原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我が家の2011.03.11のあの日

2020年03月11日 | 時事論評
 (写真は2011年3月11日午後2時46分頃、東北・関東地方で発生したM9,0大地震一波大揺れ直後に撮影した我が家の被災状況の一部。 棚からCD類が大量に落下し床に散乱した。 余震中の撮影のため大きく手振れしています。)


 その時、外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
 「あっ、揺れている。これは地震だ。」
 通常地震発生直後には地震速報は出ないため、もうしばらく様子をみてから後テレビのスイッチを入れようとしていたら、どんどん揺れが大きくなる。 (これは尋常な地震ではないぞ)と思い始めるのと同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開してしまった。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変だ!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされてしまった。 そして、書棚の揺れはますます大きくなるばかりだ。
 この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて、もしかしたら我が命を失うであろう事がやっと想定できたのだ!
 (書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐ心配をするべきだ!)と少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
 尚、揺れがおさまる気配はない。
 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は、自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れであるのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれないのだ。

 やっと一波が通り過ぎた後に尚小さな揺れが続く中テレビのスイッチを入れると、東北地方の大津波警報が発信され 「すぐに高台に避難して下さい。しっかりした高いビルの上階に避難して下さい!」 との悲鳴にも似たアナウンサーの指示が流れている。
 私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前である。

 これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。(参考のため、いつもは手で開けるにも力がかかる程の重量があるベランダ側の大型二重ガラス窓が、先ほどの大揺れで開いた状態である。)
 一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく平静を保っている様子で、近くの公立小学校から児童向けの地震発生のアナウンスが聞こえては来るものの“古い校舎”が崩れている様子もない。
 
 おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと悟った私は、まだ大揺れ余震が続く中、家中の見回りを開始した。
 台所に行けば食器棚の下段から食器が転がり落ちている。(食器棚上段に関しては開き戸を固定できる構造であるため、棚内部での落下にとどまっている。)
 娘の部屋でも、やはり学習机の上の教材や書棚の中身が部屋に落下し散乱している。
 そして、身内の部屋では(上記写真のごとく)オーディオ棚の上に積み上げてあったCD類が床一面に散乱している状況だった。
 (その後の我が複数の知人等からの情報収集によると、我が家は集合マンションの“上階部”に位置しているために低層部、あるいは一戸建て住居より“揺れ”が激しかったと考察できるのだろうか…??)


 次の心配は我が娘! であるのは親として当然である。
 首都圏の交通網は全面マヒ状態だ。 そろそろ娘の下校時かと思い早速携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。
 16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと繋がった! どうやら学校の指示で学内に留まった方が安全であるため学校で待機しているとのことで、娘からそのメール一報を受けて一応安心した私である。
 もし娘が早い時間に帰宅した場合、自宅内の惨状を見せてトラウマに陥らせることは避けたいと考えた私は、結構激しい余震が続く中果敢にも散乱物の“片付け”行動に入ったのだ。

 ある程度の片付け後、今度は夕食の準備をしようとするとガスが付かない。(そりゃそうだろうなあ。この余震が続く中“火”など使ったものなら被害を拡大するだけだ。)と悟った私である。 我が家では電気と水道が寸断されていなかったことが大いなる救いだった。

 娘に話を戻すと、首都圏の交通網は昨日中の復旧が不可能状態のようだ。
 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」との私の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌いだようだ。
 今朝から復旧したJR等を大混雑の中乗り継ぎ2時間程をかけて帰宅した我が娘は、今回の記録的大震災により人生初めての惨劇を自らの体で経験して疲労困憊した様子で今現在眠りこけている。 (目覚めたら、今後のトラウマとならぬよう親として重々フォローしてやるつもりだ。)

 今回の記事では、東京地方に住居を構える原左都子が昨日より経験している大地震の現況について伝えてきた。
 東日本の太平洋側各地では、今尚津波警報対処を余儀なくされている。
 そして原子力発電所の放射能漏れの事態も深刻である。
 日本の歴史上最大級である今回の大震災の被害状況は、今後の調査と共に大幅に拡大するであろうことを察していたたまれない思いだ。
 東京の我が家でも今まだ余震が続いていて、油断できない今後の日々である。


 あれから9年が経過した2020.03.11の本日。

 今、当時の惨劇を振り返るに。

 何と言っても大都会にて発生した交通網大渋滞下に於ける「帰宅難民」を余儀なくされ、高校の体育館にて一夜を過ごした娘の安否こそが最大の懸念だったものだ。 
 あの日から9年の年月が経過した今尚、我が脳裏に一番に思い浮かぶのは、娘が体育館内で心細く過ごしたであろう一夜のその情景だ… 

 あくまで東京に暮らす我が身として9年前の東日本大震災を振り返る場合、そういう結論となる事実をどうかお許し頂きたい。

 その直後期に「福島原発」から北西風に乗って東京方面へ日々押し寄せる放射能にも苦心させられた。
 東京都の水道水も放射能汚染し、我が家にてその水道水で飼っていたメダカが3月下旬に突然大量死に至った事実に関しても、私は我がエッセイ集にて公開している。😱 

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