夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

日本は、かの大戦でなぜ敗戦になった主因、つたない私でも思い重ねれば・・。

2017-01-21 12:02:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

そして敗戦なのに『終戦記念日』称している日の朝、都心の皇居に向かい黙祷を重ねたりしている・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ51年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。
             

私は高校生の時に、近現代史にも関心して以来、数多く本を乱読してきた・・。
どうしてあのような無謀な世界第二次大戦を、日本は開始してしまったのだろうか、
と重く心によどんだりしてきた・・。

やがて私はアメリカが計画してきたオレンジ計画に、日本の軍部の上層部は、深く対処できずに、
怜悧な総合戦略も思案できず、それぞれ思惑で迷走を重ねて、やがて戦争に突入してしまった、
このような思いで、ここ10数年ばかり思ったりしている。

オレンジ計画は、アメリカ海軍が戦間期(1920年代から1930年代)に於いて、
やがて起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するために立案された、

アメリカは交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、
日本はオレンジ色に識別したが、日本だけを特別敵視していたわけではない、と学んだりしてきた。

そして計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議で採用されていた。

アメリカはスペインとの戦争によりフィリピン、グアムを獲得した。
そしてアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、
日本が日清戦争により朝鮮半島含め大陸へと進出し始めていた当時であった。

わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、
富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、
スペインとの戦争を終えたアメリカにとっては、潜在的な警戒すべき問題となっていた。

こうした実態から、この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。

日露戦争が終結すると中国問題が、日米間で重要問題化となり、両国間の緊張が高まる。

そしてアメリカは、日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、
一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生した、と私は学んだりしてきた。

オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』
という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。

そして日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、
対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた、と私は学んだりしてきた。
                        

2015年の初夏、私が購読している読売新聞の朝刊に於いて、『戦後70年』の連載記事を読んだりした。
『[戦後70年 あの夏]どう負けた 皆知らない 作家 半藤一利さん 85歳』
と題された記事を襟を正して読んだりした。

もとより作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんは、昭和史研究家として突出されたお方である。
一部を無断ながら、転記させて頂く。

《・・敗戦の原因は、日本人固有の精神構造にあると思います。
情報を直視せず、自分に都合のいい結論のままどんどん行った。

ミッドウェー海戦では、敵機動部隊は出てこないと決めつけ、
ガダルカナル島の戦いでも、敵はすぐに引くと根拠もなく信じた。
兵站(へいたん)が限界を超えても出て行った。

陸海軍合わせ240万人の戦死者のうち、7割が餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。
そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません。

国全体が集団催眠にかかり、勢いで突き進んだ結果でした。・・》
                       

この後、半藤一利さんにインタビューされた編集委員・服部真さんが、
半藤一利さんの思いの記事が掲載されていた。

《・・「一等国」意識の暴走 背景に国民の熱狂

明治から昭和にかけての歴史は、日露戦争(1904~05年)でいったん切った方がわかりやすいと、半藤さんは言う。

日露戦争までは、欧米列強に植民地にされるのを回避するため、近代化を急いだ時期だ。
巨額の軍事費をまかなうため、国民は重い負担に耐えた。
ロシアに対して、世界中が日本が負けると思っていた戦争を始めたのも、自衛のためだった。

日露戦争から昭和の初めまでは、日本が大国として振る舞った時期だ。
戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りをしたと国民は確信するが、そこから日本が変わっていく。

自分たちは一等国民だという意識で動き始めたようだ。

例えば、第1次世界大戦の戦後処理を決める1919年のパリ講和会議では、
分け前を声高に主張して顰蹙(ひんしゅく)を買う。

国際社会で孤立を深めた日本は、英米に敵対感情を抱くようになり、33年には国際連盟を脱退する。

当時の指導者たちは、情勢を直視せず、国際法を顧みずに暴走した。
そして、米国を相手に、勝ち目のない戦争へと突き進んだ。

その背景に国民の熱狂があったことが、半藤さんの話から伝わってくる。 (服部)・・》

私はこうしたあの時代に、現世の私は心を痛め、ただ黙祷し、項垂(うなだ)れたりした。
             

半年の前、ケント・ギルバート・著作『日本覚醒~そろそろ自虐はやめて、目覚めませんか?』(2016年、宝島社)
たまたま私は購読して、アメリカ人なのに、確かな敗戦後の日本の実態に明晰に論調されていたことに、感心させられた。

そしてケント・ギルバート・著作『米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番』(2016年、KKベストセラーズ)も購読して、
多々教示されたりした

そして第二章に『戦争を起こしたのは、アメリカだった』と題された論調は、
これまで私は、つたないなりに数多くの書物から学んだりしてきたが、無知なことを学んだりした。

私はここ10数年、近現代史に関心を深めているので、どのようなことですか、と学びたく精読した。
無断であるが転記させて頂く。

《・・
※対米戦争を回避しようと努めた日本

近衛文麿内閣は、緊張の高まる日米関係を打開しようと、
一九四一(昭和十六)年四月に日米交渉を始めることを決定した。

日米交渉は、四月十四日に、野村吉三郎駐米大使が、
コーデル・ハル国務長官をワシントン市内のウォードマン・パーク・ホテルの中にある長官の私邸を訪ねて、
会談することから始まった。

野村大使は、つづく四月十六日にもハル長官と会談した。
五月だけでも、二日、七日、十一日、十三日、十四日、十六日、二十日、二十一日、二十八日と会談を重ねたが、
見るべき進展がなかった。
             

同じころ、日本本土の奇襲爆撃計画は、陸海軍合同委員会によって、
すでに作戦名が『JB―355』と、つけられていた。
『JB』とは、「Japan Bonbardment」、つまり「日本爆撃」の頭文字である。

五月九日に、ロークリン・カリー大統領補佐官が、大統領に『JB―355』計画について覚書を提出した。
カリーがホワイトハウスで、『JB―355』計画を仕切っていた。

カリーは、中国問題担当の大統領補佐官だったが、中国に深く同情していた。
蒋介石政権と協議するために、この年の一月に中国を大統領特使として訪れていた。

ルーズベルト大統領は五月十五日、陸海軍に対し、
蒋介石政権に爆撃機を供与して、『JB―355』計画を具体化するよう公式に命じた。

これは、機体に青天白日旗マークを塗って、中華民国空軍機に偽装し、
アメリカ人の「義勇兵」に操縦させ、中国の航空基地から発進して、東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃するという計画だった。

陸海軍の合同委員会が、日本本土爆撃計画の実施へ向けて、詳細な立案に着手した。
目的は、日本の「兵器および経済体制を維持するために必要な、生産施設を根絶するために、
日本の民需、軍需工場を壊滅する」ことだった。


七月十八日、日本本土爆撃作戦計画書に、陸海軍長官が連署し、大統領の手元に提出した。
ルーズベルト大統領はこの作戦を、その日のうちに承認した。

これは、日本の機動部隊が真珠湾を攻撃する、五か月も前のことだった。

この日、七月十八日に、近衛首相が松岡洋介(まつおか・ようすけ)外相を更迭するために、
内閣を総辞職して、第三次近衛内閣が発足した。

代わって豊田貞次郎(とよだ・ていじろう)海軍大将が、外相として起用された。

松岡を追放して、豊田と交代させたのは、アメリカに歩み寄ろうとしたことを意味した。
アメリカのご機嫌をうかがったものだった。

松岡は、日独伊三国同盟を象徴する人物となっていた。
近衛は、松岡がドイツの力を借りて、アメリカに対抗しようとしたことが、日米交渉の障害となっていると考えた。

今日では、ルーズベルト大統領が七月十八日に、
日本本土爆撃作戦を承認した文書が、公開されている。

ルーズベルト大統領は今日でも、アメリカ国民のあいだで、『FDR』 として親しまれている。
アメリカの「英雄」として扱われる、数少ない大統領の一人である。
             

日本は前年八月に、アメリカ、イギリスが仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナムなど)を通じて、
蒋介石政権に、大量の兵器を供給していた、『援蒋ルート』を遮断するために、
フランス政府の同意を得て、南部仏印に進駐していた。

さらに、この年の七月に仏印のフランス当局の承認を取りつけて、北部仏印にも進駐した。

日本では多くの専門家によって、七月二十八日に北部仏印に進駐を強行したことが、
日米戦争の引き金を引いたと信じられている。

だが、ルーズベルト大統領は、その十日前に、日本本土爆撃作戦を承認していた。

B17をはじめとする百五十機の長距離爆撃機と、三百五十機の戦闘機を、
十月一日までに蒋介石政権に供与して、中国の基地から発進させて、
東京、横浜の産業地域と、神戸、京都、大阪の三角地帯に、奇襲爆撃を加えることになった。

この作戦には、中国のどの航空基地から発進して、日本のどの目標を攻撃するのか、それぞれ地図が添えられていた。

日本本土爆撃は、中国空軍が実施することになっていたが、
実際には『フライング・タイガーズ』と呼ばれる、義勇軍に偽装したアメリカ軍の飛行士が行う予定だった。

ところが、日本本土を奇襲爆撃する『JB―355』作戦は、
ヨーロッパ戦線が急迫し、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなければならなくなり、
中国への供与が遅れることになった結果、実施されなかった。

だが、真珠湾攻撃の約五か月前に、ルーズベルト大統領が、
アメリカ陸海軍に対して、日本本土攻撃計画を承認していたという事実には変わりがない。

これは、アメリカ国民を欺き、日本を騙し討ちにするものだった。

もし日本側が、この計画を察知していたならば、真珠湾攻撃は、自衛権の発動に基づいた反撃になるはずだった。・・》
             

こうした幻となった日本本土を奇襲爆撃する『JB―355』作戦、遅ればせながら私は学び、動顛をさせられたりしてきた。

もとより国家は国益に基づき、怜悧な行動をすると歴史から私は学んだりしてきたが、
昨今の日本人は、国益に対する思いは、人が良すぎる為に淡白な方が多い、と私は微苦笑させられる時もある。

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