原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

公教育過程小中学生への「ランニング指導」の提案

2014年09月11日 | 教育・学校
 本日のエッセイは、前回公開 「5km走れたなら地球上で敵無き境地にまで至れる!」 の続編の形となろうか。

 冒頭より表題と関連がある話題に切り替えるが、我がエッセイ集5年程前の2009年7月14日バックナンバーに於いて、「プールの季節の憂鬱」なるエッセイを公開している。
 以下に、その一部を要約して紹介しよう。

 ところで、我が子は6年間(幼稚園も含めると9年間)にも及ぶ公教育におけるプール指導の甲斐もなく、結局泳げずじまいである。
 日本全国津々浦々の小学校において6月から9月上旬までの約3ヶ月間、6年間もの長きに渡り、毎年毎年“プール指導”を教育行政の一環として全国の全児童に課すのであれば、教える側こそが全員を“泳げる”ように指導できる体制作りにも同時に着手したらどうなのかと、一保護者としては言いたくもなる。   我が子の場合ある事情を抱えていることもあり、特に小さい頃は何事にも習得に時間がかかる子だった。 たとえそうだとしても、6年間を通して誰一人として我が子に“泳ぎ”の指導が出来ないとは、公教育においては一体全体如何なる指導が行われているのか不信感のみを抱かされたものだ。    泳ぐ趣味など一切ない親子であり家庭環境であるため、別に一生泳げなくとも何ら差し支えはないのだが、学校現場が“正規の課題”としてプール指導を取り入れているのであれば、せめて全児童に5mでも泳げるように指導した上で卒業させるのが公教育の責任というものではないのか??
 しかも親として何より心が痛んだのは、泳げない児童を邪険に扱う教員が存在したことである。 その教員は泳げない児童を捉まえて「何でお前らは泳げないのか!」と叱り、全員をプールに“ぶち込んで”「泳げ!」とのみ言い放ち、後は泳げる児童をより速く泳がせる指導に没頭していたらしいのだ。 6月梅雨寒の頃にはプール内で寒さに震えつつ、立っているしか方策が打てない我が子に「せめてプールの中で“ウォーキング”でもして体を温めていなさい!」と助言するしか、母の私に力がないことも辛かった…  そんな母である私の助言に従い我が子が体を温めるべくプール内でウォーキングを始めたところ、すぐさまその教員から叱咤の罵声が飛んだのだという。    「歩いてないで、泳げ!!」 
 そもそも何故に“プール指導”などという、私に言わせてもらうと“至って特殊”な体育の一分野の種目を教育行政は全国の小学校において全員強制の課題としたのであろうか。  一説には、五輪等国際競技における「競泳」で活躍する“スーパースター”を作り上げることにより国力の活性化に繋げるため、との見解もあるようだ。   他方、水難事故等に備えて子どもの頃から“泳力”を育成することは有効だとの見解もあろう。
 私論は上記2説共に、その根拠は「乏しい」と捉えている。  確かに近年、オリンピック等国際舞台での「競泳」競技における日本選手の躍進には目覚ましいものがあろう。  片や“水難事故”説に関しては、これは教育行政が全国の全児童強制課題として取り上げるには、人間の一生において水難事故に遭う確率が微細過ぎると捉える。 加えて、水難事故に遭って“九死に一生を得る”人物とは、必ずしも泳ぎに秀でているだけの要素ではない現状は報道で伝え聞く通りでもある。
 最後に私論だが、極論かもしれないが、どうも“政府とゼネコンとの癒着が怪しい”と私は以前より捉えているのだ。  全国津々浦々の全小学校にプールを設置することにより、誰と誰が私腹を肥やしているかは、皆さんも少し考えれば一目瞭然の話であろう。  だがそれ以前の問題として、教育行政が公教育において「プール指導」を義務化している以上、その現場の学校でどのような指導が行われているか等のフォローは欠かせないはずだ。  過去に於いて教員の管理不行き届き等の理由で毎年少なからずの児童の死者さえ出している公教育における「プール指導」を、一部の子どもが単純に水遊びを喜ぶからとの理由で、教育行政は今後もこのまま続行する思惑なのだろうか?!?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより義務教育に於けるプール指導強制実態に関する反論エッセイを要約引用。)


 いつもながら我がエッセイ集バックナンバーよりの引用が長引き恐縮だが、実は今夏に入った頃、公教育過程に於ける「プール指導」が過渡期を迎えているとの報道を目にしたのだ。
 これぞ、元々公教育現場に於けるプール指導に疑義を抱き続けている原左都子にとっては“吉報!である。

 以下にそのニュース報道内容を、原左都子がかいつまんで紹介しよう。
 「一校一プール」が原則だった公立学校の制度を見直し、水泳指導をスイミングクラブに委託したり、数校で拠点プールを設けたりする自治体が相次いでいる。 各校で老朽化するプールの改修費用が賄えないためだ。
 ただし、この施策にも大きな問題が内在している。 その最大の課題とは、事故対応面で誰が責任を取るかということであろう。
 国立鳴門教育大学教授氏は、次のように語っておられる。  水泳教育は1960年代から本格化したが、その議論が中途半端なままに学校現場でプール建設が進んだ。 もし今後教員免許のない民間人のみに学校水泳指導を任せる場合、法的課題がある。 民間委託を進めるならば、学習指導要領に沿った指導が保障されれよう国がきちんと基準を定めるべきだ。


 公教育に於ける「プール指導」に関する引用が長引いたが、ここで表題のテーマに戻そう。

 あくまでもランニング趣味がある原左都子の提案に過ぎないのだが、今後は事故の危険性が高い「プール水泳指導」を一切廃止して、公教育現場で「ランニング指導」を必修科目として取り入れては如何か。

 そのメリットの程を以下に列挙しよう。
 まずは、国政や自治体とゼネコンの癒着により巨額のカネがかかる「プール建設」及びそのメンテナンスを回避出来ることが一目瞭然のメリットである。  ランニング指導の場合、正規の体育の授業内で校庭にて児童を走らせるのみで、子供の心身機能発達との目標が十分叶えられる事が明白であろう。  しかも、校庭(運動場)とは児童皆が日々利用する場であるし、そのメンテナンスも既に日々学校現場に於いて実施されている事と推測する。

 もっと有意義なメリットとは、「プール指導」による水難事故を防げる事だ。 毎年毎年、公教育が実施する「プール指導」により学校現場で幼き命を犠牲にし続けている事態に対する反省もなく、何故いつまでも公立小学校では「プール指導」を全児童に強制し続けるのか??
  

 そして、最後に公教育現場に於ける「ランニング指導」の最大のメリットを紹介しよう。

 (ただ、その指導を教員の立場から強行し過ぎる等の過ちを犯したならば、「プール指導」と同じく最悪の場合、児童の死者を出すとの惨事に至る恐れがある事を今一度念を押しておこう。

 原左都子が描く理想的な「公教育に於けるランニング指導」とは、ともかくマイペースで“楽しく♪”児童を走らせる事に尽きる。 ランニングによる医学的効果を児童の年齢に応じ理解可能なレベルで指導し得たならば、それで必要十分であろう。 (例えば児童間で着順を競わせる等)教員からの専門力無き下手な指導など、児童には負荷になり危険を倍増させる結果となるだけかもしれない。

 極論を言えば「ランニング」に指導者など不要だ。 自分自身が走りたい意欲を身に付けるべく促せたならば、それだけで個々のランニング志向が高まり、生涯に渡りランニング趣味を継続できるものと信じる。