の成り行きである旨の私論を公開しているので、ご参照いただきたい。


 大学の存在命題に関する上記のポリシーが明確である原左都子にとって、何とも心が痛む現役大学生によるオピニオンを新聞の投書欄で発見した。

 11月27日付朝日新聞「声」欄に掲載されていた22歳の現役大学3年生による“就活、疑問あるが悩む暇ない”を以下に要約して紹介しよう。
 「大卒漂流」「内定率57,6%」 新聞には就活を始めた大学3年の私にとってネガティブな言葉が並んでいる。 これらの言葉は私たちに焦りを与え不安にさせる。 学生の本分である学業に時間を費やせず、就活が最優先にならざるを得ない。 3年生になって授業が専門的になりやっと面白くなったのに休まねばならない。 将来やりたいことのために今やりたい(学業)を犠牲にせざるを得ない…。 3年前あんなに頑張って大学に入ったのは就活をするためだったのか?と疑問だ。 だが時間は待ってくれない。このご時勢にそんなこと悩んでいる暇はない。でも学業を疎かにしたくもない…。 今はベストを尽くし行きたい会社の内定をもぎとるしかない。


 私論に入ろう。
 今時、大学に入学してその学業が面白くなったという現役学生の実話を聞かせていただいただけでも原左都子は大いに感激である。
 このように学問に対して“骨”がある若者が3年生になって専門課程に入り学業に励みたいにもかかわらず、就活のために大学を休まねばならない過酷で歪んだ現実を作り上げたのは一体誰の責任か?! と改めて国政の責任を問い正したい思いの私だ。

 だが、ここでは思い切って視点を変えてみよう。 すなわち、「大卒漂流」とまで表現されている超就職難の現状にもかかわらず数十%の大卒者が就職に“ありつけている”実態の方に目を向けて分析するという手もあろう。
 
 一体、大卒者のうち如何なる人種が就職にありつけているのか?

 もしかしたら、その第一は単に“コネ”等の人脈によるのだろうか??  そうだとすると私は当ブログのバックナンバー「人脈とは時に足かせになる」で綴った内容を思い起こすのだが、コネに頼る事とは概してその先々の成功には繋がらないものであることを年配者としては実感するのだ。 “コネ”の強力度にもよるであろうが、実力も無いのに何らかの就職をゲットしたとて、その先は知れているというものである。

 次に、上記「声」欄の学生が投稿しているごとく、就活に励む頻度(就活のために費やす時間)と就職をゲットする事との間に相関関係が成り立つのかどうかに関しても、原左都子は疑問符を投げかけたい思いである。
 この「声」欄投稿学生が本気で大学における専門分野の学業に励みたいのであれば、今はそれを優先してはどうかとアドバイスしたい気もするのだ。 そして専門分野における学力を高めた後に就活を再開した方が、自分自身の仕事に臨むポリシーがより明確になっているはずなのである。 その専門力や自分の将来の職業における夢等を、通り一遍のマニュアルではなく自分自身の言葉で就活時の面談等で伝えられるならば、就職先の人事担当者がよほど人を見る目を持たない馬鹿でない限り、その思いが伝わり易いのではないかと私は思うのだが…


 現役大学生がこの経済不況の現実の中にあってすぐ間近の就職を控えて焦る気持ちは重々理解できるが、むしろ今は本分である学業を全うしたいとの“図太さ”のある人材こそが将来活躍する資質の持ち主ではないのかと考察する原左都子である。

 社会の第一歩を“コネ”に頼った人物が早々に潰れ去る姿を私は過去において既に何回か身近に体験してきている。 (名目だけは体裁を保っていたって、実力が無い人物が上に立つ姿は端で見ていても惨めなものだよ~~) 
          
 だからこそ若者よ、大学に入学したならば就活など後回しにして是非とも学問を貫こう!! 
 小手先の就職マニュアルに頼るのではなく学生のうちに真の実力を身に付けられたならば、現在の大学卒業時点の就職ゲット率である50数%の一人となれることは間違いないと私が保証しよう。
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嫌な人に会うと勉強になる。

2010年12月02日 | 自己実現
 ほぼ2日に1本のペースでエッセイを綴り、その我が「原左都子エッセイ集」が Google検索「エッセイ集」トップページ最上段の座を2年来キープし続けている素人“もの書き”の端くれである私が、昨日NHKテレビで放映された対談番組にゲスト出演した 林真理子氏 のトークを見逃すはずもない。

 昨日(12月1日)のNHKスタジオパークのゲストは、小説家・エッセイストの 林真理子氏であった。

 午後外出を予定していた私であるにもかかわらず、午後1時過ぎから見始めたこの番組のゲストである林氏のトークに引き寄せられ、最後まで集中して見入ってしまった。
 私は特段林真理子氏のファンという訳ではないのだが、年齢が近いことや高齢出産等の共通項がある。 そして何よりも“もの書き”を収入源として世に名を売っている人物のトークは今の原左都子には見逃せない思いである。
 番組冒頭よりやや不機嫌そうな雰囲気の林氏と私は捉えたのだが、これは後の本人の弁明によると「年を取ったせいで口角が下がったことによりそう見えるだけ」とのことのようだ。 一見不機嫌そうな表情から何気ないように発せられる言葉の一言一言に以外や以外重みがあり、的を射ていて面白いのだ。
 それらの言葉の節々が、私の生き様や人生観、そして現在「原左都子エッセイ集」を綴り続けている私の日常とダブる思いであった。 (真理子さん、たかが庶民ド素人“もの書き”が身の程知らずにこんなところで生意気な事を申す失礼を何卒お許し下さいますように。


 
 そんな林真理子氏と原左都子との共通項の幾つかをここで探ってみよう。


 まずは、エッセイの執筆頻度とその制作過程における両者の共通点を取り上げることにしよう。

 林氏のトークによると、氏は現在月刊誌、週刊誌の連載エッセイを6本抱えておられるようだ。 (小説家である林氏の場合、もちろんこれに加えて28年間に渡り何百本もの小説を出版されているのだが) これを頻度に換算するとほぼ2日に一本の割合でエッセイを綴っておられる計算になり、原左都子同様である。
 そして、林氏は原稿用紙ほぼ7枚半分の1本のエッセイを速い時には45分程で書き上げるそうだ。 原左都子の場合も1本のエッセイが現在約2500~3000字であるが、やはり同じく1時間足らずでバシャバシャとキーボード入力している。 ただ、私の場合は“一気打ち”した原稿を見直す(自ら校正し監修する)作業にむしろ時間を費やすため、結果として仕上げまでに2時間程を要している。

 エッセイ制作手段として原左都子が専らパソコンキーボード入力であるのに対し、林氏はあくまでも特注原稿用紙に愛用ペンによる手書きであるようだ。
 ところが林氏のその理由が、原左都子がキーボード入力を愛用している理由と一致しているところが興味深い。 林氏のトークによると「書き始めると一気に書き上げたい」「読むリズムと書くリズムを一致させたい」から原稿用紙を使用しておられるらしいのだ。(林氏の場合、手書きが相当速筆のご様子だ!)  まったく同様の理由で、時間がかかる手書きよりも(英文タイプ2級取得者でもある)私はブラインドタッチで一気に打ち込めるパソコン(ワープロ)キーボード入力に20代後半頃から親しんでおり、それを今後共是非共貫き通したいものである。  (30年来筆記をキーボードに頼っていると、手書きの場合の手が自ずとキーボードの速さになりとんでもない乱筆で重要書類作成時など困惑するのですが、皆さんは如何でしょう?)


 次の共通項は、林氏曰く“山を登り続けたい”との上昇志向にある。

 いえいえ、作家として既に成功をゲットされている林氏と比較したら、今後共あくまでも庶民の立場で生き続けることを志向している原左都子の範疇を超えない話なのだが、そんな私が今、何故に一銭にもならないエッセイを綴って日々ネット公開しているのかと言えば、それはまさに私なりの“上昇志向”故であるからに他ならない。
 林氏の場合、大学卒業後フリーター等で一時苦労した時期に、既に「私には才能があるはずだ!」との確信を内面に抱いておられたそうだ。  片や原左都子の場合、社会のスタートが医学専門職であり、自分がその世界に満足さえできれば一生安泰な環境にあったため、“ハングリー”などという言葉とは無縁の世界にいたはずなのだ。 それにもかかわらず、その後の我が人生が試行錯誤の連続であるのは、まさに林氏の“山を登り続けたい”との上昇志向に一致するとも言えるのである。
 林氏は言う。 「平地で生きている人達はそれなりにキャピキャピしつつ楽しそうだ。 一方、山を登り始めた人種は一生上り続けなければならない。」  そのレベルは違えどもまったく同感である。


 “もの書き”の話に戻ろう。 
 
 “もの書き”の情報収集における最大の共通項とは「人間観察」にあるのではなかろうかと、原左都子は日々捉えている。
 折りしもこの番組の聞き手であるNHKアナウンサーのこの種の質問に対し、林氏は「意識して人間観察をしている訳ではないが、小説を書く場合、登場人物の一人ひとりに自分が成り切ることも不可欠であり、普段から周囲の人物を自然と観察していることは確かだ」云々の返答をしておられた。

 日常生活における様々な人間との出会いや係わりがある中で、とりわけ “嫌な人に会うと勉強になる” との林氏が言葉が印象的だった私である。(それ故にこの言葉を今回の記事の表題とさせていただいたのだ。)
 まさに林氏のおっしゃる通りである。 日々エッセイを綴り続けることとはそのカテゴリーが何であれ、結局は日常の「人間観察」に尽きることを実感の連続である。 私の場合、林氏のごとく著名人ではないため日々多くの人に出会える訳ではないが、それでも日常の身近な人とのかかわりや新しい人との出会い、そしてメディアやネットを通してみる人間模様がエッセイを綴る最大のエネルギーとなっていることは明らかである。
 特に林氏がおっしゃるがごとく “嫌な人に会うと勉強になる” ことについては大いにガッテン!の私だ。 この毒舌エッセイブログである「原左都子エッセイ集」のほとんどの記事は“嫌な人に会ったり”メディア上等で垣間見たりして抱いた違和感や反発心を、エッセイとしてぶつけていると言っても過言ではないからだ。

  
 林真理子氏という作家は、おそらく受け手によって好き嫌いが激しく分かれる人物であるのかもしれない。
 それでも作家デビュー後28年が経過した今表現者としての確固たる地位を築き上げておられるのは、ご自身の作家としてそして一人の人間として日々積み上げて来られたバックグラウンドに基づいていることを、垣間見させていただけた昨日の対談番組だった。
 (林真理子さん、原左都子はあくまでも一般庶民の立場にありながら、最後まで失礼な物言いを致しました事を重ねてお詫び申し上げます。  )
 
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