7月31日(水曜日)
阪神タイガースが勝利した翌日は、爽やかな気分です。スポーツ新聞を読んでいる所に電話が掛かって来ました。時計を見ると5時半過ぎです。
こんな早くからの電話は、親類の誰かが亡くなったか、息子に何かあったかの電話です。電話を取ると妹からの電話で、「従兄」が深夜1時に亡くなったの連絡でした。
話しによると、昨日急に体調に異変が生じ救急車で入院したそうです。付き添って行くものの、親子で無いので、本当の事は医師は言ってくれません。
後で判明したのは、「今夜が山」と家族が到着したとき、医師は告げていたとのこと。妹が言うには7月31日は「従兄」の74歳の誕生日。こんなことが有るのですね。
誕生日であれば、「誕生日おめでとう!」のはずが、この言葉を聞かずにあの世に旅立つとは、まったくお気の毒です。
通夜は今日は無理と思っていましたが、昼前に連絡があり通夜は31日で、告別式は8月1日とのことでした。とにかく葬式の後の宿の予約をせねばなりません。我が家の常宿、国民宿舎「水明荘」を予約出来ました。これが土曜であれば満室で、きっと断わられたことでしょう。通夜の参列は時間的に無理なので、告別式には行くと告げ電話を切りました。故人の奥さんは、10年ほど前に交通事故に会い、交通事故の被害者で半身不随の車椅子生活です。昨日まで二人暮らしで、旦那さんが食事やら洗濯、掃除をやっていました。
これはえらいことです。告別式は11時からなので、翌朝5時半に車で出発しました。鳥取県のこれから行く所には、「大雨警報」が発令されています。大雨を求めて突っ込んで行きました。もう直ぐ到着と言うのに、高速スピードでワイパーを作動させるも、前方が良く見えません。天気予報は大当たりです。
9時に弟宅に到着すると、雨が上がり傘は不要になりました。あの大雨の中を通ってきたのに、「これは何?」まさかの思いです。11時からの告別式に会わせ、10時に告別式場 「JA鳥取中央メモリアルホール報恩舎」に出発。車で25分ほどの距離です。今日は二組の葬式の案内が出ています。1組目は8時半開始と、都会ではありえない早い時間です。
11時から始まった告別式も、12時過ぎに終わりました。その後、4月に採石場跡地に新しくオープンした、 「鳥取中部ふるさと斎場」で火葬です。
1時間半後に故人は、骨になって再び現われました。その後、お寺さんで49日の法要です。
普通よくあるのは、初七日を引き続いて行われますが、49日までやるのは初体験でした。これは喪主を務めた長男が遠方と言うこともあり、また母親も近々長男の所に引っ越しをせねばならないので、やったとのことです。
本堂で読経とセミの鳴き声の競演です。ヒグラシの「カナカナカナ♪」の鳴き声が、もの悲しく聞こえます。その後再度葬式を行ったメモリアルホールで仕上げです。
火葬場で、お昼の弁当を頂いてから2時間ほどしか経っていないので、お腹はまったくと言っていいほど空いてはおりません。それこそ半分も食べれませんでした。
仕上げが終われば、時間は6時になっています。今夜の宿「水明荘」で温泉に入り、湯ったりしました。しばらくすると、弟夫婦が部屋にやってきました。弟は飲んだらシャワーだけと、もしものことを考えて風呂には入らないと言っています。持込の缶ビールを二人で飲みましたが疲れがドット出て来て、途中で布団の中にもぐり込みました。目が覚めれば、弟夫婦は帰っていました。途中に目が覚めれば、飲んで睡魔を待つしかありません。冷蔵庫に入れていた5缶が無くなり寝ました。
翌朝は9時から納骨でしたがパスしました。亡き友人の仏壇に線香でもと立ち寄りましたが、生憎留守で残念です。今日はグラウンドゴルフの発祥の地「泊」で大会があり、その歓迎のノボリが道路沿いに立っていたので、ひょっとして留守ではなかろうかと想像はしていました。友人の奥さんはグラウンドゴルフ愛好家で、昨年も大会のお手伝いをしていました。父母の墓前に参り一路京都へ。夕方であれば中国道も混みますが、昼間の東行きはス~イス~イ。予定通り12時過ぎに帰宅できました。
男の健康寿命は平均74歳位と聞けば、今が私の「華」ではないでしょうか。目の先には、下り坂が待ち受けているようです。
長く人生を楽しみたければ、体を鍛え、ストレスを溜め込まないよう心掛けをせねばと肝に銘じています。