あんたはすごい! 水本爽涼
第百十六回
こうなると、もう間違いなく心はパニック状態へと陥(おちい)っている。私は空き地に駐車した車へ飛び込むと車を急発進させた。すでに運転からして平常心を欠いている…と自分にも分かるのだが、もうこの状況なっては、どうしようもない。半分方、心は動揺していて、事故を起こさないように運転するのが関の山で、私は車を減速させた。夕闇が迫る一本道を十分ばかり走らせていると、心はようやく落ちついてきた。冷静になると、みかんの酒棚に置かれた玉が霊力を発して私に意志の声を伝えたのだ…と思えた。私の現在地は、所持している小玉で分かるのだろう…と、また思えた。外は早くも、とっぷりと暮れ、ヘッドライトを点灯させた。腕を見れば、もう五時過ぎである。半ドンの昼から禿山さん宅を訪れたのだが、随分、長居したことになる。今日は上手い具合に火曜なのだが、この時間帯だとすでに眠気(ねむけ)会館の教室は閉じられているに違いない…と思えた。ここでも私の詰めの甘さを思い知らされた。火、土の週二回と聞いた時点で、何時から何時まででしょうか? と訊ねておくべきだった。加えるなら、年末年始のスケジュールも訊く要があった。完全な手抜かりである。そんなことで、この五時過ぎだと沼澤氏をどこで捕捉できるのか皆目、見当もつかなかった。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣③》第二十七回
店の番頭が茶を淹れて左馬介の前へ置く。
「すぐ、旦那様はお戻りになると存じます…」 ひと言だけ云うと、それ以上は何も話そうとはせず、番頭は立ち去った。
喜平が店に戻ったのは暮れ泥む夕刻であった。何が、いったい、すぐだっ!と、左馬介は番頭の物云いに幾らか腹立たしかったが、それも仕方がないか…と我慢した。兎に角、喜平に幻妙斎との仲介をして貰わないと、尋常に会えそうにないのだ。やっと会えた喜平に、そのことを左馬介が云うと、「いや、それが…。先生は誰も通すではない」と申されましたと一蹴した。そう喜平に云われては、左馬介も返す言葉がなかった。しかし上手くしたもので、幻妙斎が部屋の外へ、その姿を見せた。
「先生!!」と、左馬介は、思わず叫んでいた。
「おお…、左馬介ではないか、如何した?」
「いえ、どうということでは、ないのですが…」
左馬介は、幻妙斎の余りの元気さに、少し調子が狂った。この師の様子を見る限り、樋口の一報は、全くの作り話に思える。
「さる御方から、先生のお加減が優れぬと、お聞きしましたものですから…」