原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

3ヶ月で何かが復興したのか?

2011年06月11日 | 時事論評
 3月11日の東日本大震災の発生以来、本日(6月11日)で3か月の月日が経過した。 
 警察や自衛隊等の懸命の捜査にもかかわらず未だ8,000人を超える人々の行方が判明しておらず、遺体発見も身元確認も日に日に難しくなる現実だ。 
 未曾有の大震災は国や非被災地国民の「復興」の掛け声とは裏腹に、被災地そして被災された方々に終わり無き悲しみと傷跡を刻みつけたままである。

 
 少し古くなるが、5月28日の朝日新聞夕刊一面において、「赤プリ避難 心が重い」と題する記事を見つけた。
 取り崩しが予定されている“赤プリ”(旧 グランドプリンスホテル赤坂)が6月30日までの期限付きで避難所として大震災被災者にその部屋を提供していることに関しては、本エッセイ集のバックナンバーにおいても既述している。
 現在約800人の福島県等の被災者の方々がこの部屋で暮らしているとのことだが、福島原発が照らした大都会東京のネオンの夜景をホテルの部屋から見る度、悔しさが込み上げるという被災者の方の談話を目にして、東京に住む私は心より申し訳ない思いだ。 あるいは、ホテルから一歩外に出るとスーツ姿やヒールを履いて道を急ぐ人ばかりで、自分たちの居場所がどこにもない空虚感を感じホテルの部屋を出るのがおっくうとの家族もおられる。 まさにヒールを履いて急いでいるその一人はこの私である。 被災者の方々が置かれている現実を身をもって理解できず他人事と捉え、少しばかりの節電に協力して何かのお役に立てていると勘違いしている自分が実に恥ずかしい思いである。

 この記事に限らず、たまたま東京に来る用があった被災地の方々が目にする大都市の風景は、別世界であるようだ。
 そんな別世界に住み今まで通り不自由ない生活を営みつつ言葉だけ「復興」「復興」と騒いだところで、それは大震災の傷跡の重みを何も心得ず被災者の方々を傷つけるのみの浅はかな行為であろう。


 話が変わるが、本日1週間遅れで読んだ朝日新聞6月5日の「遅れた避難 なぜ」と題する記事は、被災地に住む人々が大震災発生以来“時が止まって”しまった事を印象付けられるインパクトがあった。
 被災者の方々にとって、震災を実体験として知らない“外部者”から「復興」を旗印に“前に進め!”と指揮されることが如何に過酷で惨い現実であるのかの一例として、上記記事を以下に要約して紹介することにしよう。

 大震災の津波で全児童の7割近い74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の市立大川小学校に於いて、6月4日の夜、初めて保護者への説明会が行われた。 同校へ津波が押し寄せたのは地震発生の時刻である午後2時46分から約50分後だった。市によれば3時頃には大津波警報の発令を伝える防災無線が大川小学校でも流れていたが、市教委の説明によると校庭に津波が来る事を想定しておらず、教員達の間で避難場所について論議していたとのことだ。 そして、結局児童達の避難を開始したのは午後3時25分頃だったことが明らかにされた。 津波が同校に押し寄せたのが3時37分とのことで、少し高台にある堤防道路に避難しようとの学校の遅ればせながらの苦渋の判断は虚しくも避難途中の全校児童の7割もの命を失う結果となったようだ。

 この事例の場合、多くの教員も命を失っているとのことで真相究明が困難であるようだが、何故か学校長は生き延びていて現在犠牲児童達の家庭を回っているとの報道だ。 ところが、校長は花束を持って来てただ頭を下げるのみで何らの説明も謝罪もしないらしい…。 それに納得できない保護者達が、震災発生後3ヶ月が経過しようとしている今になってやっと学校で保護者会を開催するに至ったとのことである。
 加えてこの学校には裏山の斜面があり、そこに個人の判断で逃げた児童は助かったとのことでもある。(記事にはその裏山の写真もあるのだが、この写真を見ると学校の直ぐそばのこの裏山に避難させるという発想が何故教員達に浮かばなかったのかと無念に思えるのだ…)

 結局はこの事例に於いても自治体や学校の勝手な論理で今回の大震災は「想定外」、との結論が導かれてしまいそうなことにどうしても異議を唱えたい原左都子である。
 (しかも児童の7割を失った小学校が田舎に位置しているためか、自治体や学校の判断ミスにより我が子を死に至らされたにもかかわらず、保護者の中には“お世話になった先生を責める事はできない”などとの軟弱な意見も出されているらしいのが原左都子には到底納得できないし勘弁ならない。  戦時中でもあるまいし、今の時代において未来ある子どもの命を守るのは断固として親や大人の役割である。 余談になってしまったが、ここは地域の今後の将来に渡って保護者とは我が子の命だけはどうしても守るべく、今は大震災における学校や自治体の対応に大いなる落ち度があった事と闘い続けるべきだ!)
 今回の避難判断の遅れを“先生にお世話になったから”などとの感情論で風化させることなどあってはならない。 未来の児童達の命を守るために、津波被災者ではない私も含めた国民皆が原因究明、責任追及をなしていく事も「復興」への一つの道程ではなかろうか。

 福島第一原発事故においても、当初悠然と「想定外」の言葉が持ち出されていたものだ。 国のライフラインを担って君臨している大企業ですらこの言葉を持ち出すのだから、ましてや過疎地地方の小学校の最高責任者である校長が児童の7割を死なせたにもかかわらず、その説明も謝罪もないのが悲しいかなこの国の慣習というものであろうか…??


 大震災発生後、この国では何かが復興したのか??
 原左都子が掲げた今回のテーマの回答とは、「何一つ復興していない」というのが正解ではなかろうか?

 本エッセイ集の震災関連バックナンバーで幾度となく触れているように、「復興」とは上に立つものの自己満足であっては決してならない。 被災地域や被災者の皆さんが置かれている現実に心が及んでこそ「復興」の糸口が摑めるということではあるまいか。

 未曾有の大震災後わずか3か月しか経過しない間に国の経済力が大幅に低下した今、永田町は東北地方に発生した大震災など他人事のごとく政権争いにエネルギーを費やす展開と落ちぶれている…。 
 「菅政権は潰す!」「野党と大連立だ!」「私は政権を死守する」「いやいや、菅が辞任しないと連立はしないぞ!」等々……、国の要人どもは今尚茶番劇を続けている有様だ。
 その間に、福島第一原発では高放射能の2号機の扉を開放すると言う… 

 我が国に発生した未曾有の大震災の「復興」は、どう考慮しても程遠いものがある。
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