夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第3章 ホテル周辺を散策すれば・・。

2017-01-23 17:34:22 | 
私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』の隣接した処に北谷公園があり、
海辺には全長600mの白い砂浜が美しい安良波(アラハ)ビーチ、そして夕陽が眺めるに最適なサンセットビーチがある。
   

   


そして海岸沿いには、北に向かって整備された遊歩道が長く続く・・。
   

   

やがて15分ぐらい遊歩道を歩くと、『うみんちゅワーク』と名付けられた海の駅があり、
館内には『海の部屋』、『海洋生物と植物食物のパネル展』が常設されていた。

そして『北谷うみんちゅ市場』として、魚屋と野菜屋が即売店として、新鮮な多彩な魚、野菜があり、
私たちは魚の刺身に瞬時に魅了されて、三種類ばかり買い求めて、帰館後にビールを飲みながら賞味したりした。

ひとつ残念だったことは、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れ、ときおり小雨が多く、
私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかで、
私たち夫婦は大いに戸惑ったりした。

そして散策している中、多彩な花に魅了されて、見惚れたりして、歩き廻ったりした・・。
   

   

そして海上を眺めると、曇り空の中、淡き陽射しで天使の梯子(はしご)に似た情景に、
私は微苦笑しながら、長らく見惚れたりした・・。
             

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第2章 異国情緒あふれる美浜『アメリカンビレッジ』

2017-01-23 13:20:06 | 
私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』より、5分たらずにある『アメリカンビレッジ』は、
私たちは多彩な飲食店で、滞在した殆どは食事をしたり、カフェで休息したり、
或いは家内は雑貨店、土産物店を見て、魅せられた品を買い求めたりした・・。

この『アメリカンビレッジ』は、在日米軍施設キャンプ・フォスターのうち海岸沿いにあったハンビー飛行場が、
1981年(昭和56年)に返還され、やがて1988年(昭和63年)には飛行場跡地北側に隣接する海岸で、
新たに埋め立て地が造成された、と伝えられている。

そして両地区は一体的な開発が行われることになり、このうちの埋め立て地部分に建設されたのが、
北谷町運動公園とアメリカンビレッジとなった。

こうした中で、在日米軍施設が集中するこの地域の特性を生かして、
アメリカの雰囲気を前面に押し出すことになった、と私は学んだりした。

そしてアメリカンビレッジは、1997年(平成9年)から本格的な工事が始まり、翌年から施設が順次開業し、
2004年(平成16年)にほぼ完成した。

こうした中、2003年における年間来客数は、延べ830万人にのぼった活性化したリゾート街並みとなっている。
https://www.okinawa-americanvillage.com/
☆『アメリカンビレッジ』公式サイト☆

私たち夫婦は、このアメリカ風を中核とし、琉球、沖縄、インドなど異国情緒あふれる多彩な建物、それぞれの店、
そしてアメリカが多い欧米人、台湾、中国、韓国、インドそして日本人らアジア人が利用している不思議な街並みであった。
   

   

   

こうした中、アメリカが世界の諸国の中で、圧倒的な突出した経済、軍事力を有し、
もとより政治、外交も世界の主要国さえ、優に威圧できた1950年代、1960年代中期までのベトナム戦争の以前の時代、
この当時の雑誌『TIMES』、E.プレスリーのジャケットが、さりげなく店に掲げられていた・・。
   

こうした情景を見た私は、私は中学、高校生で、やはりアメリカ文化をまぶしく感じていた時代であったので、
あの当時の頃を思い馳せたりした・・。

私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
小学4年生の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた・・。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりし、
ラジオではコニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声を聴き、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。

そしてレコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れ、聴いたりしていた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、あるレコード会社に勤めて、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。

その後、人事異動をして営業本部で奮闘していた時、
洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
       
       ☆今回、ブック形式のジャケットの表を記念に撮った☆

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、と解説書を精読した。

《・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・》と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。

そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。

私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付けた素敵なお姉さん・・素敵なワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。

コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学生の時代の頃は、大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に心酔し、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、或いはツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての憧憬させられる思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。

このようなことを私は思い浮かべて、家内が魅了されて店で買物している時、近くで待ち侘びて思い重ねたりした・・。

やがて私たちは歩き出すと、私は足を止めて眺めたりした・・。
             

あの当時のアメリカは、アメリカ人にとっては黄金時代であった、と私は感じ深めたりした。

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第1章 リゾートホテルに到着した日には

2017-01-23 11:01:18 | 
私たち夫婦は国内旅行で観光ホテル、リゾートホテル、旅館に宿泊する滞在型の時は、
原則として、旅行ケースを宅配便を活用して、我が家から宿泊する処に配達依頼をしたり、
帰路も旅先の宿泊地から配達依頼をし、我が家に配達して貰ったりしている。
                   
                    ☆2013年(平成23年)1月に買い改めた時、記念写真として撮った☆

今回も1月9日に宅配業者の御方が我が家に来て頂き、
私たちが宿泊するリゾートホテルに1月12日の午前中に必着依頼をしたりした。

1月12日、私たちは旅立つ日は、家内は4時、私は5時半に起床して、
軽食を頂き、家を7時過ぎに出た。

そして路線バスに乗車して、まもなく最寄駅の小田急線の成城学園前より新宿駅に到着後、
山手線で品川駅に到着後に、京浜急行線に乗り替えて、やがて羽田空港・国内ターミナル駅・・
やがて出発ロビーに移動するのが、恒例のようになっている。

しかしながら家内は、この間に電車の事故などで遅延することを配慮して、
航空機が発走する2時間半前には、出発ロビーの近くで私たちは待機する習性となっている。

たまたま今回は羽田空港11時30分発の那覇空港行であったが、
羽田空港・国内ターミナル駅には9時少し前に到着した。

確か5年の以前の頃まで、こうした時には、空港内のレストランを利用して食事をしてきた。
しかし殆ど30分前後で食事を終えた後、待ち侘びている方たちもいるので、
この食事処を退去した後、パーラー風の喫茶店のような処でコーヒーか紅茶を飲んだりしてきた。

こうして20数年、それぞれのレストラン、蕎麦屋などで食事をした後、喫茶店を利用してきた・・。
       

そして5年前の頃、いつものように京浜急行の羽田空港・国内ターミナル駅を下車した後、
地下1階のフロアーを歩き、2階の出発ロビーを目指していた時、
何かしら地下1階のフロアーで、簡素な食事処が集約しているのを見かけたりした・・。

『XXちゃんさぁ・・とんかつ屋さん、蕎麦屋さん・・など沢山あるよねぇ・・便利そう・・』
と私は家内に言ったりした。

『あのような所は、フードコートっていうのょ・・』
と家内は微苦笑しながら、世の中に疎(うと)くなった私に教えてくれた。

そして何かと好奇心が衰えていない私は、家内を誘い、初めて入店した。

やがてフードコートには、とんかつ専門店・銀座「梅林」、下町浅草の洋食屋「ヨシカミ」、
青山のピザ&パスタ「トゥ・ザ・ハーブズエクスプレス」、大阪たこ焼「たこぼん」、
中華料理「彩鳳」、日本そば「あずみ野」などがあることを知ったりした。

そして私は山菜そばを食べたり、3か月後の旅路の時は、とんかつを食べたりした。
特にとんかつは程ほどに美味しく、お値段も廉(やす)かったのであった。

食事を終えた後、飲み物も廉(やす)く、1時間ぐらい座っていても、
違和感が感じられない店内の雰囲気で、私たち夫婦の周囲でも、
欧米人らしいグループの数組が寛(くつろ)いで、談笑したりしていた・・。

その上に、私は愛煙家のひとりで、喫煙所は30メートル近くにあり、この近くに化粧室(トイレ)もあり、
圧倒的な便利な所だょ、と私は微笑みながら家内に言ったりしてきた。

これ以来、私たち夫婦は羽田空港・発の旅路は、
この第1旅客ターミナルの地下1階にあるフードコートの『東京シェフキッチン』を利用している。

今回は早い9時であったので、メニューは制約されていたが、私は特選カレーライスを食べたりした。

やがて乗機待合所の23番ゲートの窓辺から、澄み切った冬晴れの中、遥かに遠方であったが冬富士が観え、
私たちの旅路を祝賀してくれているように思えて、私は微笑んだりした。

この後は予定より10分遅れで離陸して、私は機内でJALの機内誌『スカイワード』(1月号)を30分ぐらいで読んだりした後、
買い求めてきた月刊総合雑誌の『文藝春秋』(2月号)を読んだりしていると、14時半過ぎに那覇空港に着陸した。

そして到着ロビーで、私は冬用のフリースを脱いで、冬用のスボーツシャツを少し腕まくりをしたりし、
『やはり沖縄は、東京の5月ような陽気だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

やがてJTBが契約しているホテル間を巡回するリムジン・バスに私たち夫婦は乗車して、
曇り空の中、40分過ぎた時、私たちが宿泊滞在する『ザ・ビーチタワー沖縄』に17時に到着した。
             

そしてチェックイン後、指定された14階の一室に入り、室内は広々とし、窓辺のベランダから中央から右手には海上が観え、
左側は北谷(ちゃたん)の陸上グランド場、野球場、そして街並み、緩やかな丘陵には住宅街が見えたりした。


この後、私たち夫婦は5分たらずにあるアメリカン・ビレッジの食事処で、夕食を思いながら歩いていると小雨が降りだし、
結果としては『ザ・ビーチタワー沖縄』に隣接している島唄と琉球料理の『北谷ダイニング』で、夕食とした。
             

そして島唄を鑑賞しながら、私たちは生ビールを4杯ばかり飲み、あぐー石垣牛盛り合わせ、石垣牛ロース、島野菜サラダ、野菜盛り合わせ、
オムタコライス、島らっきょうを食べたりした。

やがて一時間半ばかり過ごした後、隣接したテラス風の広いサンデッキに喫煙場があり、
私は煙草を喫っていると、先程の食事テーブルで隣席にいた若き男女の御方が近寄ってきて、
私は若き男女の御方と談笑し、家内も加わり、お互いに談笑したりした・・。

何かしら女性の御方は北海道の阿寒湖にお住まいと明言され、若き男性の御方は地元の沖縄と見られ、
私は遠距離の恋愛のように感じて、冬の天の川・・と私は感じ深めたりし、好感したりした。

そして私たち夫婦は指定された部屋に戻り、疲れを感じて21時過ぎに私は寝付いたりした。

《つづく》

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