夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

まもなく母の命日に際して、改めて私の母を思い馳せ、母にささげる深い思いを発露すれば・・。【前編】

2017-01-09 16:20:55 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の72歳の身であり、
昨日、私の母の命日の日が近づいてきたので、私たち夫婦と私の妹の2人で、この時節に4人でお墓参りをした。

今朝、小雨が降りしきる小庭を私は、ぼんやりと見つめ、亡き母の言葉、しぐさを思い馳せたりした・・。

私は小学2年の1953年(昭和28年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の私にとっては叔母がこの当時は未婚で、
母とこの叔母の尽力で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。

私が25歳を過ぎ、遅ればせながら何とか民間会社に中途入社できた後、
『母の日』、お中元、お歳暮の時節には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。
             

まもなく私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。

やがて私は生家の近くに一軒家を構えて、私たち夫婦は少なくともお中元、お歳暮の時節には、
独り住まいの母の宅に訪ねたりした。

或いは年末になると、家内は御節料理を一週間ぐらいで黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、料理して、
やがて御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げたりしていた。

そして独り住まいの私の母用に、我が家用、家内が世間並みに御節(おせち)料理を三段重として、
それぞれ三段のお重を私の母が亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年までは、
20年間ばかり続いたりした。

こうした時、大晦日に私は家内から手渡された三段のお重を配達メールボーイとなり、
お酒を持参しながら母宅に届けて、おしゃべりな母と私は純粋におしゃべりを受け継いできたので、
少なくとも毎年3時間は談笑したりしてきた。

やがて私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。

古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、ときおり私も母の言葉やしぐさを思いだされる・・。
                          

私の母は、婦人系の癌で広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。

そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。

そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。
             

やがて私の生家である長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、ご近所のお方のご尽力で、生家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたりした。

やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。
                       

母の生家は、明治の中頃に国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む裕福な家で、
跡継ぎの肝要なこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された・・。

やがて私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の生家に貰われてきたのは、一歳前で1921年(大正10年)であった。

私の祖父は、農家で16代目となり、田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。

そして祖父は、男2人、女も4人の子があったが、こうした中で祖父の妻は、末児の女の子を出産した後、
まもなく亡くなった。

こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。
             

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は何かと家事に関しても手伝いとして使われた。

今の歳で表現すれば13歳の少女であり、この当時は祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。

後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は私の悪筆と違い、
綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であった父が村長されていた男性が、やがて都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・家柄も良かったけど・・
大学まで行けたのだから、幸せな方・・』と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが、初めて解かった。

そして母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、ため息をついたのを私は忘れない・・。
             

母は祖父の子供である男2人、女も4人に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の生家から多くの金銭の贈り物で、田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供である跡取りの息子と母が17歳になった時、結婚した。
母は祖父、そして父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で、生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思い深めたりした。

後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあったりした上、
親族、親戚の交際は、何かと人一倍の気配りが必要で・・と私に語ったことがある。


父が死去される前の1952年(昭和27年)、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、風呂桶に入れるために、バケツに満たそうとしていた。
つるべ落としのたそがれ時だった。

♪あなたのリードで 島田もゆれる・・
母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつの『芸者ワルツ』を小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死する場合もあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、祖父、父は今度は女の子と期待していたらしい。

やがて私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。

母は幾つになって里子の身を自覚されたのか解からないけれど、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、と私は後年に思ったりした。


1953年(昭和28年)3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの私たち兄妹の父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)5月に亡くなった。

こうした結果、どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
             

このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の生家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が娘さんを同行してきた。

この娘さんは、こ当時の映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかょ、と子供心でも瞬時で感じたりした。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたりしていたからであった。

そして私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。

『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、地面を見つめていた。
             

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。
                       
この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。

 (つづく)※明日、後編を投稿致します

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