夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

天上人の母に私たちは見守られて、やがて幾たびか年を重ね、早や19年は過ぎ去り・・。

2017-01-08 15:46:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

本日、私たち夫婦は妹の2人と待ち合わせしている小田急線の狛江駅の付近にある喫茶店に向った・・。
そして10時半過ぎに私たちは合流して、通称『泉龍寺』と称されるお墓に向かった。
                       
              
私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、13日になったまもない深夜に亡くなったのは、
私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは、私の生家である実家の長兄宅で葬儀が始まった・・。
                        

私の祖父と父は、私が今住んでいる近くで、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある都心の郊外に見られる旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂いなくなり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、やがて42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は跡継ぎの肝心な父が亡くなり、落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。

この当時のどの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、家は急速に没落し、生活は困窮となった。

このような生活苦の中で、やがて母はやむなく転業し、ある処で果敢にラブホテルのような旅館を経営して、
仲居さん二人と共に日夜奮闘して、私たち兄妹の生活費等すべてを捻出された。

この間、父の妹である叔母が嫁ぐまで、私たち兄妹は生家で育てられ、
私たち兄妹は、母と叔母のふたりに寄って育てられ、やがて成人したのである。
                       

母の葬儀は13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、ときおり風も吹き、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私は会社関係の方たちに辞退の連絡をしたりした。

こうした中、親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降り、風も吹き荒れる中に来宅して頂き、
私たち兄妹は恐縮しながら、出迎えたりした。すべて

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

やがて『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして2010年(平成22年)の『十三回忌』の法事があったりした。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹ふたりで、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、 付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は、妹のふたりも60代となった。
たまたま本日の8日は妹のひとりの関係で、母の命日に際してのお墓参りの日となった。
                        

寺院の境内は広く数多くの大木があり、空はどんよりとして曇り空で、風もなく静けさであった。

そしてお墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたので、私は感謝の一心で、やがて手を合わせたりした。

生前の母と私の家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父は私が小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このようにおだやかで・・』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、どんよりとして曇り空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


私たちは幼年期よりお互いに『・・ちゃん』付けで呼び合っているので、
平素、お互いに連絡し合ったりする中で、亡くなった母の話題になったりすると、
『XXちゃん・・あの時は・・お母さんは・・このように言っていたょ・・』と言ったりしている。

このように私たちは、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。
                        

この後、個室でゆっくりと昼食を頂くことができる食事処を妹のひとりが予約していたので、
小田急線の新百合ヶ丘駅の付近にある『梅の花』に5年ばかり愛用しているので、移動した後、
私たち4人は、ビールを呑みながら、多彩な料理を頂き、お互いに談笑を2時間ばかり、懇親を重ねたりした。

こうした中、お互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は、妹のふたりに話したりした・・。

私は今年の誕生日で73歳となり、家内は68歳、妹は71歳と69歳となる身であるが、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できる、と思いを深めたりした。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、4年前には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつの日にか私も、この世と告別するが、
自助努力も大切であるが、神様か仏様の采配によるので、私なりに1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは食事処の『梅の花』を辞した後、駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。

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