原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

元超エリート教授の性癖

2008年04月17日 | 時事論評
 昨日4月16日、東京高裁において、電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反の罪に問われていた元W大学大学院教授、植草一秀被告の控訴審判決公判が開かれた。

 植草被告の弁護側は一審判決を「予断や偏見で判断された」と批判し、「被害者の右後ろにいた被告が犯人と間違われた、真犯人は被害者の後ろにいた別の人物」であるとして無罪を主張していた。
 一方、検察側は「被害者らの証言は信用でき一審判決に誤りはない」と控訴棄却を求めていた。

 昨日の二審の裁判長は懲役4ヶ月の実刑とした一審東京地裁判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。
 一審は「被告を犯人だとする被害者や目撃者の証言は信用性が高い」などとして弁護側の無罪主張を退け、その上で「規範意識に相当問題があり、再犯の恐れも否定できない。被告の社会内での更正は期待できない。」と実刑判決を言い渡していた。

 植草被告は平成18年9月13日、京浜急行車内で、制服姿の女子高生のスカート内に手を入れるなどの痴漢行為をした、とのことである。

 
 私事であるが、私もここ1年内に電車の中で2度痴漢に遭っている。(私がこの年齢になってもまだ痴漢に遭うということは、加害者は女であれば誰でもターゲットにし得るのか、とあきれ果てるばかりなのだが…。)私の痴漢被害の内容が2度共、この事件の被害者と同様背後から臀部を撫で回すという手口であった。車内が混雑していても、被害者である女性はどの位置関係の人物が加害者であるのかの察しが不思議とつくものなのだ。 触っている手を鷲づかみにして「痴漢です!」とでも叫べばよいのであろうが、さすがに自分の年齢を考慮し睨みつけるだけに控えたが…。 それにしても被害にあった二度共、加害者の目つきが尋常ではなく不気味だったのには今でもゾッとする…。
 ましてや、まだ未成年の高校生であるこの事件の被害少女の恐怖心は察して余りある。被害少女がどう対処してよいかわからないまま加害者の痴漢行為に怯えながら躊躇している間に、加害者の痴漢の手口はどんどんエスカレートし長時間に渡り痴漢行為を続けていたらしい。
 
 植草被告が過去にもエスカレーターでの手鏡事件を起こしていることは、既に皆さん周知の事実であろう。


 さてこの植草被告であるが、輝かしい経歴の持ち主の超エリートである。
 東大経済学部を卒業後、民間のシンクタンクを経て大蔵省の研究官を経験の後、京都大学助教授の時代にはマスメディアにも経済学者の肩書きで頻繁に登場し、経済問題につき論説していた。この頃の植草被告を私もマスメディアでよく見かける機会があり、「おお、なかなかイケメンの経済学者だなあ」という感想を抱いたため印象が深いのである。
 その後、W大学大学院教授の時に“エスカレーター手鏡”事件を起こした際には仰天させられたものである。

 今回の二審の実刑判決に対し、植草被告は会見を開き「不当判決に対し闘い抜く」ことを表明しているとのことであるが、これは客観的に判断して、二審の控訴棄却判決が支持されるのではなかろうか。


 超エリート、しかもイケメン… 、 何もそんな身を滅ぼす程の危険を犯さずとて抜群の頭の良さを活かしつつうまく立ち回れば、どう考えても女に不自由することなく、一生公然と好き放題女性を堪能できるのではないか、と私は考えてしまい、経済界での惜しい人材を失ったとしか思えないのだが…(浅はかで不謹慎な発想を何卒お許し下さい。)
 何ゆえに、このようなすぐバレるのが見え見えの突拍子もない性犯罪行為に見識者たる者が突っ走って自滅しようとするのか。 性癖で片付けてしまうには不可解過ぎるアンビリーバブルな事件である。   
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過度の演出が鼻につく

2008年04月15日 | その他オピニオン
 私はテレビをほとんど見ない。現在、毎日必ず見るのはNHKのニュースと天気予報、それに夜寝る直前にJ-comチャンネルを15分程照明代わりにつける程度だ。
 昔から見なかった訳ではない。親がNHKばかり見ていた影響で子どもの頃からNHKの番組は好んで見るものも多かった。 どんどん低俗なバラエティものの番組が増えるのと平行してテレビから離れ始め、そして近年はNHKの番組にも嫌気がさしてニュースと天気予報以外はスイッチを入れなくなった。

 昔はNHKのドキュメンタリーものの番組や、ドラマとクイズ番組は民放も含めて結構好きで見ていた。
 ドラマに関しては近年では「チャングムの誓い」と「ライフ」(本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー「ライフ寸評」を参照下さい。)を毎週見た。ちょうど寝る前に照明代わりにテレビのスイッチを入れたところ、たまたま放映されていたのが面白くて引き込まれ、そのまま毎週感情移入して見続けた。このように、私がドラマを見るきっかけは“偶然”である。おそらくこれからも偶然感情移入できるドラマに巡り会えれば見るであろう。
 クイズ番組は出題のテンポが速く即答型の「クイズタイムショック」(田宮二郎が司会の頃は最高だったなあ)や現在放映中の「ネプリーグ」の漢字問題や5ボンバーが大の好みで、メラメラ闘志を燃やしながら食い入るように見る。今でも時間があれば見ている。
 一方、ドキュメンタリーに関しては新聞のテレビ欄でチェックして計画的に見ていた。一昔前までは様々なドキュメンタリー番組に感動したものだ。


 さて、本題に入るがこのドキュメンタリーものを近年すっかり見なくなってしまった。これには明確な理由がある。過度の演出が鼻に付いて嫌味ったらしく感じるようになってしまったのだ。
 ドキュメンタリーとは、本来ならば虚構を用いず記録に基づいて制作される番組のはずである。昔はその通り、淡々と記録された事実を伝える番組が多かったように思う。ところが時代の趨勢なのか、近年のドキュメンタリーは“やらせ”に近い程の演出がなされている番組ばかりになってしまい、制作者の意図が見え見えなのだ。これには閉口させられる。
 
 この現象の背景は一体何なのか。
 報道とは本来、事実を正確に伝えるべき使命を担っているはずである。淡々とナレーションだけで記録映像を流してくれればよいものを、近年のドキュメンタリーは必ず司会者と解説者、それにゲストまでが出演して論評が入るのだ。これがうっとうしい。
しかも、ナレーションにまで制作者の価値判断が伴っていて耳障りである。

 例えば、近年高視聴率を記録した人気ドキュメンタリーのひとつとしてNHKの「プロジェクトX」という番組があった。中島みゆきの「風の中の昴…♪」で番組は始まる。初っ端から既にドラマ仕立てだ。そして二人のアナウンサーによる司会に加え解説者が登場する。そして、俳優田口トモロヲによるナレーションが特徴的な番組であった。
 私も最初の頃はこの「プロジェクトX」を比較的好んで見ていた。ところが回を重ねるにつれ、胡散臭さを感じ始めてしまったのだ。とにかく演出がくどい。毎回取り上げる人物のヒーロー仕立ての程があまりにも度を過ぎている。田口トモロヲ氏のあの特徴的なナレーションが週を追う毎に耳障りとなり、そして見るのをやめた。

 ドキュメンタリー番組に限らず、近年ニュースでさえ様々な演出が施されうっとうしさがある。昔のニュースと言えば局のアナウンサーがニュース原稿を棒読みしているだけであった。本来のニュースとはそうあるべきでそれで十分なのだ。下手なコメンテーターも、騒がしい現場のレポーターも要らない。映像をそのまま流してアナウンサーが淡々と事実のみを伝えてくれれば十分である。


 このようなテレビ番組の低俗化現象のひとつの理由として、視聴率の低下が挙げられると思われる。一昔前はテレビの番組制作側のスタッフもいわゆるエリートだったのであろう。ところが、視聴率が低下した今、マスメディアにおけるテレビの位置づけ自体影が薄くなってきている。現在は番組制作を下請けに頼っている時代であるようだ。

 そういう現実を把握した上での話だが、主たる情報の入手先をテレビに頼っている人々は今なお多いのではなかろうか。テレビ番組制作者の方々、テレビを見てる奴等は皆馬鹿だという前提で番組制作をするのはもうそろそろ終わりにしませんか。ますますテレビ離れが加速し、自滅の一途を辿りますよ。
 
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癌をいつまでも売り物にするな

2008年04月13日 | 医学・医療・介護
 私が過去において癌を経験し一時期闘病生活を余儀なくされたことに関しては、既に本ブログの健康・医療カテゴリーのバックナンバー「癌は突然やってくる」において公開済みである。

 術後12年が経過した今、再発転移もなく私はこの通りごく普通に生きている。
ただ、癌及び周辺組織の摘出手術及びその部位をカバーするための植皮手術による手術跡は一生の置き土産として私の体に刻み付けられ、共に人生を歩み続けているのであるが。

 私の癌は体の表面に出現したため、癌の成長すなわち癌細胞の増殖が自分で手に取るように把握できていた。そのため、癌細胞の増殖スピードが急速化してから摘出手術までの期間が短く周辺組織への転移が回避できたため、大事には至らなかったお陰で予後が良好であると思われる。


 私は病気をはじめ自分や家族の“弱点”や“ハンディ”を売り物にすることを元々毛嫌いしている人間である。そのため、自分の過去の癌闘病に関しても上記のごとく、本ブログにおいて一度公開した以外は一切公表していない。

 世間を見渡すと、何とまあ、自分や家族の癌をはじめ難病克服や闘病に関する書籍やブログの多いことか。もちろん表現の自由が保障されていることだし、自己責任の範囲内で公開する分には誰からも非難される筋合いもないのであろうが。

 私が癌闘病中にある信頼できる知人から、癌闘病を綴った一冊の書籍を届けていただいたことがある。大変失礼ではあったが、私はその書籍をパラパラとページをめくっただけで、読む意思がないことを明確にお伝えしお返し申し上げた。理由は上記のごとくその種の自伝を売り物にすることを毛嫌いしていたこと、また、私は元々医学分野の仕事に従事していたために自分の癌について冷静沈着に客観的に把握できていたこと、加えて、死生観や病気に対する考え方、また置かれている立場等は人それぞれであり他者の闘病の様子が私にとって参考になりにくいと判断したためである。

 そんな私が最も毛嫌いするのは、有名人の癌をはじめ難病罹患等のマスメディアの情報である。確かに、社会で活躍中の著名人が癌に罹患したとなればニュースにはなり得るであろう。この私でも「へえ、そうなんだ。」ぐらいには受け止める。
 ところが辟易とするのは、本人自身がもう元気に復帰して通常に活躍しているにもかかわらず、いつまでもいつまでも癌闘病の過去を書籍出版等の形で売り物にすることなのだ。
 その心理がわからなくもない。生死にかかわる修羅場をくぐってきた過去は自分にとってはひとつの勲章である。その類稀な経験が今の自分の人格の一部を創り上げていると言っても過言ではないであろう。それを公表して自慢したい感覚は少しは理解できるのだが、他者の視点から見ると単なる手前味噌に過ぎず、みっともなささえ私は感じる。 有名人の場合、知名度を利用して金儲けのためにそれを売り物にしようという魂胆がみえみえだ。

 私も癌を克服した身であるから言いたいのだが、元気になったのならそれでいいではないか。癌をいつまでも売り物にするのはみっともないからやめよう。
 
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大学全入時代への懸念

2008年04月10日 | 教育・学校
 少子化傾向に伴い、大学全入時代の到来が目前となっている。
 大学と名が付きゃどこでもいい、いかなる学部でもいいと言うならば、希望さえすれば全員が大学に入れる時代の到来である。ただし、現実的にはそういう極端な志願者は少数派であり(?)、通常は入学者の希望等があるため、一部の大学では受験者が溢れ、また一部の大学では入学定員を満たせないという偏り現象は今後も存在し続けるのであろうが。


 先だっての朝日新聞朝刊の記事によると、この大学全入時代を目前にして大学入試問題も易しくなっている傾向にあるらしい。 そして、大学側のテキストも中学、高校レベルのものが多くなっていると言う。
 以前より小耳に挟んではいるが、聞き捨てならない話である。学問を修めるべき学び舎である大学で中高レベルの授業??? これは、とんでもない現状だ。

 この記事によると、例えばある書店が大学の英語教育用に出版したテキストは英検3級レベルであるらしい。英検3級と言うと、中学生レベルの英語力を試す検定だ。我が家の子どもですら中2で既に英検3級は合格し、中3になった現在は英検準2級にチャレンジ中である。(通学している学校の方針で高校卒業までに英検準1級取得を目指して頑張っているのだが。) この出版社は大学向けにより易しい判のテキストも用意していて、歴史ある有名大学も含め全国で延べ190大学でこの易しい判テキストが採用されているらしい。今や、大学1年生の多くが英検3級レベルであり、準2級~1級レベルの学生が半数以上を占めるという大学は非常に少ないということだ。
 これは今後大学進学を目指す子どもを持つ親の立場からも、嘆かわしい話である。 と言うことは、我が子が大学に進学したら皆といっしょに英検3級レベルの復習をもう一度やらされるということか? そんなことでは、大学で自ら目指す本来の学問を学ぼうとする意欲が消え失せるではないか。


 一方このような現状に対応するべく、塾業界が大学事業部設置に乗り出している。学科テストのない推薦入試などで早く合格を決めた学生を対象に大学入学前教育を請け負う体制作りに着手している。
 また、ある塾業界大手企業は大学に対する補習支援サービスを始めたということだ。工業系大学向けの「化学」や経済系学部の「数学」など、大学教授たちが「履修不足」と感じる分野の補習テキストを開発し、講師派遣とセットで大学に提供サービスをするという。
 う~ん……。 私は基本的に塾を否定的に捉える見解に立っている人間である。(本ブログ“教育・学校カテゴリー”バックナンバー「塾の教育力のレベル」を参照下さい。) だが、この問題に関しては、塾に活躍してもらうより他に手段はないようにも思える。 少なくとも、大学とはそもそも中高レベルの補習教育をする機関ではない。大学の存在使命とは、学問、科学の発展に寄与するというところにある。大学がそのような本来の存在使命を果たすためには、さしあたって中高レベルの学力しかない多くの学生の支援を外部の塾業界に頼るのも有効な手段とも思える。
 いくら現状の公教育に教育力がないと言えども、塾業界が義務教育過程である小中学校にみだりに進出することは、結果としてますます法的に義務教育と定められている公教育が自ら努力し発展するべき力を封じるものであり、私はあくまでも本末転倒であると考える。
だが、塾業界が上記のように大学支援という形で進出するのであれば、自由競争の範囲内との解釈も可能であるかもしれない。

 
 この嘆かわしい事態の根源は、現状の中高教育に元々あるのであろう。近年の子どもの学力低下傾向が叫ばれて久しいが、中高の教育レベルがそれ程低いという実態を再認識させられるばかりである。
 そして、大学が自らの生き残りのために、学問を修める能力もない学生を安易に受け入れてしまうところにも大きな病理がある。
 さらに原点に戻れば、この問題は、この国のポリシーなき教育行政が創り上げてしまった“成れの果て”なのであろう。

 日本の学問、科学の未来が末恐ろしい大学全入時代はすぐそこまで、いやもう既にやって来ている。 

 
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嫌な飲み会は行かぬが一番

2008年04月08日 | 
 4月に入り、新入生や新人を迎えた大学や職場では新人歓迎会が催されていることであろう。

 先週の4月4日の朝日新聞声欄に、新入生歓迎会を皮切りにサークルや学科の友人との飲み会の多さに辟易としているという趣旨の、「お酒なしでも交流できぬか」と題する大学生からの投書があった。
 この投書を以下に要約してみよう。
 飲み会のほとんどが飲み放題で意識がなくなるまで飲んだり、「一気」コールで盛り上がったり、朝までハシゴ…。大学生は未成年者も多いのに当たり前のように飲んでいる。自分は全く飲めないのに、勧められたりして飲まざるを得ない状況になってしまうことも多く苦痛である。金銭的にも痛い。しかし、断れば付き合いが悪いと思われるのでなるべく行っている。社会人も含めて酒なしでは深い交流関係が持てないのは寂しいことだ。
 
 この大学生の投書を読んだ私見の結論を端的に述べよう。 嫌な飲み会に行く必要などまったくない。進んでパスしよう。
 

 本ブログの“酒”カテゴリーのバックナンバーで再三述べてきているので読者の皆さんは既にご存知であろうが、私は自称“飲兵衛”を宣言する程の相当の飲兵衛である。
 行きましたよ、行きました。自慢じゃないけど娘18の頃から(ごめんなさい、見逃して下さい。)新入生歓迎会、新人歓迎会、ありとあらゆる飲み会に顔を出しては、駆けつけ三杯から始まり朝になるまでハシゴ…、率先して主体的にとことん飲んだくれましたよ。

 そんな私にも、この投書者の大学生とはまったく逆の立場から嫌な飲み会というものがある。
 既にバックナンバー「飲兵衛はつらい?!」においても述べているが、私のような飲兵衛にとっては、自分のペースで飲めない飲み会というものほどつらいものはない。自分を押し殺して、飲むスピードをゆっくり目に、飲む量を少なめに周りに合わせなければいけない飲み会というのがたまにあるのだが、これは飲兵衛にとっては究極のストレスが溜まる飲み方である。
 大勢で飲む場合は大抵飲めない人から順に帰っていって、会が進むにつれ自然淘汰され、“飲んだくれ”仲間だけが残るので、結構最後まで楽しめる。 ところが、さほど親しくない少人数の飲み会においては、上記のような“究極ストレス飲み会”となることが少なくない。過去において何度か経験があるのだが、これは本当につらい。 今となってはそれを十二分に悟っているため、その種の飲み会は口実をつけて必ずお断りすることに決めていて、まかり間違っても参加しない。

 そしてもう一点、この大学生の投書で気になるのは「飲み会」の位置づけである。
 失礼ながら、大学生と言うとまだまだ人生経験が浅い人達の集まりであるため、飲み会を断れば付き合いが悪いと思われる、という貧弱な発想もやむを得ないのかもしれない。
 だが、「飲み会」というのは元々信頼関係がある者同士で設けるべき会であり、「飲み会」によって深い交流関係を作るという性質のものではない、と私は捉えている。「飲み会」とは酒を飲んで一定時間皆で馬鹿になることを楽しむ会なのだ。そのように醜態をとことんさらす全人格的付き合いである会合において、見知らぬ人や付き合いの浅い人と場を共有するのは元々極めて危険である。信頼関係があるからこそ皆で馬鹿になり切れ、美味しい酒が楽しめるというところが「飲み会」の使命であるのだ。

 そういう意味ではこの投書者のおっしゃるように、まずはお酒のない別の場で人と人との深い交流関係をもち、人間同士の信頼関係を築くことが先決問題であろう。

 下戸であれ、飲兵衛であれ、嫌な飲み会には行かぬが一番である。
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