夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 最終章 『またん めんそ~れ・・』

2017-01-20 14:06:02 | ささやかな古稀からの思い
      最終章 『またん めんそ~れ・・』

私たち夫婦は、15年前頃に沖縄列島を観光周遊をした。
私が現役時代であったので、4泊5日でジャル・ツアーズの旅行会社を利用し、
JAL直営のホテルに宿泊した。

石垣島に連泊し、西表島の周辺の島々を周遊し、
本島に来て、恩納村のリゾート・ホテルに宿泊し中北部の観光を楽しみ、
首里のシティ・ホテルに宿泊した後、南部観光をしたりした。
観光周遊の移動としては、JALライナーのバスでホテルからホテルの間を観光周遊、オプションをまじえて、周遊した。


定年退職後の4年生の今は、
家内の母が『ひめゆりの塔を観てみたいわ・・』と、
娘の家内に話したことから、私たち夫婦は高齢者の為のプランを設定した。

那覇のビジネス・ホテル『アパホテル那覇』に連泊し、南部観光をめぐり、
恩納村のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン・スパ』に6連泊して、中北部の観光を周遊した。
今回は家内が殆ど選定し、東急の旅行会社を通して、予約した。

移動の交通は、初日に『ゆいレール』を那覇から首里に一度ばかり利用し、
最終日のリゾート・ホテルの各所から那覇空港へのリムジン・バス以外は、タクシーで移動した。

食事に関しては、朝食はホテルのバイキングの和・洋食を頂き、
昼食は出先の観光地で簡素なおにぎりなどを中心に、
夕食は日常住民の方たちが利用されている沖縄料理の食事処、居酒屋に、
滞在先から15キロ以内の処にタクシーで往還した。

私たち3人は、それぞれ美味しそうと思われる料理を賞味し、
お互いに分け合って、夜のひとときを甘受した。

地魚の平アジの煮付け、地魚の刺身の盛り合わせ、刺身のニンニク刻み、
豚の豚足、耳の刻み、島ラッキョウ、ダイコンのわさび漬け、ヘチマ煮、
ヤシ蟹、マングローブ蟹(ガザミ)などが、私としては沖縄らしい味として賞味した。

最後の宿泊の夜には、ホテル館内の『かりゆし料理』で頂いたが、
上質でどなたでも賞味できる和食コースであった。

そして、家内たちはトロピカル・カクテルのような
泡盛をベースに南国のフルーツ入りのカクテルを呑んだりしていた。

私はオリオン・ビールを呑みながら、
家内たちに『またん めんそ~れ・・』
と笑いながら、言ったりした・・。

家内と家内の母は小首を傾げたので、
『俺も観光先で見かけたのであるが・・
See you agan・・とペンキで書かれた看板があったよ・・
この中で、youというのが、ouになっているの・・
おかしいなぁ、と思っていたら《y》が欠けていたの・・

いずれにしても、
ふたたび・・沖縄でお逢いしたいですね・・という意味だよね・・
こちらの沖縄の言葉だと・・またん めんそ~れ・・』
と説明したら、家内たちは笑いころげたりした。

その後、羽田空港に向かう機中で、私は『海洋公園』のつる植物園で、
めぐり逢え秘かに『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』と名付けた『ベンガル・ヤハズ・カズラ』を思い浮かべたりした。

そしてエメラルド・ビーチと称された浜辺を散策した後、
園内の別の一角で、ふたたび『美ら海桔梗』に再会できたりした。
        

私は美麗な花に再会できて、旅の記念の一葉として撮ったりした・・。
                        

このようなことを旅の終わり重ねたりした。

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第10章 夕陽を眺める時は、バーボン・ウィスキー

2017-01-19 13:58:46 | ささやかな古稀からの思い
    第10章 夕陽を眺める時は、バーボン・ウィスキー

リゾート・ホテルのベランダで簡素なテーブル、椅子があり、
6連泊の早朝、昼過ぎ、夜のひととき、深夜に海を眺めたりしていた。

雨の日もあれば、どんよりとした曇り、風の強い日もあり、或いは快晴に恵まれた日もあった。
               

日常生活の私は、日本酒の山形県の純米酒を呑み、ときにはビールを呑んでいる。

今回の沖縄本島の8泊9日は、
地酒の泡盛が呑めない私は、オリオン・ビールに徹し、夕陽の時にはバーボン・ウィスキーと秘かに希望していた。

那覇市内に於いては、泡盛ばかり目立つが、
肝心のバーボンは宿泊先の最寄のコンビニで小瓶の200mlを見つけ、
その横に大手の日本酒の辛口もあり、この二品を購入した。

リゾート・ホテルに於いては、
館内のコンビニでオリオン・ビールの350mlの6セットを何度も購入し、
ときには大手の味に欠ける日本酒を呑んだりしていた。

外出、館内の食事処の場合は、やはりオリオン・ビールとしていた。


5日目の時は、風もなく陽差し弱まりかけたベランダで、
海上の夕陽を眺めながら、私はバーボン・ウィスキーの小瓶の封を切った。

グラスに氷を五つばかり入れ、バーボンをそそぐだけのオンザ・ロックである。

私は南国のサンセットの情景には、バーボンのオンザ・ロックが相応しいと、
ここ20年ばかり夢をみていたのである。

濃厚な香り、むせかえる喉越しのバーボンを呑み、煙草を喫いながら、夕陽を眺めたりした。
      

至福のひととき、私は鼻歌を唄ったりした・・。


♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【 モンゴル800の『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu 】


私は3杯ほど呑むと陶然とし、
沖縄の復帰後の激動、リゾート観光地への変貌期の住民の労苦に思いを重ね、
胸が熱くなり、4杯目を注(つ)いだ・・。
                

                         《つづく》
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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第9章 乙女たちのエメラルド・ビーチ

2017-01-18 13:50:53 | ささやかな古稀からの思い
         第9章 乙女たちのエメラルド・ビーチ  

『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。

白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
               

その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
               

白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。

こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。


今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、
そして玉泉洞を私たち3人は観て廻ったが、幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。

タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。


エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で言った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の簡易カメラの写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で言われ、私は照れた。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。
               

                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第8章 旅先で投稿するには

2017-01-17 13:41:50 | ささやかな古稀からの思い
     第8章  旅先で投稿するには

私はブログの投稿文は持ち歩きできるモバイルを所有していないので、
旅先で投稿するには原則としてできない。

しかしながら宿泊している処で、バソコンなどが利用しやすい環境の場合に限り、
投稿してきたが、今回の旅のこれまでの章は、
たまたまこの宿泊しているりゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ  』の一角からであった。

私たちの宿泊しているタワーから長い通路を歩いて、
               

メイン・ロビー、食事処のレストランなどに向うとちゅうで、
        

こうした庭園、プール、結婚式の野外セレモニー場所などを観たりして歩いた。
               

こうした情景は、まぎれなく南国のリゾートホテルの景観かしら、と私は微笑んだりした。
               

そしてメインロビーの一角に、インフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所があり、
この片隅で私は投稿していた。

この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。

このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。

私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。

この相談所の女性たちと、私は幾たびか談笑をした・・。

こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は言ったりしていた。

『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。

私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは少なくとも40歳以上お若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。

この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。

そして私は、お若い20代の沖縄美人を記念に写したかったが、
もとより情報プライベートの制約の風潮により自制した。

                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第7章 『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され

2017-01-16 13:32:02 | ささやかな古稀からの思い
     第7章 『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され

その後、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内たちは『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。


いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、私の目を楽しませてくれた。







     

そして遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
   

或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。


植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。


        

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第6章 『あなたに』・・♪

2017-01-15 13:22:27 | ささやかな古稀からの思い
     第6章 『あなたに』・・♪

店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。

そして、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。

♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
 あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
  (略)
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】

私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度であった。

たまたまモンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。

この当時の私は齢ばかり重ねた63歳の身であったが、
好感できる若者である程度しか、さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そして和(なご)みを感じながら、
瞬時に魅了された・・。

私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
                   

或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。

♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
  (略)
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】

                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第5章  風光明媚なリゾート地

2017-01-14 13:16:56 | ささやかな古稀からの思い
     第5章  風光明媚なリゾート地

10月31日
那覇市に2日滞在した後、私たちは快晴の中、風光明媚なリゾート地 を目指して、
タクシーで北上した・・。
私は周辺の情景を眺めていると、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、
過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。

やがて、かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
               

家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。
        

この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
               

沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。

遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私たち三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。

店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。
                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第4章 クファデーサーの樹の下で

2017-01-13 13:10:16 | ささやかな古稀からの思い
   第4章 クファデーサーの樹の下で

この後、私たちは『ひめゆりの塔』に行き、
               

『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。
               

そして私は、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に言った。
               

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々に愛(いと)しまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に言ったりした。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、私たち3人は、タクシーで『平和の礎』のある『平和祈念公園』に移動した。
        
                

そして私たちは、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。
               

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。
               
つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。
               

                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第3章 『ずゐせんの塔』に花をささげながら

2017-01-13 01:03:07 | ささやかな古稀からの思い
     第3章  『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をして

私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。

私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。・・》

私が無知で、恥ずかしながら想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。

首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。

このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。


私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
私たち夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。
               

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

そして『アパホテル』からタクシーで『ずゐせんの塔』の近くで下り立った。

『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
        
               

私は『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
家内たちも花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。
                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第2章  琉球文化の一端として

2017-01-12 12:53:56 | ささやかな古稀からの思い
     第2章  琉球文化の一端として

那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』にチェックイン後、最初には玉陵を観て廻った。
        
その後は、首里城を観て廻った。
        
               
私たち夫婦は15年前に来ていたので、
歴史館、陸墓は彼方の時代の時の再現を確認する為であり、
沖縄の明治以前の歴史を書物で学んできたが、王朝の興亡には私は余り興味がなく、
ただ中国、朝鮮、薩摩との交流は、改めて考えたりしいた。

琉球の置かれた状況をそれぞれの時代には、どのような形態であったのかしら、と思いを馳せたりした。

この後、牧志市場で魚介類を1階で買い求め、
2階が食堂風で食べさせてくれる所で、ヤシ蟹(カニ)とイカサミ等の周辺で獲れるのを賞味した。

家内たちは色々と賞味していたが、
私はオリオンビールを呑みながら、ヤシ蟹の味噌を味わえば、充分である。
                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 序章 ささやかな旅路の前の思い 

2017-01-12 06:29:20 | ささやかな古稀からの思い
          序章 ささやかな旅路の前の思い

過ぎし2007〈平成19〉年の夏が過ぎた頃の夜、
家内はいつものように夜の7時過ぎに、独り住まいの家内の母と電話連絡を終えた後、
『お母さん・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したいって・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言った。

『やはりお義母(かあさん)さんは・・昭和5年生まれだったし、
戦時中は(新潟県)高田の女学校で、軍事工場の支援に強制従事させられた、と聞いたことがあったし・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうなのよねぇ・・何か平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、言っていたし・・』
と家内は私に言ったりした。

この頃の私たち夫婦は、私が定年退職する直前の2004〈平成16〉年の秋、
家内の父は病死した後、独り住まいとなった家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行を重ねたり、
家内の母の要望で、初めて飛行機に乗って、初めての北海道の旅を叶(かな)えさせたりしてきた。

『お義母(かあさん)さんの・・死ぬまでに一度は・・
俺たちにとっては、何よりも弱い言葉だし・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

結果的には、この年の2007〈平成19〉年10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦が高齢者の家内の体調を配慮して、沖縄本島の一部を訪れた・・。


私の沖縄に関しての思いは、1964(昭和39)年の秋に東京オリンピックが開催された時、
大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時、
中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

高校時代以来、時事に興味を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かであったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。

この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズの企画した宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に石垣島に連泊した時、石垣島の島内を周遊したり、
西表島に船で訪れて、仲間川のマングロープの中を小舟で遡ったり、その後はカンビレーの滝まで散策したりした。
その後は隣接した由布島、そして竹富島などの八重山諸島を周遊したりしたが、
カメラを持参していなかったので、心の片隅に残っているだけである。

そして今回の沖縄の旅する10日前の頃に、総合月刊雑誌の『文藝春秋』に於いて、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿文で、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
『ずゐせん学徒隊』のことを学び、多々教示を受けたりした。


     第1章  機中、ひとり涙をながせば

10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空機は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日学んだ『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿した後、
この私のコメント欄に、沖縄の男性より、『友の碑(いしぶみ)~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。
改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

航空機の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。
                         《つづく》

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沖縄本島に滞在旅行に際して、改めて沖縄の私のささやかな思いは・・。

2017-01-11 11:21:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
ここ四日前の頃から、日本列島の南海にある沖縄本島に、
1月12日より9泊10日で滞在旅行をするので、家内と旅行の準備をしたりしている・・。
               
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国のポッタム宣言を受け入れて、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、
そして8月15日の敗戦なのに『終戦記念日』称している日には皇居に向い、黙祷を重ねたりしてきた・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ50数年、黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
          

沖縄に関して、恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

そして高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに、後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、沖縄戦は事実上集結した日である。

そして沖縄県は『慰霊の日』として、戦没者追悼式が行われている。
          

何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
せめて『慰霊の日』は、沖縄に向って黙祷を重ねたりしてきた。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記されている。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。
《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
          
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》

注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
          

私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
                     

そして今回、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。

この後、佐野眞一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。

或いは福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示されたりしてきた。

そして大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
沖縄の現実の難題を多々学び、無力な私は憂いたりしている。
          

今回、沖縄本島のサンセットビーチとして名高い北谷町にあるリゾートホテルに
1月12日より9泊10日で滞在旅行をする。

そして私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、
家内は日頃の家内の母の介護、そして年末年始に孤軍奮闘した疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごす予定としている。

この間は過ぎし年に、沖縄本島に訪れ、こうした中で私がどのような思いで旅をしたのか、
お読み頂き、ご笑話頂ければ幸いです。

そして私は、最後に日本はどのような主因で敗戦になったか、つたない私なりに掲載する。


※コメント欄、しばらく閉鎖させて頂きます。

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まもなく母の命日に際して、改めて私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いを発露すれば・・。【後編】

2017-01-10 14:56:48 | ささやかな古稀からの思い
祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、遠い親戚の村長、そして地元の村長に引け目を感じていた、
と私は後年に判ったように思えた・・。

こうした関係で、跡取りとなる長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

やがて長兄は、当時通っていた地元の村立・小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、祖父が亡くなる直前に周囲の期待に応(こた)えたりした。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

こうした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
             

そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめた・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私たち兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、まもなく私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡されたりした。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で云っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に云った。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近い国際電電公社(現在、KDDI)の社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、私は何とか人並みにPTAの会費を支払うことができたりした。

そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

こうした中で、各家の大人に囲まれた酒席などは、何かと戸惑い気苦労があった、
と私は後年に理解できたりした。
             

この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・
と私は何となくラジオから覚えた、美空ひばりさんが唄われた『越後獅子の唄』の歌に魅了されて、
かぼそい声で唄っていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
                       

私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957年(昭和32年)の春、
やむえず田畑を売り、ひとつの最寄駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
小学5年の妹は音楽室でピアノを弾き、たまたま先生に誉(ほめ)られた、と母は聞いて有頂天になり、
無理して高価なグランドピアノには羨望であったが、廉(やす)い価格のアップライトピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。

その後、私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、まもなく新設されたレコード会社に移籍させられた数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

ここ50年の兄妹は、日常はクラシック音楽から遠ざかった人々となり、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは、私だけとなったりしている。

そして、母が苦労して購入したピアノは、やがて10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。


あの当時の1958年(昭和33年)の頃は、東京の都心に近いサラリーマンの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した家庭が多かったりしていた時代であった。

このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。
                       

やがて私が都心の高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち兄妹は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込みながら奮闘して働いた・・。
こうした関係で、やがて私たちは、世間並みの生活レベルになったりした。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりした。

そして後年に私は知ったことは、自治体から交付される調理師の免許さえあれば、
このような旅館は経営認可でき、尋常小学校しか卒業していない母は、
調理師の講習を得て、免許証を習得した、と私は母から教えられたりした。


確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私も大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは、専門学校に学ぶことができたりした。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいてくれた成果として、
ふつうの生活ができ、やがて私達5人の子供は成人できたのは、まぎれなく事実である。
             

まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、やがて母はアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、アパートの別棟に母が住んでいる中、私は同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
生家の近くに一軒屋を建てたりした。

そして2年後に次兄は自営業で経済破綻して、自宅の一室で毒薬を服用して自裁した。

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。

何よりも、親より先に逝く次兄に、母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。
そして特にこれ以降、私たち夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。
             

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮、そして『母の日』の時に手渡していた。


この頃、遠い親戚の裕福のお方が、身体を壊して、高級な介護施設に入居されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった時の自身の身を想定し、長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたりした。

こうした母の根底には、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思いがあったと思われる。

そして近日に植物人間のように状況で、介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのである。
             

やがて昭和の終わる頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に、ためらいながらやがて応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が高揚した明るい声で私に言ったりした。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。

こうした中で、母はダンスのサークルのお友達と喫茶店に行き、紅茶、コーヒーを飲みながら談笑した、
と私は母と週間ニュースのようになった電話で、教えられて微笑んだりした。
             

母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春の頃、死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。

お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった・・。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したりした。


私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は生家の長兄宅で出来うる限り盛大に行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、初めてご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
             

納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったりした。

世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも、心は重かったりした・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。

そして私たち夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたりした。
             

秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。

何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思いながら、山奥の素朴な温泉地とした。

私たち夫婦は防寒服で身を固めて、積雪のある幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れていた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、車も通らず人影も見えなく、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
そして雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私たち夫婦だけであった。

こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私たち夫婦は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったりした・・。
             

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、この当時は農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、家族一同は暖をとったりしていた。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で、鋸(のこぎり)で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、陽当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈(かまど)で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)ったりした。
                     
   
やがて1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い降る朝となり、私たち兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母のひとりが私に言いながら微笑んだりした。

私と妹は微苦笑し、粉雪が舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。


私は今でも、雪が舞い降る情景を見たりすると、
ときおり亡き母のしぐさ、言葉が思い重ねることがある・・。

母の命日が近づくと毎年、私たち夫婦は妹ふたりと、お墓参りをしている。
そして母の好きだった花をささげて、やがて食事処で、
お母さん・・あの時は・・などと、私たち4人は微苦笑を重ねて、早や19年が過ぎている。


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まもなく母の命日に際して、改めて私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いを発露すれば・・。【前編】

2017-01-09 16:20:55 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の72歳の身であり、
昨日、私の母の命日の日が近づいてきたので、私たち夫婦と私の妹の2人で、この時節に4人でお墓参りをした。

今朝、小雨が降りしきる小庭を私は、ぼんやりと見つめ、亡き母の言葉、しぐさを思い馳せたりした・・。

私は小学2年の1953年(昭和28年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の私にとっては叔母がこの当時は未婚で、
母とこの叔母の尽力で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。

私が25歳を過ぎ、遅ればせながら何とか民間会社に中途入社できた後、
『母の日』、お中元、お歳暮の時節には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。
             

まもなく私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。

やがて私は生家の近くに一軒家を構えて、私たち夫婦は少なくともお中元、お歳暮の時節には、
独り住まいの母の宅に訪ねたりした。

或いは年末になると、家内は御節料理を一週間ぐらいで黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、料理して、
やがて御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げたりしていた。

そして独り住まいの私の母用に、我が家用、家内が世間並みに御節(おせち)料理を三段重として、
それぞれ三段のお重を私の母が亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年までは、
20年間ばかり続いたりした。

こうした時、大晦日に私は家内から手渡された三段のお重を配達メールボーイとなり、
お酒を持参しながら母宅に届けて、おしゃべりな母と私は純粋におしゃべりを受け継いできたので、
少なくとも毎年3時間は談笑したりしてきた。

やがて私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。

古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、ときおり私も母の言葉やしぐさを思いだされる・・。
                          

私の母は、婦人系の癌で広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。
             

やがて私の生家である長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、ご近所のお方のご尽力で、生家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたりした。

やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。
                       

母の生家は、明治の中頃に国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む裕福な家で、
跡継ぎの肝要なこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された・・。

やがて私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の生家に貰われてきたのは、一歳前で1921年(大正10年)であった。

私の祖父は、農家で16代目となり、田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。

そして祖父は、男2人、女も4人の子があったが、こうした中で祖父の妻は、末児の女の子を出産した後、
まもなく亡くなった。

こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。
             

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は何かと家事に関しても手伝いとして使われた。

今の歳で表現すれば13歳の少女であり、この当時は祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。

後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は私の悪筆と違い、
綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であった父が村長されていた男性が、やがて都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・家柄も良かったけど・・
大学まで行けたのだから、幸せな方・・』と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが、初めて解かった。

そして母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、ため息をついたのを私は忘れない・・。
             

母は祖父の子供である男2人、女も4人に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の生家から多くの金銭の贈り物で、田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供である跡取りの息子と母が17歳になった時、結婚した。
母は祖父、そして父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で、生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思い深めたりした。

後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあったりした上、
親族、親戚の交際は、何かと人一倍の気配りが必要で・・と私に語ったことがある。


父が死去される前の1952年(昭和27年)、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、風呂桶に入れるために、バケツに満たそうとしていた。
つるべ落としのたそがれ時だった。

♪あなたのリードで 島田もゆれる・・
母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつの『芸者ワルツ』を小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死する場合もあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、祖父、父は今度は女の子と期待していたらしい。

やがて私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。

母は幾つになって里子の身を自覚されたのか解からないけれど、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、と私は後年に思ったりした。


1953年(昭和28年)3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの私たち兄妹の父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)5月に亡くなった。

こうした結果、どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
             

このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の生家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が娘さんを同行してきた。

この娘さんは、こ当時の映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかょ、と子供心でも瞬時で感じたりした。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたりしていたからであった。

そして私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。

『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、地面を見つめていた。
             

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。
                       
この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。

 (つづく)※明日、後編を投稿致します

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天上人の母に私たちは見守られて、やがて幾たびか年を重ね、早や19年は過ぎ去り・・。

2017-01-08 15:46:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

本日、私たち夫婦は妹の2人と待ち合わせしている小田急線の狛江駅の付近にある喫茶店に向った・・。
そして10時半過ぎに私たちは合流して、通称『泉龍寺』と称されるお墓に向かった。
                       
              
私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、13日になったまもない深夜に亡くなったのは、
私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは、私の生家である実家の長兄宅で葬儀が始まった・・。
                        

私の祖父と父は、私が今住んでいる近くで、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある都心の郊外に見られる旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂いなくなり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、やがて42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は跡継ぎの肝心な父が亡くなり、落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。

この当時のどの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、家は急速に没落し、生活は困窮となった。

このような生活苦の中で、やがて母はやむなく転業し、ある処で果敢にラブホテルのような旅館を経営して、
仲居さん二人と共に日夜奮闘して、私たち兄妹の生活費等すべてを捻出された。

この間、父の妹である叔母が嫁ぐまで、私たち兄妹は生家で育てられ、
私たち兄妹は、母と叔母のふたりに寄って育てられ、やがて成人したのである。
                       

母の葬儀は13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、ときおり風も吹き、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私は会社関係の方たちに辞退の連絡をしたりした。

こうした中、親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降り、風も吹き荒れる中に来宅して頂き、
私たち兄妹は恐縮しながら、出迎えたりした。すべて

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

やがて『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして2010年(平成22年)の『十三回忌』の法事があったりした。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹ふたりで、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、 付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は、妹のふたりも60代となった。
たまたま本日の8日は妹のひとりの関係で、母の命日に際してのお墓参りの日となった。
                        

寺院の境内は広く数多くの大木があり、空はどんよりとして曇り空で、風もなく静けさであった。

そしてお墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたので、私は感謝の一心で、やがて手を合わせたりした。

生前の母と私の家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父は私が小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このようにおだやかで・・』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、どんよりとして曇り空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


私たちは幼年期よりお互いに『・・ちゃん』付けで呼び合っているので、
平素、お互いに連絡し合ったりする中で、亡くなった母の話題になったりすると、
『XXちゃん・・あの時は・・お母さんは・・このように言っていたょ・・』と言ったりしている。

このように私たちは、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。
                        

この後、個室でゆっくりと昼食を頂くことができる食事処を妹のひとりが予約していたので、
小田急線の新百合ヶ丘駅の付近にある『梅の花』に5年ばかり愛用しているので、移動した後、
私たち4人は、ビールを呑みながら、多彩な料理を頂き、お互いに談笑を2時間ばかり、懇親を重ねたりした。

こうした中、お互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は、妹のふたりに話したりした・・。

私は今年の誕生日で73歳となり、家内は68歳、妹は71歳と69歳となる身であるが、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できる、と思いを深めたりした。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、4年前には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつの日にか私も、この世と告別するが、
自助努力も大切であるが、神様か仏様の采配によるので、私なりに1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは食事処の『梅の花』を辞した後、駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。

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