夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

まもなく母の命日に際して、改めて私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いを発露すれば・・。【後編】

2017-01-10 14:56:48 | ささやかな古稀からの思い
祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、遠い親戚の村長、そして地元の村長に引け目を感じていた、
と私は後年に判ったように思えた・・。

こうした関係で、跡取りとなる長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

やがて長兄は、当時通っていた地元の村立・小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、祖父が亡くなる直前に周囲の期待に応(こた)えたりした。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

こうした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
             

そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめた・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私たち兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、まもなく私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡されたりした。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で云っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に云った。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近い国際電電公社(現在、KDDI)の社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、私は何とか人並みにPTAの会費を支払うことができたりした。

そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

こうした中で、各家の大人に囲まれた酒席などは、何かと戸惑い気苦労があった、
と私は後年に理解できたりした。
             

この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・
と私は何となくラジオから覚えた、美空ひばりさんが唄われた『越後獅子の唄』の歌に魅了されて、
かぼそい声で唄っていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
                       

私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957年(昭和32年)の春、
やむえず田畑を売り、ひとつの最寄駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
小学5年の妹は音楽室でピアノを弾き、たまたま先生に誉(ほめ)られた、と母は聞いて有頂天になり、
無理して高価なグランドピアノには羨望であったが、廉(やす)い価格のアップライトピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。

その後、私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、まもなく新設されたレコード会社に移籍させられた数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

ここ50年の兄妹は、日常はクラシック音楽から遠ざかった人々となり、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは、私だけとなったりしている。

そして、母が苦労して購入したピアノは、やがて10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。


あの当時の1958年(昭和33年)の頃は、東京の都心に近いサラリーマンの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した家庭が多かったりしていた時代であった。

このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。
                       

やがて私が都心の高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち兄妹は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込みながら奮闘して働いた・・。
こうした関係で、やがて私たちは、世間並みの生活レベルになったりした。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりした。

そして後年に私は知ったことは、自治体から交付される調理師の免許さえあれば、
このような旅館は経営認可でき、尋常小学校しか卒業していない母は、
調理師の講習を得て、免許証を習得した、と私は母から教えられたりした。


確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私も大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは、専門学校に学ぶことができたりした。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいてくれた成果として、
ふつうの生活ができ、やがて私達5人の子供は成人できたのは、まぎれなく事実である。
             

まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、やがて母はアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、アパートの別棟に母が住んでいる中、私は同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
生家の近くに一軒屋を建てたりした。

そして2年後に次兄は自営業で経済破綻して、自宅の一室で毒薬を服用して自裁した。

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。

何よりも、親より先に逝く次兄に、母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。
そして特にこれ以降、私たち夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。
             

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで購入していた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮、そして『母の日』の時に手渡していた。


この頃、遠い親戚の裕福のお方が、身体を壊して、高級な介護施設に入居されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった時の自身の身を想定し、長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたりした。

こうした母の根底には、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思いがあったと思われる。

そして近日に植物人間のように状況で、介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのである。
             

やがて昭和の終わる頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に、ためらいながらやがて応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が高揚した明るい声で私に言ったりした。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。

こうした中で、母はダンスのサークルのお友達と喫茶店に行き、紅茶、コーヒーを飲みながら談笑した、
と私は母と週間ニュースのようになった電話で、教えられて微笑んだりした。
             

母が婦人系のガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした、

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春の頃、死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。

お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった・・。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したりした。


私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は生家の長兄宅で出来うる限り盛大に行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、初めてご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
             

納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったりした。

世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも、心は重かったりした・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。

そして私たち夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたりした。
             

秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。

何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思いながら、山奥の素朴な温泉地とした。

私たち夫婦は防寒服で身を固めて、積雪のある幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れていた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、車も通らず人影も見えなく、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
そして雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私たち夫婦だけであった。

こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私たち夫婦は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったりした・・。
             

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、この当時は農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、家族一同は暖をとったりしていた。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で、鋸(のこぎり)で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、陽当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈(かまど)で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)ったりした。
                     
   
やがて1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い降る朝となり、私たち兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母のひとりが私に言いながら微笑んだりした。

私と妹は微苦笑し、粉雪が舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。


私は今でも、雪が舞い降る情景を見たりすると、
ときおり亡き母のしぐさ、言葉が思い重ねることがある・・。

母の命日が近づくと毎年、私たち夫婦は妹ふたりと、お墓参りをしている。
そして母の好きだった花をささげて、やがて食事処で、
お母さん・・あの時は・・などと、私たち4人は微苦笑を重ねて、早や19年が過ぎている。


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