原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

自分の名前、もちろん気に入ってます!

2013年07月13日 | 自己実現
 本エッセイ集において私はペンネーム「原左都子」を使用しているが、私の本名は実はある有名人と同姓同名である。


 この事に関しては、「原左都子エッセイ集」開設半年程後の2008年2月バックナンバー 「同姓同名物語」 に於いて既に公開済だ。
 以下に、少し反復させていただこう。

 詳細を語ると本名がバレるためほんのちょっとだけ話すが、その有名人が、な、な、なんと超美人!!なのである。 当の昔に現役を引退している人物のため若い世代の方々には馴染みはないであろうが、ある年齢以上の世代の方々にとってはその名前を知らない日本人はいない程、一世を風靡した人物である。
 当エッセイ集をネット上に立ち上げるに当たり、私は散々迷った。 このまたとない光栄な本名を著者名として使用した方が得策か、はたまたペンネームを使うべきか…。 結果としてあえて“映えある”本名をはずしてペンネームを使用した理由の第一は、個人情報保護及びプライバシー保護の観点からである。 加えて当該有名人ご本人とのネット上の混乱を避けるため、更には、その人物の美しさや知名度にあやからず自分のエッセイの実力で勝負したいと目論んだためでもある。 
 私が光栄な本名をゲットしたのは結婚をして姓が変わったことによる。 実は私の旧姓も現在の本名と大差のない氏名だった。 昔親から聞いた話によると、私の名前自体は親の考えに基づき名付けたらしいのだが、苗字との釣り合いも考慮し、やはりその有名人を意識しての命名だったらしい。
 さて婚姻後、私はこの本名のお陰で日頃得をする事が多い。
 まず、とにかく如何なる場でもすぐに憶えてもらえる。 そして話題性がある。この氏名を取っ掛かりとして大抵は話がはずむのだ。 その有名人は超美人であることに加えて清純なイメージを押し通したまま引退したらしく、皆さん肯定的に捉え、大抵の人(特に男性)は絶賛する。 そのお陰で同姓同名の私までそれにあやかり何だかイメージアップなのだ。
 この同姓同名に対する世間の反応も面白く、これが楽しめる。 例えば、病院や役所等の公共機関で順番待ちをしていて氏名を呼ばれる場面があるが、「○○○○○さ~ん」とお声がかかり立ち上がると、周囲のほぼ全員が一斉に私に注目するのだ。 目立ちたがり屋の私はこれが“快感”だ。 近頃は個人情報保護の観点からこのような場面が番号制に移行して公の場で氏名を呼ばれる機会が減少しつつあり、私としては少し物足りない思いでもある。
 この氏名のデメリットと言えば、たまに「偽名」と判断されてしまう事だ。 特に意見書提出や電話にての意見陳情の場合、頭から「偽名」と扱われまともに応対してもらえない場合もある。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 上記バックナンバーを公開して5年半の年月が流れた現在、我が本名に反応する世代が高齢化を遂げ、ほとんどの現役世代には馴染みのない氏名となりつつあるのを実感させられ、多少寂しい思いだ。
 それでも、未だ有名人と同姓同名の我が本名に反応して下さる場面に出くわすのは、愉快な一時である。
 私のように“超美人”かつ“淑女”のごとく素晴らしい人物と同姓同名であるような場合、その名を持つ本人が人格面も含めてあまりにも“貧相”であれば、おそらく周囲の人々はその名前に触れることを遠慮するであろう。 名前を聞いて盛り上がってくれる現象とは、あくまでも自分に都合よく解釈すると、(ご本人も素晴らしければ、お名前も素晴らしいですね!)と褒めてもらっているような感覚なのだ。 (勝手に言ってろ、って??)
 
 今後も我が本名に恥じないような人格を築き続けたいものである。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、少し古くなるが朝日新聞7月6日別刷「be」“between”「自分の名前、気に入ってる?」と題する記事である。
 
 この設問に対し、「はい」と回答したのは38%。 「どちらかといえば(はい)」との回答が42%。  「どちらかといえば(いいえ)が12%。 「いいえ」が8% なる結果だ。

 意外や意外、自分の名前を「気に入っている」人が8割を占めている事に驚く原左都子である。 と言うのも私自身独身時代の旧姓が嫌で嫌で、自分自身が受け入れられずに困惑し続けていたためだ。 我が旧姓の何が悪いという訳でもないのだが、とにかく嫌いだった。
 今現在推測するに、親に勝手な希望を押付けられ不本意な高校生時代を送ったのが一番の原因かもしれない。 あの時の自分が今現在も受け入れられないがために、それに付随している自分の旧姓も受け入れ難かったのかと思ったりもする。
 
 長い独身を貫いた後に見合結婚が決まり、上記“超美人”有名人と同姓同名になろうとしていた頃、“とある”男性と会話した内容を思い起こした。  その人物曰く、「有名人と同姓同名の新姓もいいけど、僕は君の旧姓氏名の方を好むよ。なんせ、旧姓の響きがいい。 僕の君に対するイメージとしては旧姓の方が一致するなあ。」
 私はこの時初めて、旧姓時代の我が人格とそれに付随している我が姓名が共鳴した気がした。 そう言われてみると、我が旧姓の響き自体は悪くない。
 
 自分の名前に関して普段詳細に考察する機会など皆無だったが、他者にその良さを指摘されるてみると「なるほど、そういう観点もあるのか」との視点になれるから不思議だ。 長かった独身最後の時期に、自分が持って生まれざるを得ない旧姓に関してその良さを再考するプレゼントをしてくれた当時の男性友人に今更ながら感謝だ。


 本エッセイの最後に、我がペンネームである「原左都子」に関してその名の由来を紹介させていただこう。
  
 苗字の「原」は二の次に回すとして、、ファーストネームに関しては 「さとこ」 にする意思が最初から固かった。 何故ならば、これこそ私が上京後独り立ちした後に周囲の皆様より賜ったニックネームだからである。
 独身時代のその場は移り行けど、「さとこ」「さとちゃん」と周囲の皆様に盛り立てて頂きつつ、我が栄光の長き独身時代を謳歌できた思いが強いのだ。 

 ペンネームのファーストネームは 「さとこ」 で即時に決定! 
 次に私が一番こだわったのは「左」の漢字である。 決して善人でもなければ、ひ弱な印象を抱く漢字も避けたい。 一匹狼で天邪鬼の我が生き様を一番表現してくれる「さ」の漢字を私はすぐさま探し当てた。
 それこそ 「左」 である!  これしかない!
 (参考のため、「都」に関してはさほどのポリシーはなく、東京都に住んでいることと、その“字姿”を好むためそれにした。)


 我が本名同様、今となってはペンネーム「原左都子」もネット上でその存在感を煌かせてくれている事実に日々感慨深い思いである。

 自分の名前とは、自分自身が気に入ってこその存在価値ではなかろうか?
 
 そんな思いを抱ける現在の我が人生をうれしく思える現実に感謝しよう。
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