6月20日、独立行政法人 理化学研究所は神戸市にある次世代スーパーコンピューター「京(けい)」が演算速度世界一を獲得したと発表した。
このスーパーコンピューターに関しては一昨年、民主党政権の参院議員蓮舫特命担当大臣が新政権の売り物である“事業仕分け”において「日本が世界一でないとけないのか。2位じゃダメなのか。」等々と発言し、世の科学者達の間で物議を醸したことに関しては皆さんも記憶に新しいであろう。
「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにおいても、その物議の様子を取り上げているためここで少し復習させていただくことにしよう。
新政権の元タレントでもある蓮舫特命担当担当大臣が、事業仕分け担当議員だった時に残した有名な“格言”、「世界一になる理由は何かあるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
この蓮舫氏の発言に関して、例えばノーベル賞受賞者であられる野依良治氏は「全く不見識であり、将来歴史と言う法廷に立つ覚悟はできているのか」とのさすが!と唸るような文学的かつ普遍的コメントを述べられた。 また同じくノーベル賞受賞者であられる利根川進氏も「世界一である必要はないと言うが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と反論された。 歳費削減を目指す政治家と世界の第一線で活躍する研究者という立場の違いはあれども、原左都子はこの論議において研究者側の発言に軍配を挙げたいのだ。 世界の最前線で業績を残そうとする人材には、そもそも2番でいいなどとの発想はあり得ないのである。そんな甘っちょろい思いが脳裏をかすめた時点で、凡人研究者の道しか残されていなかったことであろう。
これは教育論にも繋がる議論である。 どうも今時の公教育は生徒を“横並び”させておきさえすれば表面上安泰であるし教育が施し易い故に、それを「平等」に置換して安易な教育に走っているのではないのか? との論評を、本ブログのバックナンバー「横並び教育の所産」(2007年9月著)において既述している。
この公教育の所産なのか、まさにSMAPが歌うように「私は生まれながら“オンリー1”の存在なんだから、(努力なんかしなくても)世の中で認められるんだ!」と勘違いする若者が量産されているように日頃私は感じるのである。 これこそが、現在の日本の衰退と国際競争力の喪失を創り上げている元凶なのではないのかとの危機感さえ抱くのだ。 もちろん「弱者」は保護したい。 だが決して、公教育が正面切って「弱者」を量産することを正当化してはならない。 公教育とは、努力する国民性を育て続けるべきなのだ。 これこそが今後この国を建て直すべく公教育が担う課題であり役割であると、原左都子はここで断言しよう。
国の財政健常化のためには、蓮舫氏がおっしゃるように“2番”であってもいい分野もあるかもしれない。 それは分からなくもないが、選挙で当選さえすればにわかに代議士になれ、その後ひょんな発言から名前さえ売れれば大臣にまで上り詰めてしまう国会議員と比較して、科学分野研究者達の幼少の頃よりの長年に渡る日々の尋常ではない努力の程を思うと、私にはどうしても研究者側の味方以外の選択肢はあり得ない。
(以上、「原左都子エッセイ集」複数のバックナンバーより引用、要約)
さて、ここでスーパーコンピューターなるものの我が国における歴史に関して簡単に説明しておくことにしよう。
日本に於けるスパコン開発の歴史には、官学主導による国策、及び産業界による実生活上におけるスパコンの利用や設置という二つの流れが存在するようだ。
この二つの流れのうち、文科省が推進する日本の科学技術政策において2006年より「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始した。 この頃は我が国のスパコン研究開発力は世界一を誇っていたとのことだ。 だが2009年には米国のスパコン開発の更なる躍進により、日本はこの分野において一位奪還が出来ない見込みとなった。
そして一昨年の“事業仕分け”において、当プロジェクトは蓮舫氏の発言をきっかけとして民主党政権により「予算計上見送りに近い縮減(事実上の凍結)」と判定されたため、その後多数の議論が交錯することと相成ったのだ。
ところがノーベル賞レベルの世界的科学者達から痛烈な批判を受けた政府は、軟弱にも結局この判定を見直す方向転換をした結果、2010年度予算として227億円をスパコン開発に計上したとのいきさつのようだ。
ここで一旦原左都子の私論に入ろう。
蓮舫氏による「2位じゃダメなんですか?」の軽薄発言で世界的科学者から痛烈な批判を受けたからといって、政権のマニフェスト主要項目である“事業仕分け”会議における決定事項を、いとも簡単に翻すその国政の軟弱さとは一体如何なるものであるのか?
国策巨大プロジェクトに関する議論に於いては、研究開発目的や産官の提携のあり方、その波及効果等々の諸課題において掘り下げるべき様々な論点があったはずである。
そして技術研究開発における費用分担に関しても、今後も国が負担し続けるべきか、あるいは今後は民間活力に委ねるべきかとの議論も両者間でとことん重ねた末にその答を導くべきではなかったのか? もしも民間に委ねる結論を下した場合、そもそも国家予算外として“事業仕分け”対象から外すとの選択肢も存在したはずである。
今回、理研と富士通が約1120億円をかけて開発中のスパコン「京」が世界一の名誉に輝いたことを受けて、理研理事長の野依良治氏は「我が国の産業技術が健在な証しでうれしい。やはりトップを目指さなきゃいけない」との談話を公開したそうである。
これを聞いた蓮舫行政刷新相氏曰く、「心から敬意を表したい」との返答をしたらしい。
ところが、蓮舫氏による追加コメントがこれまた感情的かつ貧弱で何ともいただけないのだ……
「極めて明るいニュースで関係者の努力に心から敬意を表したい。国民の税金を活用しているので、ナンバーワンになることだけを“自己目的化”するのでなく、どうやって将来の明るい夢につなげるか期待したい」とのコメントを述べたらしい…。
再び原左都子の私論に入るが、今回のスパコン一位に輝いた研究が官民共同研究であることを鑑みた場合、今後はこの種の研究を国税に頼るのではなく完全民間委託するという選択肢にそろそろ思いを馳せてはどうなのか?
それから、科学技術の開発において現場の研究者の「自己目的化」のスタンスをお上の一大臣氏から全面的に否定されてしまったならば、世の科学者達は誰しも世界に名立たる業績など残せないのではないかと、元科学者の端くれの原左都子でさえ懸念するのである。
蓮舫さんにお聞きしたいのだが、あなたは何故に政治家になられたのであろうか?
その政治家への道程において「自己目的化」の裏心が一切なかったのだろうか。 もしもその種の魂胆が少しでも内心に漂っていたことを認めるならば、今回のスパコン研究に関する「自己目的化」発言も撤回して欲しいものである。
目先の利害を争う政治家とは異なり、常に長期展望で研究に励んでいる学者研究者の「自己目的化」を完全否定するとしたなら、それは科学者の人格否定でもあり、この世の科学の未来は無いに等しいのではなかろうか?
歴史的大震災が発生したこの期に及んで、国政を担う政権幹部及び野党こそが「自己目的化」のために彷徨う日々を見るにつけ、忍びない思いの国民が大多数であることを政治家どもは少しは自覚した発言をしてはどうなのか!
このスーパーコンピューターに関しては一昨年、民主党政権の参院議員蓮舫特命担当大臣が新政権の売り物である“事業仕分け”において「日本が世界一でないとけないのか。2位じゃダメなのか。」等々と発言し、世の科学者達の間で物議を醸したことに関しては皆さんも記憶に新しいであろう。
「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにおいても、その物議の様子を取り上げているためここで少し復習させていただくことにしよう。
新政権の元タレントでもある蓮舫特命担当担当大臣が、事業仕分け担当議員だった時に残した有名な“格言”、「世界一になる理由は何かあるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
この蓮舫氏の発言に関して、例えばノーベル賞受賞者であられる野依良治氏は「全く不見識であり、将来歴史と言う法廷に立つ覚悟はできているのか」とのさすが!と唸るような文学的かつ普遍的コメントを述べられた。 また同じくノーベル賞受賞者であられる利根川進氏も「世界一である必要はないと言うが、1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と反論された。 歳費削減を目指す政治家と世界の第一線で活躍する研究者という立場の違いはあれども、原左都子はこの論議において研究者側の発言に軍配を挙げたいのだ。 世界の最前線で業績を残そうとする人材には、そもそも2番でいいなどとの発想はあり得ないのである。そんな甘っちょろい思いが脳裏をかすめた時点で、凡人研究者の道しか残されていなかったことであろう。
これは教育論にも繋がる議論である。 どうも今時の公教育は生徒を“横並び”させておきさえすれば表面上安泰であるし教育が施し易い故に、それを「平等」に置換して安易な教育に走っているのではないのか? との論評を、本ブログのバックナンバー「横並び教育の所産」(2007年9月著)において既述している。
この公教育の所産なのか、まさにSMAPが歌うように「私は生まれながら“オンリー1”の存在なんだから、(努力なんかしなくても)世の中で認められるんだ!」と勘違いする若者が量産されているように日頃私は感じるのである。 これこそが、現在の日本の衰退と国際競争力の喪失を創り上げている元凶なのではないのかとの危機感さえ抱くのだ。 もちろん「弱者」は保護したい。 だが決して、公教育が正面切って「弱者」を量産することを正当化してはならない。 公教育とは、努力する国民性を育て続けるべきなのだ。 これこそが今後この国を建て直すべく公教育が担う課題であり役割であると、原左都子はここで断言しよう。
国の財政健常化のためには、蓮舫氏がおっしゃるように“2番”であってもいい分野もあるかもしれない。 それは分からなくもないが、選挙で当選さえすればにわかに代議士になれ、その後ひょんな発言から名前さえ売れれば大臣にまで上り詰めてしまう国会議員と比較して、科学分野研究者達の幼少の頃よりの長年に渡る日々の尋常ではない努力の程を思うと、私にはどうしても研究者側の味方以外の選択肢はあり得ない。
(以上、「原左都子エッセイ集」複数のバックナンバーより引用、要約)
さて、ここでスーパーコンピューターなるものの我が国における歴史に関して簡単に説明しておくことにしよう。
日本に於けるスパコン開発の歴史には、官学主導による国策、及び産業界による実生活上におけるスパコンの利用や設置という二つの流れが存在するようだ。
この二つの流れのうち、文科省が推進する日本の科学技術政策において2006年より「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始した。 この頃は我が国のスパコン研究開発力は世界一を誇っていたとのことだ。 だが2009年には米国のスパコン開発の更なる躍進により、日本はこの分野において一位奪還が出来ない見込みとなった。
そして一昨年の“事業仕分け”において、当プロジェクトは蓮舫氏の発言をきっかけとして民主党政権により「予算計上見送りに近い縮減(事実上の凍結)」と判定されたため、その後多数の議論が交錯することと相成ったのだ。
ところがノーベル賞レベルの世界的科学者達から痛烈な批判を受けた政府は、軟弱にも結局この判定を見直す方向転換をした結果、2010年度予算として227億円をスパコン開発に計上したとのいきさつのようだ。
ここで一旦原左都子の私論に入ろう。
蓮舫氏による「2位じゃダメなんですか?」の軽薄発言で世界的科学者から痛烈な批判を受けたからといって、政権のマニフェスト主要項目である“事業仕分け”会議における決定事項を、いとも簡単に翻すその国政の軟弱さとは一体如何なるものであるのか?
国策巨大プロジェクトに関する議論に於いては、研究開発目的や産官の提携のあり方、その波及効果等々の諸課題において掘り下げるべき様々な論点があったはずである。
そして技術研究開発における費用分担に関しても、今後も国が負担し続けるべきか、あるいは今後は民間活力に委ねるべきかとの議論も両者間でとことん重ねた末にその答を導くべきではなかったのか? もしも民間に委ねる結論を下した場合、そもそも国家予算外として“事業仕分け”対象から外すとの選択肢も存在したはずである。
今回、理研と富士通が約1120億円をかけて開発中のスパコン「京」が世界一の名誉に輝いたことを受けて、理研理事長の野依良治氏は「我が国の産業技術が健在な証しでうれしい。やはりトップを目指さなきゃいけない」との談話を公開したそうである。
これを聞いた蓮舫行政刷新相氏曰く、「心から敬意を表したい」との返答をしたらしい。
ところが、蓮舫氏による追加コメントがこれまた感情的かつ貧弱で何ともいただけないのだ……
「極めて明るいニュースで関係者の努力に心から敬意を表したい。国民の税金を活用しているので、ナンバーワンになることだけを“自己目的化”するのでなく、どうやって将来の明るい夢につなげるか期待したい」とのコメントを述べたらしい…。
再び原左都子の私論に入るが、今回のスパコン一位に輝いた研究が官民共同研究であることを鑑みた場合、今後はこの種の研究を国税に頼るのではなく完全民間委託するという選択肢にそろそろ思いを馳せてはどうなのか?
それから、科学技術の開発において現場の研究者の「自己目的化」のスタンスをお上の一大臣氏から全面的に否定されてしまったならば、世の科学者達は誰しも世界に名立たる業績など残せないのではないかと、元科学者の端くれの原左都子でさえ懸念するのである。
蓮舫さんにお聞きしたいのだが、あなたは何故に政治家になられたのであろうか?
その政治家への道程において「自己目的化」の裏心が一切なかったのだろうか。 もしもその種の魂胆が少しでも内心に漂っていたことを認めるならば、今回のスパコン研究に関する「自己目的化」発言も撤回して欲しいものである。
目先の利害を争う政治家とは異なり、常に長期展望で研究に励んでいる学者研究者の「自己目的化」を完全否定するとしたなら、それは科学者の人格否定でもあり、この世の科学の未来は無いに等しいのではなかろうか?
歴史的大震災が発生したこの期に及んで、国政を担う政権幹部及び野党こそが「自己目的化」のために彷徨う日々を見るにつけ、忍びない思いの国民が大多数であることを政治家どもは少しは自覚した発言をしてはどうなのか!