原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

喪中挨拶状より、寒中見舞いの活用を

2010年12月10日 | 人間関係
 毎年11月下旬頃から到着し始める喪中葉書であるが、不謹慎は承知の上で正直言って「だから、どうしたの??」と言いたくなる原左都子は、人道はずれた冷血人間なのであろうか?


 いえ、決して到着する喪中葉書のすべてに「だから、どうしたの?」と言いたくなる訳ではない。

 例えば親しい人のお身内がなくなったようなケースの場合、「へえ、そうなんだ」位の感情は抱く。 ただ、そのお身内が既に平均寿命を超えておられるような場合、自ずと同情の度合は低くなる。
 そんな中、喪中葉書に記されているお亡くなりになった方に生前お会いしたことがあったり、お世話になったような場合(学生時代の友人のご両親等)は、一報を入れさせていただく場合もある。
 あるいは故人と面識がなくても、例えば亡くなられた方がご自身の子どもさんであったり、若い世代の方のご兄弟等若年層である場合は大いに心が痛むものである。 はたまた、私と同年代の知人の配偶者である場合も少なからずのショックを受ける。

 要するに、喪中葉書を寄こした本人と大して親しくもないのに毎年義理がらみで年賀状をやり取りしているような関係における喪中葉書に対して、「だから、どうしたの?」との感情をついつい抱いてしまうという話である。
 このような“虚礼”に関してはわざわざ喪中のお知らせをいただくまでもなく、それをきっかけに年賀状のやりとりを思い切って廃止してくれても特段の不都合はないとも言える。

 そうとは言え、喪中葉書をお出し下さる方々とはおそらく律儀なのであろう。 亡くなられたご家族を心より弔いたいから故に決して“おめでとう”などの言葉を発する心境になれないのかもしれない。 あるいは、毎年年賀状のやり取りをしている関係において相手が「何で今年は年賀状が来ないのだろう?」と疑義を抱くことを避ける目的で、新年の挨拶を欠礼することを喪中葉書という形であらかじめ伝えておいた方が無難と意図されているのかもしれない。


 かく言う私も、今までの人生において一度だけ喪中葉書ならぬ“寒中見舞い”を出したことがある。
 それは我が父突然死の翌年の話なのだが、これは我が母の意向に従ってそのように対処した。 すなわちこちらからは年賀状は出さず、年が明けて賀状をいただいた方々に寒中見舞いという形で喪中の挨拶を申し上げたのだ。 ただし、血縁ではない我が身内の知り合いには私の考えで例年通り年賀状を作成して年内に投函した。(我が家では結婚以来ずっと身内の年賀状も私が一手に引き受けて毎年作成しています。) 上記のごとく、我が父と面識が無い方々に父の死を知らせる必然性は何もないからである。

 そんな私にとって一番困惑するのは“誰が亡くなったか分からない”喪中葉書である。 せっかく喪中を知らせて下さるならば、お身内のどなたが亡くなったのか位は明記して欲しい気もするのだ。 (ところが、これが喪中葉書の多数であるのが現状ですよね。)

 付け加えると、今までいただいた喪中葉書(寒中見舞い)の中で最もショックを受けたのはご本人の他界である。 一時お世話になったその方が闘病中であられたことは前年の年賀状で心得ていたのだが、その後一度もお見舞いにも伺わず、まさか他界されているとは露知らず不心得にも年賀状を投函してしまった私なのだ。 それを受けて1月中旬にご遺族である娘さんから、「母は昨年亡くなりました。生前はお世話になりましてありがとうございました。他界したことをお知らせできなかったことをお詫び申し上げます。」との直筆の寒中見舞いをいただいた時ほど原左都子にとって辛かったことはない。


 話題を変えよう。
 年賀状投函の時期(12月15日以降)を過ぎているにもかかわらず到着する喪中葉書ほど迷惑なことはない。
 こちらは既に年賀状を投函しているにもかかわらず、その後喪中葉書が届いてしまう経験がある方もおられると思うが、私もその経験者である。 これには心底困惑したものである。
 親しい間柄ならば電話(現在はメール)等で気軽にその旨伝えられるが、そのような間柄でない場合大変だ。 あちらとしてはおそらく「喪中葉書を出したのに、何でこの非常識者が年賀状を寄こすの??」と思うであろうことを想定して、やむなく“既に年賀状を投函してしまった失礼をお詫びする”趣旨の葉書を書いて投函し直したものである。 年末で多忙な時期にこの二重手間は大いに迷惑な話だ。
 喪中葉書を出す方は、どうか早めの投函をお願いしたいものである。 (身内に加えて田舎の母の年賀状まですべて請け負っている原左都子の場合、12月初頭よりパソコンで年賀状作成作業に入るため、11月中の到着をお願いしたいものである。)


 先だっての朝日新聞「声」欄には“喪中はがきも返事出したら”と題した記事が掲載されていたのだが、これを見て世の中には喪中葉書への返答を期待している人物も存在することを発見した。
 “年賀状という形でもいいから喪中の人を勇気付けて欲しい”との63歳女性である投書者の気持ちは少し分からなくはないが、それは他者の親切に期待し過ぎということではなかろうか?

 喪中葉書の本来の意味は、(喪中葉書投函者自身が)死者を弔うために新年の挨拶を欠礼するということにあろう。
 その喪中葉書をもらった立場としては、よほど親しい間柄でもない限り礼儀上まさか年賀状で“新年おめでとう”とは言えないものである。

 喪中にしてどうしても例年通り年頭に年賀状が欲しいのであれば、喪中葉書ではなく年が明けてからの“寒中見舞い”にしては如何か?
 そうすればいつも通り賑やかに年賀状は届くであろうし、その後したためた“寒中見舞い”に対して何かを感じた相手からは、心よりの勇気付けの反応も舞い込んでくることであろう。 
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