残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖②》第二十五回
同心長屋で近所だったこともあるが、この想いは堀川へ入門したことで頓挫した。そして、この娘である。店の名が『水無月』と迄は分かったが、娘の名は分からない。いつの間にか、蟹谷を訊ねた経緯が立ち消えている。こんなことでは駄目だ…とは思うが、この感情の迸(ほとばし)りを押さえるのは困難なように左馬介は感じた。
娘は串団子と茶を置き、幾らか左馬介を意識したのか足早に奥へと去った。左馬介も同様に意識していたから名を訊きそびれてしまった。腰掛け茶屋の名が水無月と分かっただけでもいいか…などと思いながら、左馬介は八文を床机の上へ置いた。
「ここへ置いておきます!」
そう云って左馬介が立ち上がった時、店奥から娘が、「また、どうぞ!」と声高に返した。水無月と書かれた店奥前の暖簾が微かに揺れたように左馬介は思ったが、娘の姿までは見えなかった。未練めいた雑念が左馬介の胸中へ蟠(わだかま)って残った。
腰掛け茶屋を出ることは出たが、これといった当てもなく、左馬介はそのまま物集(もずめ)街道を溝切宿方面へと漫(そぞ)ろ歩いた。時は坤(ひつじさる)の刻になろうとしていた。昼過ぎから蔭り始めた空模様は、この頃から次第にその薄墨色を濃くしだした。