原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

親が子どもを“いい学校”に入れたい心理

2010年04月17日 | 教育・学校
(写真は、朝日新聞4月15日朝刊広告ページより引用した 三田紀房氏作 漫画「ドラゴン桜」)


 前回の「原左都子エッセイ集」の記事 「いわゆる“有名大学”の真価を見極めよ。」 において、進学高校現場における“いわゆる有名大学”志向に傾斜した受験指導指針について現役高校生を持つ一保護者の立場より批判意見を展開した。
 その直後の15日、折りしもタイムリーに朝日新聞で上記の漫画に出くわした。

 この広告版「ドラゴン桜」は、子を持つ親世代こそが教育に悩み、その答を欲していることに着眼して、その親の悩みに応えるべくスタートさせた『40歳の教科書』とのプロジェクトであるようだ。 週ごとに教育に関する各種時事テーマが設定され、複数の有名人が持論を述べる談話が掲載されるという構成となっている。 


 広告版「ドラゴン桜」は新聞の一面全面をキャンバスとしているのだが、新聞の当該ページをめくった途端、ド迫力!で上記の漫画が迫ってくるのだ。

 写真が不明瞭であるため、ここで登場人物のセリフを紹介しよう。
   受験生の母  「はやいうちにいい学校に入ればあなたがラクできるのよ」
   受験生本人  「行く学校くらい自分で決めるよ」
   受験生の両親 「私たちはあなたに幸せになってもらいたいのよ」
   作家の三田氏 「その受験で幸せになるのは子どもじゃなくてあんたたちだろ!!」

 (参考のため、今回のシリーズは子どもの私立中学受験を主眼としているようである。)

 いや~~、三田さん、よく言って下さった! の思いの原左都子である。 この“ド迫力”漫画に遭遇して、前回の記事より引きずっている我が“わだかまりの悶々とした思い”を一気に炸裂させてもらえた感覚である。


 さて、申し訳ないがここでは記事内に掲載されている“有名人”の持論は割愛して、原左都子の私論のみを述べさせていただくこととしよう。

 今時の親達の心理を的確に捉えた三田氏の端的な表現が実に爽快である。
 現実的には、可愛い我が子に“いわゆる有名校”を目指させる親の心理に多様性があるのはもちろんの事であろう。
 それは承知の上として、この受験生の母親の論理が私にとっては何とも面白おかしい。 その論理の等式とは “ラクできること” イコール “幸せ” であるようだ。 (横で母親のその発言を聞いている父親もそれに同意している様子であるのが、今時の軟弱な父親像を彷彿とさせて何とも馬鹿馬鹿しく切なくも思えるのだが…)

 親達自身がそのような軟弱な道程を歩む歴史が過去にあったことは否めない事実であろう。
 前回の我がブログ記事でも取り上げたが、“いわゆる有名大学”に入りさえして、学問など二の次で4年間を適当に程ほどにやり過ごし取得単位だけをクリアして何とか卒業すれば、大学と経済界とのパイプや教授や先輩等の縁故により安定した就職先にありつけた時代は、なるほど過去において存在し得た。
 その成果としてこの漫画夫婦の場合、経済不況の現実下にあって尚我が子を私立中学へ進学させられる程度の経済力には今現在恵まれているのであろう。
 その部分のみ取り上げた場合、 “ラクできること” イコール “幸せ” の等式が確かに成り立つのかもしれない。

 ところが、この等式には落とし穴が存在するのだ。
 可愛い我が子に自分たちの過ぎ去りし過去の価値観を押し付けようとするこの両親の“見識の狭さ”自体が、既に墓穴を掘っている。

 親自身が“いい学校”に入ったことで“ラク”できたと喜んで安穏とするのではなく(あるいは自分が入れなかったから、せめて子どもにその夢を託そうとするのではなく)、せっかく入った大学(及び大学院)で科学学問に心底興味を持って励むべきだったのではなかったのだろうか。 
 ところが、バブル以前の時代に一部の民間企業の努力で創り上げた国際経済力の後ろ盾で有頂天になっていたこの国の国民の間で、その種の“ラク”がまかり通っていたのも事実である。 それが、バブル崩壊後から今現在に及ぶ国家の衰退を創り出しているとも推測できよう。


 科学学問とは没頭して励む程に必ずや面白くなるものである。 私自身の学業経験からそれを実感である。 
 学問に限らず人が自分の意思で志向した何事かに一旦没頭すると、“ラク”などしている時間がもったいなく感じるものである。 この経験が特に若い時期に欠かせないと私は捉える。 何かに没頭できる経験を若い時代に積んでおくと、将来に渡って自分の意図する方向性を明確にでき、かつ有効な時間の使い方を心得られるような気が私はする。

 少なくとも年端もいかない可愛い我が子を捉まえて “ラク”することが“幸せ” と伝える親とは、子どもの輝かしい未来の可能性を制限、否定しているとしか思えない。 
 今後世間に放り出される子ども達に待ち構えているのは、バブルで浮かれていた虚像世界を生きてきた親の世代には想像を絶する程の厳しい世の中である。  “ラク”して“幸せ”を摑もうなどとの思考には虚しさのみが漂う今の時代である。

 ここで前回に引き続きもう一度繰り返すが、親こそが心を鬼にして可愛い我が子の“真の未来”を見つめよう。  


 世は厳しい就職難の時代である。 これから世間に出る若者には荒波の現実社会が待ち構えている。
 現在の大卒者の就職の実態についてその詳細の内部事情をわきまえていない原左都子であるが、厳しさの中にもまだ“縁故”がまかり通っているのであろうか???
 
 たとえそうだとしても、親こそが“ラク”できた時代から脱却して今の時代の現実を直視して努力を怠らず、可愛い我が子には是非共その子なりの適性や興味に応じた分野の“実力”を磨かせよう。
 “ラク”せずして自らの意思で築き上げた“実力”とは、必ずや自分の人生をあらゆる方面から長年に渡って豊かにしてくれる一番の素材かつエネルギー源であると私は信じ、下手ながら今尚したたかにこの世を生きつつある。
       
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いわゆる“有名大学”の真価を見極めよ。

2010年04月14日 | 教育・学校
 一昨日、この春高2になった我が子が、通っている私立高校から昨年度卒業生の進路状況(大学等進学実績一覧)表と学校の進路指導指針のレジメを持ち帰ってきた。

 これらの資料を一読して、いつもながらではあるが一種の“違和感”“不快感”と「まだこんな陳腐なランク付けにこだわってるの??…」との“失望感”と共に、頭を痛めてしまった大学受験高校生の子どもを持つ一保護者の原左都子である。

 なぜならば、資料のまとめ方や学校の進路指導の指針がこの期に及んで尚、旧態依然とした“いわゆる有名大学”志向を脱出できていないためである。
 今時の高校が時代の流れに沿わないこの種の“有名大学志向”の進路指導指針を表明せざるを得ない実態に関しては、高校教員経験がある私にはある程度理解可能ではある。

 高校(特に私立高校)の場合、今尚「大学進学実績」こそが世間に公表される高校のランク付けの最たる指針となっているため、今後の生徒募集を確実にするためにはこのような進路指導指針とならざるを得ないのであろう。 市販されている学校案内をはじめ予備校や週刊誌等よりの公表による世に出回っている学校のランク付けとは、何故か必ずや卒業生の「大学進学実績」で点数化されているのである。

 それも卒業生の合格先大学の掲載順位までが、如何なる理念的背景の基準に拠るのかはまったく不明であるが、すべてにおいて統一されている。
 その“大学ランク付け基準”をここで述べると、まず最上位に国公立大学が位置している。 そしてその次が「難関私立大学」と称して早慶、上智、その他旧東京六大学の一部等やその他が位置している。(関西以西地方は多少異なるのかもしれないが。) その次のランクとしてはMARCH何タラとの“中堅”私立大学と“老舗”の女子大学が位置し、別格として私立医歯学大学が存在している実態である。 
 一応ここまでが「有名大学」“とやら”の範囲であるようで、その他の大学は“雑魚”扱いで下部に一覧記載されている。

 
 国公立大学(及び大学院)出身である原左都子にとっては、このランク付けはそう悪い気はしない、というのが正直なところではある。 (我が身息災でスミマセン…

 ところが、我が子が志願している大学は一般的に考察するとどうやら“特殊”と表現するべき分野であるため(個人情報色が強いためここでは具体的には申し上げられないが)、上記の“いわゆる有名大学”には全く位置しない様子なのである。(その専門性の高さにより、入学前の準備に一般大学に比して数倍もの努力と時間とお金を要するにもかかわらず…)   我が子が通学している高校からも、「そういう特殊な要望にはお応えしにくいところがある…」云々との回答を既にいただいているが、そう言われる以前より家庭で専門予備校に通わせる等の受験対応をしているため何ら問題ないとも言えるのだが…。


 一保護者としてどうしても引っかかるのは、何故に未だに高校のランキングを旧態依然とした「有名大学進学実績」のみに頼っているのかというところである。
 この実態がまかり通っている以上、特に進学高校における高校教育が“有名大学進学”(その“有名大学”の実態とは、信憑性が至って乏しい旧来よりの“形骸化している有名大学”)志向に偏向せざるを得ない現状である。
 高校の進学担当の先生達の心理も理解できる。 とにかく生徒を“いわゆる有名大学”に進学させて、どの大学に何人入れた!と数のみ宣言すれば、その場限りでの“自分の首がつながる”という話であるしね…  その後、生徒の人生がどう転ぼうと高校の先生には何の責任もないことだし…


 ここでこの国の大学が置かれている現状を少し考察してみよう。
 バブル崩壊後の長引く経済低迷に拍車をかけた一昨年の世界的な経済危機の影響を、雇用分野における大卒者をはじめとする若い世代の人々が大いに被っている現状を知らぬ国民は皆無であろう。
 “いわゆる有名大学”を卒業したからというそれだけの理由で若者の先々の生活が安定する等の夢物語が、虚しくも既に過去のノスタルジーと消え去っていることは若者本人とて既に実感済であろう。
 そうならぬように応えるべく大学側も自己の存続にかけて切磋琢磨している様子は報道で伝わってはいるが、学生に早くから就職活動を強要するべく大学とは、一体如何なる学問的理念を背景に抱いているのやら??


 高校には「有名大学進学実績」のみではない“生徒の真に明るい未来”に視点を移して欲しい思いであるが、何十年来続いている“いわゆる有名大学”志向が高校現場においてこれ程に定着している現状の下、その改革は容易なことではないのであろう。

 そこで目覚めるべきは、やはり親でしかないのだ。
 不況のどん底にある今の時代において目先の大学のブランドにこだわるよりも、親が子どもに伝えるべき事は、これ程に不確実性が高い世を強く生き抜くべく“真の実力”を育くんでいくことであろう。 どこの大学に入るか、ではなく、何を生きがいとして生きていくかの確固たる方向性を子ども本人が見定められるように、早期から導くべきであろう。
 遠い昔に父が出た、母が出た“いわゆる有名大学”でいい思いをした時代は既に過ぎ去りし幻の物語でしかないのである。
 我が子に親の“過去の栄光”を再現させたい気持ちを全面的に否定はしないが、それに加えて強く生き抜く力を我が子に教え込むバイタリティこそが、今現在の親に必須の厳しい時代であると原左都子は心得るのだ。

 ここは心を鬼にして学校の言いなりにはならずに、我が子の“真の未来”を見据えよう! 
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“親の七光り”はやっぱり損だよ

2010年04月11日 | 自己実現
 4月5日(月)朝日新聞夕刊の芸術コーナー“Jump”に於いて、原左都子にとってある種の意味で興味深い2本の記事が偶然上下して掲載されていた。


 その上段の方の1本は、映画監督 安藤モモ子氏(28歳)の映画監督としての活動に関する記事であった。
 記事の内容を原左都子風にアレンジしつつ以下に紹介してみよう。
 映画監督の安藤モモ子氏とは、俳優で監督の奥田英二氏とエッセイストの安藤和津氏の間に生まれたバリバリの芸能家二世である。
 このモモ子氏が欧米の大学で映画作り等を学んで帰国した後に、父である奥田氏の映画作りを手伝ったことがきっかけとなり映画監督への道につながった。助監督として修行後監督デビュー作を発表し、この作品がロンドンやパリの映画祭で高く評価された。 資金繰りがうまく行かず一度頓挫しかかったが、祖母が準備した資金や父の会社に政策を頼んで乗り切った。 本人曰く 「“親の七光り”と言われてもいいから、とにかくこの映画を作りたかった」

 片や、下段の方の記事は私の一趣味のバレエの話題である“新国立劇場「アンナ・カレーニナ」の日本初演に関しての記事であった。
 日本初公演である上記演目の主役3人を、初日にはロシアのゲストダンサーが、そして2日目には日本人ダンサーが踊ったのだが、両者の表現の質が全く異なり興味深かったとのことである。 今回は大胆なリフト等の激しく躍動的な動きが多用された振り付けだったそうだが、日本のダンサーもその激しい動きをよく体得して完成度が高い舞台だったらしい。 その上で、2日目の日本人チームは群舞と調和し、動きの行間に悲哀が立ち昇り物語の流れとなじんでいた、これは日本的な文学性や舞踊の美意識にかなっているためであろう、との記述である。

 上記2本の記事を立て続けに読んだ私であるが、実際に観てみたかったと思えるのは、言わずと知れているが下段のバレエ「アンナ・カレーニナ」の舞台の方である。
 これはもちろん、元々私にはバレエ観賞の趣味があるため、という理由が大きい。


 ただ、安藤モモ子氏には申し訳ないのだが、「二世」の情報を得ただけで“またかよ…”との惰性感と多少の“失望感”がどうしても私の脳裏に漂ってしまうのである。

 「原左都子エッセイ集」のバックナンバー「“親の七光り”の真価」においても既述済みであるが、 「二世」の立場で世に名を売ろうとしているにもかかわらず “親の七光り” だと世間から後ろ指をさされることをシャットアウトしようとする心理には自己矛盾が内在することは明白である。 当初より「二世」であることを隠しおおして実力のみで勝負するという選択肢もあったはずだ。 にもかかわらず如何なる分野であれ「二世」を全面に出してデビューした以上は、ご二世であられる本人の実力の真価に対する世間よりの評価がぐらつくこともその道のプロとして視野に入れておくべきであろう。

 今回のモモ子氏の場合、自ら“親の七光り”と言われていいと宣言しつつ、資金面でも製作面でも自分の活動において「二世」であることをフル活用している様子だ。
 モモ子氏未だ28歳という年齢でもあるし、まだまだ無邪気な「二世」の言動として許されるのかもしれない。


 その上で多少気に掛かるのは、モモ子氏が若くして映画監督としてデビューした点である。  そう言えば、上記の我がブログのバックナンバー「“親の七光り”の真価」で取り上げさせたいただいた蜷川実夏氏も元々写真家でありながら、映画監督としてその名を売る手段に出たようであった。
 映画監督とは、「二世」にとっては容易に名を売り易い職種であるのだろうか??

 上記の朝日新聞記事内でのモモ子氏本人の言及によると、2人の主演女優に対して「顔に脂を足して」「ムダ毛を伸ばして」等々、色々と注文をしたらしいのだ。 これはモモ子氏が“奥田の娘”だったからこそ撮影現場で通用した話ではないのか? もしも出演者にとっての相手が無名の若手映画監督だったとしたら、果たしてそれに役者が付き合ってくれたのかどうか?? 
 (いえいえ、映画世界の内情を何らも心得ていない原左都子が失礼な言及をしましたことを何卒お許し下さいますように…)


 バレエ観賞の趣味がある私は、一つのバレエの舞台を創り上げるために、出演者側も舞台監督を筆頭としたすべてのスタッフ側もが、何ヶ月にも及ぶ総力戦で闘っている内情をある程度この目で見て心得ている。
 おそらくバレエ界とは、どなたかの有名人の「二世」が突然登場して監督をすると言い出しても到底通用しそうもない程の厳しい実力世界である。 それだからこそ、バレエの舞台とは研ぎ澄まされていて、何世紀にも渡って素晴らしい芸術性を保ち続けられるのだと私は信じている。


 話を朝日新聞の安藤モモ子氏の記事に戻すが、今回の映画監督経験がモモ子氏にとって大いにプラスになったようで何よりである。 モモ子氏は今後も映画監督としての道を究めようとしておられるのであろうか?
 そうだとするならば、まだまだお若い事であるし、先々の“真”の成功をゲットするためにその親譲りの“美貌”を活かして一時俳優業も経験してみるといいかもしれないなあ、などと老婆心ながら考えたりもする。
 
 ただ、この国の政界の失策や国際経済力の急激な弱体化も含めて、世の「二世」全般に対する世間の認識が以前にも増して厳しくなっていることも、同時に忠告させていただくことにしよう。
                
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私利私欲で新党立ち上げ、一体何を目指す?

2010年04月08日 | 時事論評
 今回の記事は、「原左都子エッセイ集」における数本前の記事 「新党作っていいとは思うが…」 の続編として綴らせていただこう。

 上記のバックナンバー記事において原左都子はその私論として、“政治とカネ”問題を筆頭に新政権の昨夏以降の度重なる失策に伴い無政府状態と化したと表現して過言でないこの国の現状において、夏の参院選を狙い「新党」が結成乱立すること自体に関してはやむを得ないと捉えるが、それには条件がある旨の記事を綴らせていただいている。


 3月中旬の鳩山(弟)氏の自民党離党を皮切りに、4月に入ってからは元財務相の与謝野氏が自民党を離党して元経済産業相の平沼氏と共に新党を結成することとなった。 この新党には、自民党前幹事長代理の園田氏と参院議員の藤井氏も自民党を離党して合流した模様である。

 さらには本日のNHK昼のニュースによると、東京都杉並区長の山田宏氏が前横浜市長の中田宏氏らと共に、早ければ月内にも新党を結成するとの報道である。 この新党に大阪府知事の橋下氏も加わる予定とのことだ。 
 山田氏らは昨年10月に政治団体「よい国つくろう!日本志民会議」を設立している。この時点で既に「新党」を結成していずれ国政に臨むであろうことは一部の国民の間で噂されていた。

 
 朝日新聞は4月6日の夕刊において、特に自民党を離党して「新党」を結成する諸氏の動きを「竜馬かぶれ」と表現し批判している。
 その記事の一部を以下にピックアップして要約してみよう。
 今年のNHK大河ドラマの坂本竜馬に自らを重ね合わせる政治家が最近目立つ。 新党を立ち上げたり、自民党を離党したりして、夏の参院選を前に混迷する政治情勢を打破する意気込みだが、「竜馬かぶれ」が過ぎないか。 自らを竜馬であると表現して与謝野氏と舛添氏を新党結成に誘い込んだ鳩山(弟)氏であったが、結局与謝野氏はこの鳩山(弟)氏の誘いを拒否して平沼氏との新党結成に動いた。 一足先に昨年8月「みんなの党」を結成した渡辺喜美氏も自らが竜馬であることを訴え維新開国を目指して「倒幕」をうたいつつ、与謝野氏新党を「へんちくりんな新党」と評して対抗心を燃やしている。 他にも地方を含めて竜馬を目標として掲げる政治家は多い。 不安定な時代に竜馬は特に好まれるらしい。  そんな中、高知県立坂本竜馬記念館の館長は話す。「竜馬の(政治家としての優れたところは多々あれど)その原点は私心がないこと。竜馬を名乗られる方は、そこを間違わないようにして欲しい。」


 私論に入ろう。

 まずは、この期に及んでの自民党内の混乱状態を嘆かわしく思う側面から論評させていただくことにしよう。
 自民党は、混沌としている内情の醜態をこれ程までに国民の前で晒すしか身の振り方がない程落ちぶれてしまっているのか?
 昨年夏の衆院選で民主党に大敗した後、自民党は何をなすべきだったのか。 もちろん、野党第一党として新政権の失策を叩きのめす役割は重々担って欲しいと、民主党支持派ではない私は大いに期待している。 ただし、その裏で、自民党が国民に支持される政党として出直すべく意思を明確にして、過去半世紀にも渡る“国民なき国政”への反省と共に、再度真に国政を担える政権として立ち直る努力を今こそ一致団結して執り行っているのかと思いきや…  
 この混乱ぶりは、谷垣自民党総裁の指導力不足なのか? あるいは、党内の分裂状態は短期間では修復不能な程に歪み切っているのか??
 しかも、離党を目指さず残留している自民党のトップ層が、相も変わらず“名のみで実力不明の有名人”を参院選候補として擁立しようと性懲りもなく醜態を晒している現状… 

 与謝野新党に話題を変えるが、この新党の命名が 「たちあがれ日本」 であるらしいのが何とも辛い思いである…
 大変失礼ではあるが、新党の要の与謝野氏が71歳、平沼氏は70歳… このご高齢で、国際競争力を完全に失ってアジアの他国にまで経済面で先行されてしまい、政治面でも無政府状態のごとく混沌としている日本を 「たちあげる」 バイタリティをお持ちなのかどうか…

 鳩山(弟)氏に至っては、新党立ち上げの趣旨が、鳩山(兄)氏が現行“お飾り総理”を勤めている新政権への“迎合”であるとの報道であるし…

 そもそもこれらの人達は、自民党をここまで成り下がらせた張本人達ではないのか? それを、自分達こそが自民党内での犠牲者であるがごとく「自民党を見限った」だの「自民党が変わらないなら辞める」だの、身勝手も甚だしい。 端で見ている一国民としては “おまえらが自民党を落ちぶれさせたんだろ、ならばその責任を取って自民党を立て直す事に精進しろよ!” と言いたくもなる。 自民党内で力が発揮できない輩に新党の幹部の力量があるはずもない。

 そして私論として実は一番不気味なのが、東京都杉並区長の山田宏氏らが立ち上げようとしている新党である。 (なぜ不気味であるかの理由は、山田氏の政治的思想が我が国の歴史的背景の認識において私論とは全く相容れないと捉えていることによるのだが、その詳細はまたの機会に述べることとしてここでは割愛させていただくこととする…)


 悲しいかな、どれ程時代が移り行こうとも、また政治的思想の如何にかかわらず、この世に私利私欲目的以外で国会議員を目指す人物が存在するのであろうかとの命題が永遠に残るのかもしれない。

 ただ、人それぞれの原風景において、私利私欲などとは無関係の純粋な時期も必ずやあったはずと私は信じる。
 ところが人間という生命体が社会という共同体の中でその生を全うしようとする以上、私利私欲概念からは解放され得ないことが否定できない定めであり、その最たる存在が政治家なのであろうか。

 それでも尚、私利私欲を最小限に留めるべく努力する政治家の出現を国民は待ち望んでいることであろうし、竜馬のごとく私心なき政治家の信念こそが国民の心に滲み入るのだろうと私は思うのである。 
        
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男に翻弄される人生の行く末

2010年04月03日 | 恋愛・男女関係
 今の世の中には、結婚相手の選択に当たって複数の対象者を量りにかけて、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な ?」 と商品を選ぶがごとくの感覚で決めようとする人種も存在するようだ。


 2週間前の朝日新聞の記事になるが、3月20日(土)別刷「be」の“悩みのるつぼ”の相談は、45歳バツイチ女性による 「再婚するならA、Bどっち?」 であった。
 早速この相談を以下に要約して紹介しよう。

 現在付き合っている彼が2人いてどちらかと結婚したいが、選ぶことができないでいる。 2人をA、Bとすると、メーンはA。 Bは元彼で私にAという存在の男がいることを承知の上で付き合ってくれている。 Aは頼りがいがあり仕事上でも尊敬されていて結婚相手としては申し分ないが、肝心な「好き」という気持ちが少ない。少しEDの気もあり抱かれたいという気持ちがあまり持てず時々しか関係を持たない。 逆にBは五つ年下で夫にするには不安な面が多々あるが、とにかく「好き」で、会いたい、抱かれたい相手である。 来年、私の息子が結婚するのを機に結婚して新たな人生を歩み出したいのだが、肝心の相手が決められないでいる。無いものねだりだろうか?  結婚せずに二股でダラダラ付き合っていくつもりはなくキチンとしたい。 こんなわがままな私は2人共別れて1人になって考えた方がいいのか?


 私論に入ろう。

 相談の文面の中の “結婚せずに二股でダラダラ付き合っていくつもりはなくキチンとしたい” のくだりが大いに気にかかる原左都子である。

 この辺の自身の心理に関して相談者ご本人は「我がまま」と自己評価しておられるようだが、私がこの相談を読む限り、「我がまま」と言うよりは失礼ながら 「軽薄」 「思慮不足」 と表現した方が正しいのではないかとの感想を抱く。
 相談女性が再婚願望が強いことは相談から重々理解できるが、この女性の再婚の“目的”が何処にあるのかが把握し難い。  経済的安定であるのか?  「抱かれる」すなわち“SEX”の保障を日々得たいのか?  あるいは息子が結婚して独り身になる“寂しさ”を再婚により紛らそうとしているのか? 
 ご本人がおっしゃるところの “キチンとしたい” とは、一体全体何を持って“キチンとする”べく整合性を取ろうとの思想をお持ちなのだろうか。 もしや「結婚」という結論 イコール “キチンとする”ことなどとの図式を描いているとするならば、この世を45年も生きて来ている人間が導いた結論だとは到底信じ難いのだが…

 こういう相談を目にさせられると、再婚選択者が再婚を何度も繰り返す傾向にあるという定説が理解できる気もする。 
 そこには「結婚」に対する確固としたポリシーが微塵も感じ取れないのだ。 自己中心的な観点から、法的に手厚く保護される「結婚」というバックアップによって“キチンと”できるがごとく自身を正当化しようとしているに他ならない。  その再婚に巻き込まれる当事者である結婚相手や息子さん等、周囲への責任や配慮や自分を取り巻く諸環境への客観視がまるで抜け去っているのだ。


 そこまで厳しい考察をして尚、原左都子はこの相談者が男に関して自己中心的であっていいとも思える。 
 ただし相談者が今後も自己中心を貫くためには、新聞の相談コーナーに投稿して見識者の回答を仰ごうとする以前に、息子さんが結婚により旅立った後の自身の独り身における人生設計を、今一度冷静に手探りする作業を行ってみる事が先決問題であろう。 「再婚」願望にがんじがらめにならずに、とりあえずは息子さん不在の後にご自身が目指すべく未来を見つめ直してみると、自ずと結論が導き出されてくるのかもしれない。
 息子さん自立の後に何年間か母としての“喪失感”を身に滲みて経験した後に、少し時間をかけてご自身の「再婚」の本心を再考しても少しも遅くはないし、よりよい結論が導かれるのではなかろうか。

 もしも“そんな後まで再婚を待てない”と相談者がおっしゃるとするならば、相談者の「再婚」の意図とは、単に自身の“寂しさ”を紛らす目的だとの結論が自ずと導かれて来る。
 要するに相談者は自分が付き合っているA氏、B氏の特徴を相談において上げ連ねたにもかかわらず、本人も認識していない深層心理の真意とは、自己の心と体の“寂しさ”解消目的故の「再婚」の魂胆であったという結論に達しそうである。
 そう考察した上で相談の回答を導くならば、結局再婚相手はA氏でもB氏でも他の誰氏でもいいという結論に達するのではなかろうか。

 今回の“悩みのるつぼ”の回答者でいらっしゃる評論家の岡田斗司夫氏も述べておられるが、この相談女性にとっての今後の再婚のキーポイントは、母として今まで心身共に心の支えであった息子さんの自立による“喪失感”であろうことは、原左都子も同感である。


 ただし岡田氏の回答と私論が大いに食い違うところは、45歳とは高齢であるから今後“モテぢから”が減るとの回答部分である。
 岡田氏の論理によると、この相談女性は既に45歳であるが故にもう今までのようには男にモテないだろうから、今後は男性以外からも幸せをもらえるように自分で幸せを見つけるべきだとあるのだが、 岡田さん、この発言は高齢女性に対する大いなる認識不足であり侮辱ではないですか~~?

 私論は、この相談女性が「結婚」という法的形態を選択するか否かの如何にかかわらず今後も男性に翻弄されつつ生きたいのであれば、それは本人の勝手ではないかと考察する。(ただし上記の私論の通り、あくまでも自己責任の範疇の下でご自由にどうぞとの話であるが。)

 45歳なんて、まだまだ“女盛り”である。
 岡田氏はどうやら若い世代の評論家先生とお見受けするが、高齢者女性は男女関係においてもう先が無いがごとくの回答をメジャー新聞で平然と公表することで、女性が年老いて尚“女”として男とかかわる事をナンセンスとするような歪んだ認識は撤回して欲しい思いである。
 (高齢女性の“女”としての存在要素を否定する男など、ご自身の来たるべく老後において女に捨て去られる運命にあることをここで警告しておきましょうかね!) 
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