土井は疲れていた。これで三日、徹夜が続いている。休みたいとは思うが、会社の実情は予断を許さず、ここ一カ月が峠という重病人のような状態だった。あちら、こちらと、土井は新たな資金繰りに奔走(ほんそう)していた。幸い、土井の活躍のお蔭(かげ)で会社は不渡りを出さず、どうやら回復の兆(きざ)しが見え始めた。それとは裏腹に、土井の靴はすでに裏底が擦(す)り切れ、明日をも知れぬ状態であった。
「よく働いてくれたが、お前もそろそろな…」
会社からようやく解放され、家へ着いた土井は玄関で脱いだ靴を眺(なが)めながら、しみじみと呟(つぶ)いた。
『今、なんと仰(おお)せになられました? それは余りに攣(つ)れない申しよう…』
んっ? 靴が話した! いや、そんな馬鹿な話はない。靴が話す訳がない! と、土井は靴を手に持ち凝視(ぎょうし)した。
『私(わたくし)でござります、ご主人さま! これだけ奉仕せし身を、ご無体にも、お見限りになられるとは…!』
靴から出た時代言葉の声は、確かに土井の耳に聞こえた。土井は、ああ、過労のせいの幻覚か…と思った。靴を玄関下へ置いた土井は、奥の間へ入ろうとした。
『お待ち下さりませ、ご主人さま!』
土井の背にまた声がした。土井は少し怖(こわ)かったが、思いきって振り返った。すると、玄関下へ置いた靴が微(かす)かに震動していた。
『私が申すのは、決して保身に身を窶(やつ)すいい訳などではござりませぬ。歴然とした理由があるのでござります』
「どういうことで?」
いつの間にか土井は靴に話しかけていた。
『私が、かく申すは妙かとは存じまするが、ここは一つ、ご主人さまのために申しておかねばなりますまい。なにを隠そう、私はあなた様の守り神なのでござります。この神足(じんそく)を後生大事になさりますれば、あなた様の幸せは疑うべくもなし。家内安全、家運隆盛!』
どこかで聞いたような言葉だ…と、土井は思った。
「で、私にどうしろと?」
『それでござります、ご主人さま。私はもうあなた様のお足になることはできませぬ。しかしながら、ここに鎮座し、他の靴どもに霊気を与えることにより命(めい)を下(くだ)すことはできるのでございます』
「なるほど…」
『さすれば、私めを靴箱の上へ置き、安置下さりませ! 十日に一度、いや、ひと月に一度ほども塵(ちり)を払って下さりますれば、過分の幸せにて…』
「ああ、そうなんですか? じゃあ、そうさせてもらいます」
『なにとぞ、よしなに!』
次の瞬間、靴の微かな震動は止まった。土井の額(ひたい)に脂汗(あぶらあせ)が滲(にじ)んだ。土井は顔面蒼白(がんめんそうはく)となり、奥の間へ駆け込んだ。
その後、土井は聞いた通り、その靴を一段高い靴箱の上へ丁重に安置した。それ以降、土井の人生履歴は右上がりの隆盛を極め、一家は繁栄を続けた。
THE END