原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

嫌な人に会うと勉強になる。

2010年12月02日 | 自己実現
 ほぼ2日に1本のペースでエッセイを綴り、その我が「原左都子エッセイ集」が Google検索「エッセイ集」トップページ最上段の座を2年来キープし続けている素人“もの書き”の端くれである私が、昨日NHKテレビで放映された対談番組にゲスト出演した 林真理子氏 のトークを見逃すはずもない。

 昨日(12月1日)のNHKスタジオパークのゲストは、小説家・エッセイストの 林真理子氏であった。

 午後外出を予定していた私であるにもかかわらず、午後1時過ぎから見始めたこの番組のゲストである林氏のトークに引き寄せられ、最後まで集中して見入ってしまった。
 私は特段林真理子氏のファンという訳ではないのだが、年齢が近いことや高齢出産等の共通項がある。 そして何よりも“もの書き”を収入源として世に名を売っている人物のトークは今の原左都子には見逃せない思いである。
 番組冒頭よりやや不機嫌そうな雰囲気の林氏と私は捉えたのだが、これは後の本人の弁明によると「年を取ったせいで口角が下がったことによりそう見えるだけ」とのことのようだ。 一見不機嫌そうな表情から何気ないように発せられる言葉の一言一言に以外や以外重みがあり、的を射ていて面白いのだ。
 それらの言葉の節々が、私の生き様や人生観、そして現在「原左都子エッセイ集」を綴り続けている私の日常とダブる思いであった。 (真理子さん、たかが庶民ド素人“もの書き”が身の程知らずにこんなところで生意気な事を申す失礼を何卒お許し下さいますように。


 
 そんな林真理子氏と原左都子との共通項の幾つかをここで探ってみよう。


 まずは、エッセイの執筆頻度とその制作過程における両者の共通点を取り上げることにしよう。

 林氏のトークによると、氏は現在月刊誌、週刊誌の連載エッセイを6本抱えておられるようだ。 (小説家である林氏の場合、もちろんこれに加えて28年間に渡り何百本もの小説を出版されているのだが) これを頻度に換算するとほぼ2日に一本の割合でエッセイを綴っておられる計算になり、原左都子同様である。
 そして、林氏は原稿用紙ほぼ7枚半分の1本のエッセイを速い時には45分程で書き上げるそうだ。 原左都子の場合も1本のエッセイが現在約2500~3000字であるが、やはり同じく1時間足らずでバシャバシャとキーボード入力している。 ただ、私の場合は“一気打ち”した原稿を見直す(自ら校正し監修する)作業にむしろ時間を費やすため、結果として仕上げまでに2時間程を要している。

 エッセイ制作手段として原左都子が専らパソコンキーボード入力であるのに対し、林氏はあくまでも特注原稿用紙に愛用ペンによる手書きであるようだ。
 ところが林氏のその理由が、原左都子がキーボード入力を愛用している理由と一致しているところが興味深い。 林氏のトークによると「書き始めると一気に書き上げたい」「読むリズムと書くリズムを一致させたい」から原稿用紙を使用しておられるらしいのだ。(林氏の場合、手書きが相当速筆のご様子だ!)  まったく同様の理由で、時間がかかる手書きよりも(英文タイプ2級取得者でもある)私はブラインドタッチで一気に打ち込めるパソコン(ワープロ)キーボード入力に20代後半頃から親しんでおり、それを今後共是非共貫き通したいものである。  (30年来筆記をキーボードに頼っていると、手書きの場合の手が自ずとキーボードの速さになりとんでもない乱筆で重要書類作成時など困惑するのですが、皆さんは如何でしょう?)


 次の共通項は、林氏曰く“山を登り続けたい”との上昇志向にある。

 いえいえ、作家として既に成功をゲットされている林氏と比較したら、今後共あくまでも庶民の立場で生き続けることを志向している原左都子の範疇を超えない話なのだが、そんな私が今、何故に一銭にもならないエッセイを綴って日々ネット公開しているのかと言えば、それはまさに私なりの“上昇志向”故であるからに他ならない。
 林氏の場合、大学卒業後フリーター等で一時苦労した時期に、既に「私には才能があるはずだ!」との確信を内面に抱いておられたそうだ。  片や原左都子の場合、社会のスタートが医学専門職であり、自分がその世界に満足さえできれば一生安泰な環境にあったため、“ハングリー”などという言葉とは無縁の世界にいたはずなのだ。 それにもかかわらず、その後の我が人生が試行錯誤の連続であるのは、まさに林氏の“山を登り続けたい”との上昇志向に一致するとも言えるのである。
 林氏は言う。 「平地で生きている人達はそれなりにキャピキャピしつつ楽しそうだ。 一方、山を登り始めた人種は一生上り続けなければならない。」  そのレベルは違えどもまったく同感である。


 “もの書き”の話に戻ろう。 
 
 “もの書き”の情報収集における最大の共通項とは「人間観察」にあるのではなかろうかと、原左都子は日々捉えている。
 折りしもこの番組の聞き手であるNHKアナウンサーのこの種の質問に対し、林氏は「意識して人間観察をしている訳ではないが、小説を書く場合、登場人物の一人ひとりに自分が成り切ることも不可欠であり、普段から周囲の人物を自然と観察していることは確かだ」云々の返答をしておられた。

 日常生活における様々な人間との出会いや係わりがある中で、とりわけ “嫌な人に会うと勉強になる” との林氏が言葉が印象的だった私である。(それ故にこの言葉を今回の記事の表題とさせていただいたのだ。)
 まさに林氏のおっしゃる通りである。 日々エッセイを綴り続けることとはそのカテゴリーが何であれ、結局は日常の「人間観察」に尽きることを実感の連続である。 私の場合、林氏のごとく著名人ではないため日々多くの人に出会える訳ではないが、それでも日常の身近な人とのかかわりや新しい人との出会い、そしてメディアやネットを通してみる人間模様がエッセイを綴る最大のエネルギーとなっていることは明らかである。
 特に林氏がおっしゃるがごとく “嫌な人に会うと勉強になる” ことについては大いにガッテン!の私だ。 この毒舌エッセイブログである「原左都子エッセイ集」のほとんどの記事は“嫌な人に会ったり”メディア上等で垣間見たりして抱いた違和感や反発心を、エッセイとしてぶつけていると言っても過言ではないからだ。

  
 林真理子氏という作家は、おそらく受け手によって好き嫌いが激しく分かれる人物であるのかもしれない。
 それでも作家デビュー後28年が経過した今表現者としての確固たる地位を築き上げておられるのは、ご自身の作家としてそして一人の人間として日々積み上げて来られたバックグラウンドに基づいていることを、垣間見させていただけた昨日の対談番組だった。
 (林真理子さん、原左都子はあくまでも一般庶民の立場にありながら、最後まで失礼な物言いを致しました事を重ねてお詫び申し上げます。  )
 
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