夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第4章 クファデーサーの樹の下で

2017-01-13 13:10:16 | ささやかな古稀からの思い
   第4章 クファデーサーの樹の下で

この後、私たちは『ひめゆりの塔』に行き、
               

『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。
               

そして私は、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に言った。
               

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々に愛(いと)しまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に言ったりした。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、私たち3人は、タクシーで『平和の礎』のある『平和祈念公園』に移動した。
        
                

そして私たちは、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。
               

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。
               
つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。
               

                         《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 第3章 『ずゐせんの塔』に花をささげながら

2017-01-13 01:03:07 | ささやかな古稀からの思い
     第3章  『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をして

私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。

私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。・・》

私が無知で、恥ずかしながら想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。

首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。

このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。


私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
私たち夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。
               

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

そして『アパホテル』からタクシーで『ずゐせんの塔』の近くで下り立った。

『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
        
               

私は『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
家内たちも花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。
                         《つづく》

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