(写真は、朝日新聞4月15日朝刊広告ページより引用した 三田紀房氏作 漫画「ドラゴン桜」)
前回の「原左都子エッセイ集」の記事 「いわゆる“有名大学”の真価を見極めよ。」 において、進学高校現場における“いわゆる有名大学”志向に傾斜した受験指導指針について現役高校生を持つ一保護者の立場より批判意見を展開した。
その直後の15日、折りしもタイムリーに朝日新聞で上記の漫画に出くわした。
この広告版「ドラゴン桜」は、子を持つ親世代こそが教育に悩み、その答を欲していることに着眼して、その親の悩みに応えるべくスタートさせた『40歳の教科書』とのプロジェクトであるようだ。 週ごとに教育に関する各種時事テーマが設定され、複数の有名人が持論を述べる談話が掲載されるという構成となっている。
広告版「ドラゴン桜」は新聞の一面全面をキャンバスとしているのだが、新聞の当該ページをめくった途端、ド迫力!で上記の漫画が迫ってくるのだ。
写真が不明瞭であるため、ここで登場人物のセリフを紹介しよう。
受験生の母 「はやいうちにいい学校に入ればあなたがラクできるのよ」
受験生本人 「行く学校くらい自分で決めるよ」
受験生の両親 「私たちはあなたに幸せになってもらいたいのよ」
作家の三田氏 「その受験で幸せになるのは子どもじゃなくてあんたたちだろ!!」
(参考のため、今回のシリーズは子どもの私立中学受験を主眼としているようである。)
いや~~、三田さん、よく言って下さった! の思いの原左都子である。 この“ド迫力”漫画に遭遇して、前回の記事より引きずっている我が“わだかまりの悶々とした思い”を一気に炸裂させてもらえた感覚である。
さて、申し訳ないがここでは記事内に掲載されている“有名人”の持論は割愛して、原左都子の私論のみを述べさせていただくこととしよう。
今時の親達の心理を的確に捉えた三田氏の端的な表現が実に爽快である。
現実的には、可愛い我が子に“いわゆる有名校”を目指させる親の心理に多様性があるのはもちろんの事であろう。
それは承知の上として、この受験生の母親の論理が私にとっては何とも面白おかしい。 その論理の等式とは “ラクできること” イコール “幸せ” であるようだ。 (横で母親のその発言を聞いている父親もそれに同意している様子であるのが、今時の軟弱な父親像を彷彿とさせて何とも馬鹿馬鹿しく切なくも思えるのだが…)
親達自身がそのような軟弱な道程を歩む歴史が過去にあったことは否めない事実であろう。
前回の我がブログ記事でも取り上げたが、“いわゆる有名大学”に入りさえして、学問など二の次で4年間を適当に程ほどにやり過ごし取得単位だけをクリアして何とか卒業すれば、大学と経済界とのパイプや教授や先輩等の縁故により安定した就職先にありつけた時代は、なるほど過去において存在し得た。
その成果としてこの漫画夫婦の場合、経済不況の現実下にあって尚我が子を私立中学へ進学させられる程度の経済力には今現在恵まれているのであろう。
その部分のみ取り上げた場合、 “ラクできること” イコール “幸せ” の等式が確かに成り立つのかもしれない。
ところが、この等式には落とし穴が存在するのだ。
可愛い我が子に自分たちの過ぎ去りし過去の価値観を押し付けようとするこの両親の“見識の狭さ”自体が、既に墓穴を掘っている。
親自身が“いい学校”に入ったことで“ラク”できたと喜んで安穏とするのではなく(あるいは自分が入れなかったから、せめて子どもにその夢を託そうとするのではなく)、せっかく入った大学(及び大学院)で科学学問に心底興味を持って励むべきだったのではなかったのだろうか。
ところが、バブル以前の時代に一部の民間企業の努力で創り上げた国際経済力の後ろ盾で有頂天になっていたこの国の国民の間で、その種の“ラク”がまかり通っていたのも事実である。 それが、バブル崩壊後から今現在に及ぶ国家の衰退を創り出しているとも推測できよう。
科学学問とは没頭して励む程に必ずや面白くなるものである。 私自身の学業経験からそれを実感である。
学問に限らず人が自分の意思で志向した何事かに一旦没頭すると、“ラク”などしている時間がもったいなく感じるものである。 この経験が特に若い時期に欠かせないと私は捉える。 何かに没頭できる経験を若い時代に積んでおくと、将来に渡って自分の意図する方向性を明確にでき、かつ有効な時間の使い方を心得られるような気が私はする。
少なくとも年端もいかない可愛い我が子を捉まえて “ラク”することが“幸せ” と伝える親とは、子どもの輝かしい未来の可能性を制限、否定しているとしか思えない。
今後世間に放り出される子ども達に待ち構えているのは、バブルで浮かれていた虚像世界を生きてきた親の世代には想像を絶する程の厳しい世の中である。 “ラク”して“幸せ”を摑もうなどとの思考には虚しさのみが漂う今の時代である。
ここで前回に引き続きもう一度繰り返すが、親こそが心を鬼にして可愛い我が子の“真の未来”を見つめよう。
世は厳しい就職難の時代である。 これから世間に出る若者には荒波の現実社会が待ち構えている。
現在の大卒者の就職の実態についてその詳細の内部事情をわきまえていない原左都子であるが、厳しさの中にもまだ“縁故”がまかり通っているのであろうか???
たとえそうだとしても、親こそが“ラク”できた時代から脱却して今の時代の現実を直視して努力を怠らず、可愛い我が子には是非共その子なりの適性や興味に応じた分野の“実力”を磨かせよう。
“ラク”せずして自らの意思で築き上げた“実力”とは、必ずや自分の人生をあらゆる方面から長年に渡って豊かにしてくれる一番の素材かつエネルギー源であると私は信じ、下手ながら今尚したたかにこの世を生きつつある。
前回の「原左都子エッセイ集」の記事 「いわゆる“有名大学”の真価を見極めよ。」 において、進学高校現場における“いわゆる有名大学”志向に傾斜した受験指導指針について現役高校生を持つ一保護者の立場より批判意見を展開した。
その直後の15日、折りしもタイムリーに朝日新聞で上記の漫画に出くわした。
この広告版「ドラゴン桜」は、子を持つ親世代こそが教育に悩み、その答を欲していることに着眼して、その親の悩みに応えるべくスタートさせた『40歳の教科書』とのプロジェクトであるようだ。 週ごとに教育に関する各種時事テーマが設定され、複数の有名人が持論を述べる談話が掲載されるという構成となっている。
広告版「ドラゴン桜」は新聞の一面全面をキャンバスとしているのだが、新聞の当該ページをめくった途端、ド迫力!で上記の漫画が迫ってくるのだ。
写真が不明瞭であるため、ここで登場人物のセリフを紹介しよう。
受験生の母 「はやいうちにいい学校に入ればあなたがラクできるのよ」
受験生本人 「行く学校くらい自分で決めるよ」
受験生の両親 「私たちはあなたに幸せになってもらいたいのよ」
作家の三田氏 「その受験で幸せになるのは子どもじゃなくてあんたたちだろ!!」
(参考のため、今回のシリーズは子どもの私立中学受験を主眼としているようである。)
いや~~、三田さん、よく言って下さった! の思いの原左都子である。 この“ド迫力”漫画に遭遇して、前回の記事より引きずっている我が“わだかまりの悶々とした思い”を一気に炸裂させてもらえた感覚である。
さて、申し訳ないがここでは記事内に掲載されている“有名人”の持論は割愛して、原左都子の私論のみを述べさせていただくこととしよう。
今時の親達の心理を的確に捉えた三田氏の端的な表現が実に爽快である。
現実的には、可愛い我が子に“いわゆる有名校”を目指させる親の心理に多様性があるのはもちろんの事であろう。
それは承知の上として、この受験生の母親の論理が私にとっては何とも面白おかしい。 その論理の等式とは “ラクできること” イコール “幸せ” であるようだ。 (横で母親のその発言を聞いている父親もそれに同意している様子であるのが、今時の軟弱な父親像を彷彿とさせて何とも馬鹿馬鹿しく切なくも思えるのだが…)
親達自身がそのような軟弱な道程を歩む歴史が過去にあったことは否めない事実であろう。
前回の我がブログ記事でも取り上げたが、“いわゆる有名大学”に入りさえして、学問など二の次で4年間を適当に程ほどにやり過ごし取得単位だけをクリアして何とか卒業すれば、大学と経済界とのパイプや教授や先輩等の縁故により安定した就職先にありつけた時代は、なるほど過去において存在し得た。
その成果としてこの漫画夫婦の場合、経済不況の現実下にあって尚我が子を私立中学へ進学させられる程度の経済力には今現在恵まれているのであろう。
その部分のみ取り上げた場合、 “ラクできること” イコール “幸せ” の等式が確かに成り立つのかもしれない。
ところが、この等式には落とし穴が存在するのだ。
可愛い我が子に自分たちの過ぎ去りし過去の価値観を押し付けようとするこの両親の“見識の狭さ”自体が、既に墓穴を掘っている。
親自身が“いい学校”に入ったことで“ラク”できたと喜んで安穏とするのではなく(あるいは自分が入れなかったから、せめて子どもにその夢を託そうとするのではなく)、せっかく入った大学(及び大学院)で科学学問に心底興味を持って励むべきだったのではなかったのだろうか。
ところが、バブル以前の時代に一部の民間企業の努力で創り上げた国際経済力の後ろ盾で有頂天になっていたこの国の国民の間で、その種の“ラク”がまかり通っていたのも事実である。 それが、バブル崩壊後から今現在に及ぶ国家の衰退を創り出しているとも推測できよう。
科学学問とは没頭して励む程に必ずや面白くなるものである。 私自身の学業経験からそれを実感である。
学問に限らず人が自分の意思で志向した何事かに一旦没頭すると、“ラク”などしている時間がもったいなく感じるものである。 この経験が特に若い時期に欠かせないと私は捉える。 何かに没頭できる経験を若い時代に積んでおくと、将来に渡って自分の意図する方向性を明確にでき、かつ有効な時間の使い方を心得られるような気が私はする。
少なくとも年端もいかない可愛い我が子を捉まえて “ラク”することが“幸せ” と伝える親とは、子どもの輝かしい未来の可能性を制限、否定しているとしか思えない。
今後世間に放り出される子ども達に待ち構えているのは、バブルで浮かれていた虚像世界を生きてきた親の世代には想像を絶する程の厳しい世の中である。 “ラク”して“幸せ”を摑もうなどとの思考には虚しさのみが漂う今の時代である。
ここで前回に引き続きもう一度繰り返すが、親こそが心を鬼にして可愛い我が子の“真の未来”を見つめよう。
世は厳しい就職難の時代である。 これから世間に出る若者には荒波の現実社会が待ち構えている。
現在の大卒者の就職の実態についてその詳細の内部事情をわきまえていない原左都子であるが、厳しさの中にもまだ“縁故”がまかり通っているのであろうか???
たとえそうだとしても、親こそが“ラク”できた時代から脱却して今の時代の現実を直視して努力を怠らず、可愛い我が子には是非共その子なりの適性や興味に応じた分野の“実力”を磨かせよう。
“ラク”せずして自らの意思で築き上げた“実力”とは、必ずや自分の人生をあらゆる方面から長年に渡って豊かにしてくれる一番の素材かつエネルギー源であると私は信じ、下手ながら今尚したたかにこの世を生きつつある。