夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

大泉高原の山里に、錦繍の情景、そして満天の星空を求めて・・。【10.16.~10.19.】第5回

2011-10-21 18:10:10 | 
       第4章  柳生博(やぎゅう・ひろし)氏の人生観と哲学を集積した『八ヶ岳倶楽部』は・・。

私は、ホテルで観光パンフレットで、たまたま『八ヶ岳倶楽部』の名所の解説を読んでいた時、
オーナーは俳優の柳生博(やぎゅう・ひろし)さんファミリー、
と記載されていた。

私は20数年前の頃、何かの雑誌で氏が、八ヶ岳の片隅に念願の雑木林を構え、
時間の許す限り居住しながら、盛んに雑木を移植している、
という意味合いの内容を読んだこともあり、この大泉の地域だったのか、と解った。

そして氏は移住している地から程近い地に、公開している雑木林が『八ヶ岳倶楽部』と解り、
レストラン、ギャラリーも併設されている、と読んだりしたので、
私なりに興味があり、家内を誘い、訪れることとした。

そして営業時間は午前10時から、と知ったので、
朝露が残る思われる10時少し前に到着するのが良い、と確信して、
ホテルからタクシーで向かった・・。

http://www.yatsugatake-club.com/
☆『八ヶ岳倶楽部』公式ホームページ☆


このホームページをお借りして、思い浮かべながら綴れば、
もとより数多くの雑木を中核とした庭園で、小路は枕木の木道で歩きやすく、
ゆるやかな傾斜地に四季折々のそれぞれの雑木が彩(いろど)っている。

私は拝見しながら、柳生博(やぎゅう・ひろし)氏の人生観に於いての思想と哲学を発露された庭であり、
特にレストランの前のテラスで観る雑木の美景は、まぎれなく氏の美学が感じられる。
しかし私は、これ以上は解らない。

幸いにギャラリーの片隅に、氏の著作の『八ヶ岳倶楽部 森と暮らす、森に学ぶ』(講談社)、
そして『八ヶ岳倶楽部Ⅱ それからの森』(講談社)があり、
作庭から公開されるまで苦楽、そして維持管理のことも学びたく、
私は買い求めたりした。


レストランで私たちは休憩しながら、
家内はサラダを食べながら、フルーツティーを飲んだりした。
私はコーヒーを飲んだ後、ビーフカレーを食べたりしたが、
店内は清々しい品位が漂(ただよ)い、私は好感した。


帰路、私は家内にホテルまで歩いて帰ろう、と提案した。
見知らぬ地は歩き廻って、その地の理解する第一歩、と思っている私は、
この『八ヶ岳倶楽部』の前の道路を南下すれば、小海線の『甲斐大泉』駅の近くを通り、
更に南下すれば滞在しているホテルの近くになるので、歩き出したのてある。

このようなことは、柳生博氏が初めてこの地域に土地を購入した30数年前の頃の原景を
私は想像の世界でありながら、少しでも見つけられるかしら、ということも確かな動機であった。

そして道路沿いにはアカマツなどが多い人工林の中、
別荘用の分譲の用地、ペンション、食事処などを観たりし、
6キロぐらいの道を歩き、ホテルに帰還した。

この後、私は深夜まで、購入した氏の著作の二冊を読みながら、
氏のこれまでの人生の軌跡、特に雑木林に魅せられた根源、そして目的を
この本書から学んだりした。

                           《つづく》

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大泉高原の山里に、錦繍の情景、そして満天の星空を求めて・・。【10.16.~10.19.】第4回

2011-10-21 11:30:23 | 
       第3章  『清泉寮』、そして周辺の散策路は・・。

私たち夫婦は、今回の八ヶ岳の大泉地域を初めて訪れたが、
旅行の時の私は、その地の歴史、文化を少しばかり学び、訪れてきてが、
今回の私としては稀(まれ)に、どの地をめぐり観るかは、未知数であった。

ただ落葉樹が朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景、
そして夜空の満天の星空が観られれば、これ以上の享受はないと思っていたのである。
そしてたったひとつだけ、ネットに調べたのが、
『清泉寮』の周辺の『キープ自然歩道』の中の『カラマツ林の小径』を散策すれば、
という思いであった。

16日にホテルに到着する前に、
この大泉地域を観光めぐりするに最適な乗り物『清里ピクニックバス』を、
旅行会社の添乗員さんから頂いたパンフレットから知った。

この『清里ピクニックバス』は、周辺の点在する殆どの観光地に寄り、
一日周遊券600円(大人)で、どの観光地で乗り降りしても利便性のあるバスであった。

私たち夫婦は、滞在しているホテルの前から、この『清里ピクニックバス』を利用し、
観光めぐりをしょうと話し合った後、
17日に『清泉寮』に向かい、乗車した。

http://www.seisenryo.jp/
☆『清泉寮』公式ホームページ☆

無学な私は、この『清泉寮』の原点を創設されたポール・ラッシュ氏のことも知らず、
富士山が一望できる休憩所で、家内と共にコーヒーを飲んだ後、
『八ヶ岳自然ふれあいセンター』で、この周辺の散策路を教しを受けたりした。

そして小学生でも歩きやすいアップダウンの少ない『カラマツ林の小径』、
或いは『富士山とせせらぎの小径』を知った。

私たち夫婦は、『カラマツ林の小径』を歩き始めたのであるが、
小径は整備され、ご婦人の方であったならば、ローヒールでも歩ける散策路である。
ミズナラ、コメズカ、コナラなどの落葉樹は色づきはじめ、
そしてモミ、アカマツなどの常緑樹の中、
ヤマウルシのたわわな葉は紅色に染められ、陽射しを受けたり、
木漏れ日の中を歩けば、私の心は小躍(こおど)りしたくなる情景であった。

途中で、先生方に引率された中学生の150名ぐらい人たちに逢い、
こんにち~わ、と私たちは挨拶され、私も大声で応じた。
しかし、それぞれのグループで歩き150名となれば、
私は楽しみながら、大声で応じたり、小声ではっきりと笑顔で言ったりしていた。

こうした予期せぬ出逢いに、私たちは好感しながら歩き、たった一周45分の小径を
ゆっくりと歩いた。


この後、『富士山とせせらぎの小径』と称せられた散策路を歩き始め、
ときおり富士山が一望でき、『カラマツ林の小径』と同様な樹木の中を歩き、
道沿いに小川が流れ、清流の流れを観ながら、
一周30分の散策を楽しんだりした。

そして、昼食は富士山が一望できる休憩所に戻り、
売店、飲食コーナーで、私は農場で飼育されたジャージー乳牛のミルクのL、
少し大きなジャージー・ミルクパンを賞味した。

家内は婦女子らしくジャージー乳牛のヨーグルト、そしてプリン、
或いはソフトクリームを食べたりしていたが、
ビール、日本酒の大好きな呑兵衛の私が、ミルクを飲みながらミルクパンを食べていたら、
家内は笑いだしたのである・・。

この後、寮内を見学した後、『清泉寮』の前から『清里ピクニックバス』に乗車し、
大泉地域の情景を観ながら、ホテルに帰還した。


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大泉高原の山里に、錦繍の情景、そして満天の星空を求めて・・。【10.16.~10.19.】第3回

2011-10-20 15:27:53 | 
       第2章  星空の中、赤く光を帯びる星は・・。

私たち夫婦は夕食後、星を眺めようと、ホテルの屋上展望デッキに行った。

数多くの星が広大な夜空に彩(いろど)り、満天の星空のようにであった・・。

私は幼年期の小学校に入学する前の1950〈昭和25〉年の夏、
東京郊外の調布市で農家の児として育ち、
この当時は寺院の境内で、片隅にスクリーンを掲げ、
夏に一回だけ野外の映画の上映会が行われ、この地域の方たちが観覧していた。

私も母に連れられて、確か映画の『長崎の鐘』の作品を観たりし、
私にとっては初めての映画作品であり、詳細の内容は忘れてしまったが、
帰路、夜空は天の川となり、周辺には数多くの星が燦然と輝き、
今でも心の片隅に深く残っている。

この時に幼年なりに深く感銘していたが、
やがて5年過ぎた頃から、生家の地域は急速に都心のベットタウンに変貌し、
夜空に輝く星は、わずかとなり、その後に私は旅行を重ねるたびに、
旅先で夜空を眺めることが多くなった。

しかしながら無学な私は、太陽と月しか解らず、
火星、木星、金星など惑星は、どの辺にあるかは無知であり、
ましてオリオン座、カシオペア座、おとめ座などの星座が、どこにあるの、
と戸惑いながら見つけられないひとりである。

このような私でも、何かしら幼年期で観た輝く星、
そして定年後には心の浄化をしてくれるような数多くの星、
観るのが好きで、できうれば満天の星を秘かに願い続けている。


数多くの星を眺めていると、満天の夜空かしら、と小声で私は呟(つぶや)くと、
満天の星は・・もう少しありますよ、
と近くにいる見知らぬ天文学に詳しそうな男性が教えてくれた。

この後、私は夜空の星たちを眺めていると、赤く光を放つ星を私は見つめた・・。
眺め見つめていると、少し赤い光が移動するので、
何の星かしら、と私は見惚(みと)れていた・・。
この後も、たえまなく星の数々を避けるように移動するので、稀(まれ)な星もあるよねぇ、と感じていた。

そして近くに家内がいるので、
『不思議な星・・』
と私は小声で家内に話しかけた。

『あらぁ・・赤い光で少しつづ動いているわ』
と家内は小声で私に言った。

『そうだろう・・先ほどから見惚れているが・・』
と私は応じた。

『でも・・確実に移動しているし・・飛行機みたい』
と家内は呟(つぶや)くように言った。

『航空機からの夜間照明灯か・・夜間飛行のねぇ』
と私は家内の呟きに応じた。


そして私は広大な夜空を改めて眺めると、数多くの星空の中、
五つばかりの夜間飛行の移動する赤い星を見つけたりし、
この山梨県の里山の夜空でも、夜間飛行で飛び続ける航空機の多さに驚いたりした。

この後、私は家内に、
いろいろと予期しない星も見られたので、良かったよねぇ、
と話しかけて、私たち夫婦は屋上展望デッキを去った。

                              《つづく》

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大泉高原の山里に、錦繍の情景、そして満天の星空を求めて・・。【10.16.~10.19.】第2回

2011-10-20 11:33:08 | 
       第1章  ホテルの屋上展望デッキからの山脈の情景

私たち夫婦は、指定された部屋に入室した後、八ヶ岳連峰の赤岳(2899m)を中核に窓辺から観え、
もとより星空が観やすいところ、と学んできたこともあり、
周辺の山脈(やまなみ)の情景も良いかしら、と思いながら、
デジカメを取りだして、屋上展望デッキに行った。

http://www.daiwaresort.co.jp/yatsugadake/
☆『八ヶ岳ロイヤルホテル』公式ホームページ☆

雄大な八ヶ岳連峰の赤岳(2899m)を中核にした光景を観た後、東方に金峰山(2599m)など、
そして茅ガ岳(1704m)が観えて、その奥に富士山(3766m)が聳え立っていた。

そして南方に点じれば、南アルブスの甲斐駒ケ岳(2967m)、北岳(3196m)などが、
広大な情景が展望できた。

山の愛好者の方たちには、圧倒的に感動する光景かしら、
と登山から遠ざかっている私でも、魅了される情景であった。

そして山脈(やまなみ)の日の出、夕陽の光景も思い馳せたりした。

この間の私は、こうした情景をデジカメで20数枚撮ったりし、
山脈(やまなみ)の空気の流れ、光の粒などのは、無念ながら撮れないので、
せめて心の片隅にと思いを重ねたりしていた。

この後、夜のとばり星空に期待し、私は大浴場に向った。

                              《つづく》


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大泉高原の山里に、錦繍の情景、そして満天の星空を求めて・・。【10.16.~10.19.】第1回

2011-10-20 07:02:18 | 
       序 文  初めて八ヶ岳の大泉高原

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
家内と共に、初めて八ヶ岳の山里にある大泉高原を10月16日から3泊4日で訪れた。

有力な旅行会社のクラブツーリズムの雑誌に、
八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに三連泊する団体滞在型のプランが掲載されいた。
この『八ヶ岳ロイヤルホテル』リゾートホテルは、
星空が観やすいところ、と何かの雑誌で私は読んだりしたこともあり、
その上、この地域は10月中旬の頃から、
数多くの落葉樹が朱色、黄色などに染め始める錦繍(きんしゅう)の情景が展開すると学んだりした。

こうした理由もあり、私は家内に、
日中は錦繍の情景、そして夜には満天の星空を眺められる・・
独断と偏見の多い私でも、三日間宿泊すれば、一日ぐらいは煌々と輝く数多くの星が見られる、
と家内を勧誘したのである。

新宿駅に集合し、特急『あずさ』を利用して、小淵沢駅で下車し、
ホテルからの送迎バスに乗車し、ホテルに3連泊する間、それぞれ好きな所を見てきて下さい、
滞在の自由プランである。


私は八ヶ岳連峰に関しては、若き学生時代にワンダーフォーゲル部に入部し、
まもない時に横岳(2829m)などを少しばかり登山したが、
もとより新人で余裕のない私は先輩の指導に導かれ、ひたすら昇っていたので、
今としては、記憶はおぼろげである。、
40代の後半に、家内と共に蓼科のリゾートホテルに夏季休暇の時に2泊3日で滞在した時、
ロープウェイに力を借りて、最北端の北横岳(2480m)を登山した後、周辺を歩き廻ったぐらいである。

この間に、私たち夫婦は、蓼科高原に幾たびか旅行し、
あくまで茅野駅からのルートで利用し、観光地めぐりしたりしてきたが、
小淵沢駅からの小海線の甲斐大泉、清里駅の周辺は未知の地域であった。


16日の昼の12時40分に新宿駅の南口前に集合し、
特急『あずさ』に乗車して、午後1時に発車し、小淵沢駅に午後3時に下車した後、
ホテルからの送迎バスに乗車した。
そり後、ホテルのドライバーさんは、私たち一同に、
ホテルの周辺は、平年より紅葉は遅れ、東沢大橋だけは色づき始めました、
と解説されていたので、
私は昨今の自身の行いが悪かったかしら、と心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑した。

                              《つづく》

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明日の16日より、八ヶ岳の山里に、錦繍(きんしゅう)の情景、そして満天の星空を求めて・・。

2011-10-15 20:41:04 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、たまたま昨年からの国内旅行に関しては、
家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったし、
色々と調べた結果、海外旅行には苦手な私たち夫婦は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知った。

往復路は『おがさわら丸』を利用して、片道だけでも都心から1000キロ南下する25時間半の船旅となり、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』で程ほどに揺れ、
宿泊先の選定は、父島の静寂で景観の良い海辺のリゾートホテル『ホライズン』に宿泊した。
結果的には、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。


その後、若葉の季節に5月24日から9泊10日間で、
JRの秋田新幹線の特急『秋田こまち』、五能線などの『リゾートしらかみ号』、
帰路は東北新幹線などを利用して、
青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3泊、
その後は竜飛岬にある竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3泊、
そして八甲田山連峰のほとりにある『酸ヶ湯』温泉に1泊、
最終として『蔦〈つた〉温泉旅館』に2泊をした。


夏の終りの旅路は、8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北新幹線、そして山田線を利用して、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、岩手県の宮古市の海岸にある清麗な『浄土ヶ浜』を訪れ、
『浄土ヶ浜パークホテル』に3泊した後、
盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉の『長栄館』に2泊した。


12月中旬になると、青森県は雪の舞い降る頃と思い、
東北新幹線、そして五能線などの『リゾートしらかみ号』を利用して、
12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある『蔦(つた)温泉』に再訪し4泊し、
ブナの雪景色の中を散策したり、観光客のいない雪舞い降る奥入瀬渓流に魅了したり、
その後は青森市内の『青森グランドホテル』に1泊し市内を散策、
そして日本海の黄金崎の『不老ふ死温泉』に再訪して3泊して、8泊9日間で訪れてきた。


そして今年の2月13日より、雪舞い降る時に山形県の銀山温泉に行って観たいわ、
と家内は私に言ったりしたので、
山形新幹線の特急『つばさ』などを利用して、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策した。
その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
5泊6日で冬の旅をした。


このように青森県、岩手県、山形県などの東北に改めて魅了された私たち夫婦は、
五月中旬に秋田県の田沢湖を北上した乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策で、
8泊9日間の予定を3月の初旬に立案して、
いつも愛用している旅行代理店に予約をしょう、と決意していた。

この後は、もとより3月11日に東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
旅行の予定も中止し、私たち夫婦は日常生活も変貌したのである。


3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながら、平常心こそが大切である、
と自身に言い聞かせてきた・・。


過ぎし東日本大震災の時、東京郊外の我が家は、
家も揺れ、本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされたり、その後も幾たびか余震があり、
私たち夫婦は困惑したりした・・。

こうした中、、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。

そして我が家として、防災対策として、旅行用のショルダーもできるバックを居間の片隅に置き、
いざ避難所に行く時に、持って行こう、と互いに決めている。

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、板チョコレートを4枚、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

この間、私たち夫婦は、5月中旬の北東北旅行をやむなく中止した分の半額を赤十字に、
そして自治会でわずかな義援金を供出したりした。

或いは、自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
そして、地上波デジタル対応で薄型テレビを新調したり、
バソコン、エアコンなども買い改めたりした。


こうして過ごしている間、旅行会社から幾たびか小雑誌が郵送されて、
ときおり私たち夫婦は、見たりしてきたが、意欲がなく心が定まらなかった。

夏が終わり、落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の紹介記事を見たりすると、
どの地域に魅せられるところは・・と漠然と探したりした。

私の住む地域は調布市の片隅であり、世田谷区と狛江市に隣接した辺鄙なところで、
11月3日の『文化の日』の頃から11月23日の『勤労感謝の日』の頃まで、
数多くの雑木は朱紅色、黄色に染められる錦繍の時節を迎える。

このようにぼんやりと錦繍の情景に思い馳せたりしてきたが、
ある有力な旅行会社の雑誌に、
八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに三連泊する団体滞在型のプランが掲載されていた。


このリゾートホテルは、星空が観やすいところ、と何かの雑誌で私は読んだりしたこともあり、
その上、この地域は10月中旬の頃から、朱色、黄色などに染め始める錦繍の情景が展開するので、
私は家内に、
日中は錦繍の情景、そして夜には満天の星空を眺められる・・
独断と偏見の多い私でも、三日間宿泊すれば、一日ぐらいは煌々と輝く数多くの星が見られる、
と家内を勧誘したのである。

新宿駅に集合し、特急『あずさ』を利用して、小淵沢駅で下車し、
ホテルからの送迎バスに乗車し、ホテルに3連泊する間、それぞれ好きな所を見てきて下さい、
滞在の自由プランである。

明日より、甲斐大泉駅から徒歩15分前後にある『八ヶ岳ロイヤルホテル』の周辺に、
東京の田舎者が、うろつき歩いていたら、もとより私のことである。

このように、夫婦だけの旅行から、久々に団体の滞在型に参加する私たち夫婦は、
3泊4日の旅行をするので、10月16日より19日まで、投稿文は、休止とさせて頂く。

帰宅後、つたないなりに心を揺さぶられたこと、ときめきを感じたことなどを
素直に綴る予定である。


尚、私のこのサイトの右側にあるカテゴリーに於いて、
『旅』として旅の最中に感じたことを発露した紀行文の形式で、
154通ばかりあり、お読み頂き、ご笑話を頂ければ、幸甚である。


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国内旅行の周遊、或いは滞在する旅、ささやかな私の思いは・・。 【下】

2011-10-15 14:10:35 | 旅のあれこれ
前回は観光地めぐりの周遊型の私なりの想いのひとつを投稿したが、
観光ホテルなどで滞在して、周辺を散策したり、観光ホテルで朝の10時過ぎ、
或いは昼下がりの時など自在に露天風呂につかったり、
このような滞在型も魅力があり、
私たち夫婦、或いは私の定年退職後の少し前から独り住まいとなった家内の母を誘って
3人の旅を重ねたりしてきた。

この中のひとつ過ぎし2008年5月18日から5泊6日で、
富山市郊外の里山にある観光ホテルに滞在した時のことがあり、
【 越中・呉羽山温泉滞在記 】と題して投稿しているが、今回はあえて再掲載をする。

【・・
   序章  温泉滞在の選定は

私たち夫婦は、家内の母を誘い、ここ3年に於いて、年に数回温泉滞在旅行をしている。

私は自動車を所有できず、年金生活の身であり、程々の旅費で5泊6日前後の温泉滞在をしている。

こうした場合は、東京の郊外に住む私達は、新聞の旅行の広告、駅前にある旅行会社のパンフレット、
そして旅行会社の月刊誌で旅行の選定をすることが多い。

旅行会社の主催に基づいて、
都心の数箇所に集合して、団体観光バスで、現地の温泉地に直行するプランである。

観光周遊コースと違い、気楽に現地の温泉観光ホテルまでバスに乗っていれば、
連れてってもらえるプランであるので、
家内の母のような高齢者が利用されることが多いのである。

観光ホテル滞在中は、それぞれ個室でゆったりと過ごし、
食事処で全員で、朝夕の食事を頂き、好きな時に温泉につかり、
そして日中のひとときを自在に現地の観光地めぐりが出来るので、
60代、70代のご夫婦がこうしたプランを利用されることが多い。

私達夫婦は齢上のこうしたご夫婦と、
ときおり語り合いながら、人生の知恵をさりげなく享受させて頂き、学んだりしている。


   第1章  桐の薄紫色の花

5月18日(日)
家内と2時半過ぎに起床し、私たちは4時40分に家を出て、タクシーで最寄駅の成城学園前に行き、
始発の電車で新宿に向かい、上野駅に着いたのは5時45分であった。

家内の母が千葉県の八千代市に住んでいるので、待ち合わせ時間を6時10分としていた。

私たち夫婦は家内の母と予定より早めに逢い、
喫茶店でコーヒーを飲んだ後、上野の集合時の7時10分前に行き、指定の観光バスに乗り込んだ・・。

この後、新宿の第2集合場所に向かったのであるが、
都心の御茶ノ水、水道橋、飯田橋の付近は、
日曜日の為には閑散として、新宿の都庁付近に早めに到着したのである。

私たち夫婦は、最寄の集合場所は新宿であるが、
家内の母が高齢者に伴い、わざわざ上野駅まで出向いたのである。
新宿の集合時間であったならば、
自宅を始発バスの6時過ぎで充分に待ちあうのであるが、こればかりは止む得ないと思っている。


新宿のビル街を8時過ぎ出た後は、
関越自動車道で北上し、上信越自動車道の甘楽PAで小休憩した後は、
松林、杉林の常緑樹の中に、落葉樹の萌黄色、緑色、そして深緑色に染められた豊かな景観の中、
ときおり薄紫色の花が観られた・・。

私は車窓から注視しながら見つめていると、
下方に咲いているのが藤(フジ)の花で、空に向かって咲いているのが、
桐(キリ)の花と気付いたりした。

ともに薄紫色していたのであるが、東京の郊外より一ヶ月遅い陽春かしら、
と名残りの春景を心に残ったのである。

黒姫、妙高高原付近にも数多くの桐の花が多く観られ、
やがて日本海の北陸自動車道の名立谷浜PAで昼食としたのであるが、
新宿から4時間足らずで到着したのは、
昭和の終わりの頃のJRで金沢、能登半島を旅した私は、ただ速さに驚きである。

この後、富山ICで高速道路の北陸自動車道を降りて、
富山市内の中心部を抜けたところに小高い里山が観えた。

呉羽山と呼ばれている里山の頂上付近に、
滞在する『呉羽山:富山観光ホテル』が観え、周囲は樹木につつまれていた。

そしてチェック・インした後、
私は大浴場に身をゆだねたのは午後3時であった。


   第2章  富山、そして呉羽の風土と文化

大浴場の湯は、肌がつるつるとなるようで、心地よくご婦人の身であれば、なおのことよろしいかしら、
と余計なことを考えて、広いロビーで浴衣でくつろいでいた。


そして壁面の一面に『富山の地名の由来』、
その左側に『呉羽の地名の由来』と題された解説書が展示され、
私は深く読み耽(ふけ)ったりした・・。


私なりに富山についての書物より思い浮かべれば、
日本の言語の境界線は、糸魚川と古来から云われている。
そして、東西文化の境界線は越中の国の説が多いと思われている。

正月の雑煮は角餅は関東風、味付けや言葉は関西風であり、
色々な生活様式で東西の要素が融合している。

その越中の中心部に呉羽丘陵があり、
東西文化の融合した越中を更に東西に分けているのが呉羽丘陵でもある。

現在では、呉羽丘陵を境とし、富山県を呉東、呉西と分けられている。

奈良時代に於いて、この地域一帯の行政を司っていた越中国府は、
現在の高岡市伏木におかれていた。
その古国府から見ると、現在の富山市は、
呉羽丘陵の外に当たる為、外山郷と呼ばれていた。

その後、天文元年に在地豪族の水越勝重が藤居山に城を築き、
外山城と呼ばれていたが、
この藤居山には、古くから真言宗の富山寺(ふせんでら)があり、
いつしか外山から富山になったと伝えられている・・。

そして呉羽に関して、私なりの解説の綴りを思いだすと、
能には『呉羽(くれは)』という演目があるが、
呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という2人の美女が、
呉の国から渡来し、呉服の里に機織りを伝えたという話である。

『呉服』とは絹を作る人々のことで、日本では『くれはとり』と呼ばれいる。
『はとり』は『はたおり』がつまって出来た言葉で、
『くれはとり』とは、中国から渡来した機織り技術者のことである。

奈良時代になると、それを音読みで『ごふく』と呼ぶようになり、
以来、絹の衣服『きもの』は、『呉服(ごふく)』と呼ばれるようになった。

現在に於いては、呉羽山の西側が『呉羽(くれは)』、東側を『五福(ごふく)』という地名になっている。

尚、古代には、この地域に大和朝廷に仕えた帰化系り機織り技術達が暮らしていた。

このようなことが、滞在したホテルりロビーに明示されて折、
私の記憶が間違いなければ、上記のように掲げられていた。


   第3章 街中を散策すれば

5月19日(月)
昨夕は8時過ぎに寝付いてしまったので、早朝の3時過ぎにロビーで私は煙草を喫っていた・・。

ホテルの夜間担当の方が、朝刊を取り込んで、新聞棚にファイル化していたのには、
驚きながら、ひとつの地方紙を私は取った・・。

『北日本新聞』を読み出したのであるが、『越中文学館』の連載記事で、
たまたま今回は亡き作家の久世光彦(くぜ・ てるひこ)氏を取り上げて折、
私はこのお方の遺言のような、昭和は遠くになりにけり、
と名言を思い出しながら記事を読んだのである。

氏は敗戦時の直前、昭和20年7月に、ご両親の出身地の富山市に疎開され、
富山高校卒業まで、この地で過ごされた様子、
そして空襲を受けた時の鮮烈な思いを綴られているが、
このことは以前で読んでいたが、改めて氏の言葉を再読し、
富山市の空襲時の惨禍を私なりに重ねたりしていた・・。

朝食後、街中で独りで美術館へ出かけるつもりであったが、
遅ればせながら月曜日は休館日が多く、思い立つように岩瀬浜を散策することに決めた。
駅前からライトレールと云われているモダンな市電に乗り、
日本海に接している終点駅の岩瀬浜に下りた。

江戸時代から明治期の頃まで、北前船の往来で繁栄した岩瀬浜であるが、
私は回船問屋などの豪壮の館には興味がなく、浜辺を歩き出し、左は日本海の洋上を眺め、
かっての北前船の往来時に思いを馳(はせ)たりした・・。

そして、右前方の黒松越しに立山連峰の景観を期待し、数キロ浜辺を歩いたが、
やはりこの時節には無理な願いと理解し、私は富山市に戻った。

そして、本屋に寄り、中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)の新刊本を購入した後、
昼食に迷った末、居酒屋風の食事処に入った。

昨夕は観光ホテルで白エビの天ぷらを頂いたので、
刺身を期待し、入店したのであるが、残念ながらなく、
地酒の『立山』を呑みながら、ホタルイカの一夜漬け、ブリの刺身などを想像以上に美味しく頂けた。

そして私は機嫌よく、若手の男性店員に、
『一夜漬け・・やはり東京より、遥かに鮮度が良く・・地酒を呑みながら頂くと、更に味が増しますよ・・』
と絶賛したりした・・。

その後、タクシーで観光ホテルに帰還した後、
大浴場で身体を清め、部屋の布団に浴衣で横たわりながら、
購入した本を数ページ読んでいると、家内達が市内めぐりから戻ってきた。


    第4章 セラピーユ、そして読書

5月20日(火)
小雨が降りしきる早朝を迎えたが、3時過ぎのロビーは静寂で、私は煙草を喫ったりして、
地方紙の『北日本新聞』の朝刊を読みはじめた・・。

そして、『日経』の朝刊も読み終えると、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を開いたりした。

旅先で自由きままに過ごしているし、
もともと少し甘い自身の性格に更に心身弛緩してしまうので、
多少の緊張感を持たせるのに最適な本かしら、と思いながら読んだりしているのである。

6時過ぎに部屋に戻ると、
『昼過ぎまで・・雨らしいので・・今日は私達は館内でゆっくり過ごしますので・・
セラピーユに一緒に行きませんか・・』
と家内から私は誘われた。

この観光ホテルに於いては、セラピーユと称された岩盤浴が、ひとつの施設の特徴と聞いていたのである。

観光ホテルの案内書に寄れば、

《 トルマリン鉱石を利用した
      新しいリラクゼーション「セラピーユ」 》
と明示されて、
下記のように解説されている。

《・・
マイナスイオンを発生させるトルマリン鉱石、
免疫力の向上や細胞活性の効果のあるラジウム鉱石、
発汗作用や老化防止効果のある遠赤外線など、
自然界がもたらす癒しのパワーを利用した
お湯のないリラクゼーション「セラピーユ」をご体験ください
・・》


私は初めて体験するものであるが、家内達が10時30分より予約したと聴き、
私も同行することとした。

予約を済ませ、指定されたワンピースのような浴衣を受け取り、大浴場で身体を清め、温めた後、
下着も付けないようにと指定された浴衣を着て、セラピーユの館内の待合室で待機していた。

家内の母は、華やかに色合いした指定の浴衣となり、
『おかあさんさぁ・・このような格好になったのは・・人間ドック以来だょ・・』
と私は家内の母に軽口を云ったりしたのである。

岩盤浴の中は、畳一帖ぐらいに鉱石がゆったりと仕切られたのが、20前後の升目丈になって折、
私はその中のひとつに毛布を敷いて、枕を置き、横たわった。

まもなく、薄暗くなり、音楽が流れ、天上の満天の星空のような景観となったのである。

30分過ぎた頃、館内は明るくなり、私はゆっくりと起き上がった・・。
前方のご婦人が起き上がった時、ワンピースのような浴衣から白いパンティが見えて、
私は少しドキりとした。

出入り口の冷水を一杯飲んでいた時、
先程のご婦人が見えて、私と同様に冷水を飲んでいた。
60歳を少し過ぎたと思われるが、若々しい清楚な顔立ちの小柄なご婦人であったが、
私の方が何かしら照れてしまった。

この後、家内達に声をかけて、私は大浴場で泡風呂に入ったりして、
先程の見知らぬご婦人を思い出したりしていた。


部屋に戻り、窓辺が雨が降りしきる緑に染まった雑木林を眺めたりし、
家内達と他愛ない話をしたりしていた。

この後、私は布団に横たわり、本を読みながら、昼寝をした。

目覚めたのは、一時過ぎで、陽差しが燦燦と里山一帯を照らしていた。

夕食の後、遠方に住宅街の灯が銀河のように観え、その後方は市のビルの灯が観え、


♪街の灯(あか)りが とてもきれいね
 ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ

【『ブルーライト・ヨコハマ』 作詞・橋本 淳 】

と私は口ずさんだりしていた。


第5章  民俗民芸村を散策すれば

5月21日(水)
私はいつものように独りで、ホテルを8時半過ぎに出で、里山の市道を少し登り、展望地に着いた。
市内の街並み、遠くに立山連峰が観える所であるが、本日もかすんでいるだけであった。

地元のご夫婦と立ち話をして、冬晴れるの時節であったならば、
一望でき、カメラ愛好家はもとより、テレビの報道の方たちも撮影で見られる場所と、
教えてくれた。

今の時節は、夕暮れのひととき、週に1度ぐらいは、
山並みが綺麗に観える時もあり、それなり美景である、と言葉を重ね、教示された。

この後、私は遊歩道を下り、
『民俗民芸村』で各所を観て廻り予定であったが、
拝観時の9時前であり、それぞれ竹の立ち箒(ほうき)で、掃きながら清められていた。

私は外れにある長慶寺に隣接した五百羅漢に行き、
右側に長慶寺、そして墓地、左側は里山を切り開かれた斜面にそれぞれの表情、しぐさの五百羅漢が観えた・・。

杉木立と竹林の中で、木漏れ陽を受けたそれぞれの表情をたたえた石像を眺めると、
現世の生臭さを忘れさせて下さるひとときある。

私はうっとりと眺めていると、斜面の小道を歩かれている老女に逢い、思わず黙礼をした。
そのお方は、私に近づいてきたので、
『お元気そうで・・何よりです・・』
と私は右手に杖をたずした老女に言った。

このお方は付近に住まわれる方であり、毎日周辺を散策され、
私の亡き母と同じの大正9年生まれと知ると、
私は心身ご健在でおだやかな表情をたたえた老女を絶賛した。

この後、歩道の素朴にベンチで煙草を喫っていると、
私より少し齢上の女性から声を掛けられて、昨今の世間話をした。

五百羅漢を眺めながら、昨今の社会の節度のない状況を話したり、
そのお方が日本海の海沿いの小川温泉で過ごされ、
幼少時の頃の食べ物、乗り物などの話を互いに話し合ったりした。


私は偶然にお2人の年配の女性と話し合えたが、
こうしたことはその地の風土、文化、日々の暮らしを知る上、言葉を交わし、重ねていると、
まぎれもなく最良の教えを受けると私は確信し続けている・・。

この後は、茶室の円山庵に寄り、抹茶と和菓子を頂きながら、応対して下さった30代の女性に、
具体的に露地の形態と樹木を誉めたりすると、
お互いに心がほぐれ、少し笑いあったりした・・。

そして帰り際には、
さりげなく活けられていた鉄線、菖蒲の花を誉めたりした。

そして、この後は『陶芸館』、『考古資料館』、『民芸館』、『民芸合掌館』、
『売薬資料館』を拝観し、
数多く教示させられたりし、遊歩道の登り道を20分ばかり歩き、
滞在している観光ホテルに帰還した。


第6章  館内にゆったりと

5月22日(木)
今回の滞在で、私は殆ど夜の8時には寝付き、早朝の3時にはロビーで、ペットボトルの煎茶を飲みながら、
煙草を喫ったりしている。

そして、『北日本新聞』、『日経』などの朝刊を読んだりし、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を昨日読み終わり、
持参してきた川本三郎・著の『向田邦子と昭和の東京』(新潮新書)を読みはじめている・・。

ときには、館内に置かれている雑誌を見たりしている。
隔月誌『こころの色』(民活開発)は初めて見る雑誌であったが、
特集として《歴史と文化に出会う、温泉旅》に惹かれ、読んだりした・・。

この中で、亡き作家の開高健(かいこう・けん)氏が残された旅の極意として語った言葉として、
『 少年の心で、大人の財布で歩きなさい 』
の名言が引用されて、私なりに深く読んだりした。

或いは、連載の『わたしの健康法』で、今回は私の好感している浜美枝(はま・みえ)さんが掲載されて、
改めて浜美枝さんの確かな発言に魅せられている。

ある時は、この観光ホテルのパンフレットを見たりし、
『風流絵巻』と題され、四季折々の状景、館内の優美な案内を見たりしている。

この中で詩歌になぞられて、

立山に 向かいし肩に 桜落ち

踏み入れば 真綿の心 寄り添いし

世をはなれ 心の糸を ゆるりゆるり

暖かき 絹糸の水に 肌染めぬ

我が身いま 花渡りゆく 蝶の舞

等の読みながら、その時節に思いを馳せたり、私なりに微苦笑しながら、読んだりしている。


朝夕の食事時以外は、すべて自在な時を過ごし、
風呂に入ったり、地酒、ビールを呑んだり、読書に疲れれば、昼寝をしたりしている。



最終章  旅の終りは、おむすびとなり

5月23日(金)
温泉滞在旅行も最終日となり、観光ホテル3時に出発のバスの時間まで、
市内めぐりをしょう、と私は家内と話し合い、
私達3人はタクシーで城址公園に向かった。

城址公園は、工事中が多いが、
この中の『佐藤記念美術館』に入館し、『インドネシア更紗のすべて』の特別展示があり、
私なりに更紗の布地を鑑賞したりした。

常設の茶室などは、三畳半の台目には注視したが、あとは私が感心するほど興味がなく、
出入り口に行った時、ひとつの展示予告ポスターに魅せられた・・。

画家のコローによる『真珠の女』(部分)であり、何かしら訴えるようなまなざしの表情は、
絵心には全く解からない私さえ、瞬時に感覚として詩情ある情念に圧倒的に魅了させられたのである。

何かしら今年の6月の中旬より、国立西洋美術館で展示される予告としてのポスターであった。


その後、『郷土博物館』で、富山城を中核とした戦国時代からの興亡を展示されていたが、
一時間ばかり観た後、駅前の喫茶店行き休息した。

その後、駅ビル内で、私は創意工夫された『おむすび』を
家内たちは、菓子パンを多めに購入し、昼食兼夕食用として、タクシーで観光ホテルに帰還した。


観光ホテルを午後3時前に出発し、田植えの終った田んぼの美景を眺めたり、
桐の薄紫色の花に見惚れたりし、新宿に着いたのは夜の8時半であった。

・・】


このように投稿していたのであるが、この旅の余情として、
私は一週間後に【 吉岡聖恵の唄声に魅了され・・。 】と題して投稿している。

【・・
過日、富山市に温泉滞在旅行に向うで途中で、
昼食兼休憩として『名立谷浜SA』に観光バスから私は下り立った・・。

外れの煙草の喫える喫煙場に向う折、

♪心の真ん中が痛い
 あなたを思うたびに

【『抱きしめてあげる』作詞・山田ひろし 】

私はこうしたサービス・エリアでも、徳永英明さんの最新の唄が流れていたことに微笑していた。

この後、

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
 大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから

【『帰りたくなったよ』 作詞・水野良樹 】

あたかも青空に向かい、素直で伸びのある歌声に、私は瞬時に心を奪われた・・。

私は初めて聴く曲で、唄われた歌手、そして曲名が、旅の間は気になっていたのである。

(略)

夜のひととき、私はパソコンでこの曲を検索したのである。

ヤフーの動画で、オリコンのベスト20を見て、初めて知ったのである。

水野良樹と山下穂尊、そして同級生の妹・吉岡聖恵によるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、曲名は『帰りたくなったよ』という曲名であった。

私はこの後、無料動画でこの曲を探し、2時間ばかり聴き惚れたのである・・。

私は齢を重ねた63歳の年金小父さんの身であるが、
これほど音楽に夢中になれたのは、
一昨年の秋、綾香ちゃんの『三日月』以来かしら、と微苦笑している。


私は過日の温泉滞在旅行で、思いがけないふたつのプレゼントを頂いた。

ひとつはこの『帰りたくなったよ』の歌であり、
もうひとつは美術館の出入り口に掲載されたコローによる『真珠の女』(部分)ポスターの一枚である。
・・】

このようなささやかな旅でも、それなりに深い想いが私の心に、
今でも鮮明に残っているのである。


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国内旅行の周遊、或いは滞在する旅、ささやかな私の思いは・・。 【上】

2011-10-15 10:51:44 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内と共通趣味のひとつには国内旅行であるが、子供に恵まれなかったこともあり、
新婚時代から国内の各地に四季折々訪れている。

私の現役時代は民間のサラリーマンであり、数多くの人と同様に多忙な身であった上、
住宅ローンなどの返済もあり、世に言われるセレブのような高級な旅には程遠かったが、
それなりに短かな旅をきた。

2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、直ちに念願通りに年金生活となったので、
現役時代と違い、少しは長い7泊8日前後の旅、
或いは海上の遥か彼方の小笠原に訪れた時は12泊13日をしたりしてきた。

私たち夫婦は海外旅行は、何かと苦手な身であるので、夫婦としての旅路は国内旅行ばかり重ねてきた。
そして点在した観光地を周遊するコース、
或いは観光地のホテル、旅館などで滞在し周辺を観るコースに大別される。

いずれにしても、私は定年後は自動車の普通免許書を放棄した身なので、
個人旅行、団体旅行に関わらず交通機関は電車、バス、飛行機、フェリーなどに頼って旅行を重ねてきた。

今回、個人旅行に関しては、このブログのカテゴリー【旅】にすべて掲載しているので、
団体旅行に於いて、周遊型、滞在型良好

こうした中でひとつの周遊するコースをあえて明示すれば、
定年退職後の一年を迎える頃の2005年10月19日から23日までの4泊5日で、
確か4回目ぐらいの北海道に訪れたことがあるので、
このサイトに【 錦繍の北海道周遊記 】と題して投稿していたが、この周遊を再掲載をする。

【・・
   序章  明日より、北海道へ

以前、『北海道へは、船で・・。』で綴ったことはあるが、
明日より4泊5日の団体観光ツアーに出かける。

東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、この港から小樽港に向かい1泊し、
翌日の早朝に小樽港に着くフェリー船に乗船する。

このコースは私共夫婦のひとつの夢である事は、『北海道へは、船で・・。』で綴っている。

小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。

夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。

私共は北海道には、心身の波長が合うので幾たびか訪ずれているが、
晩秋の道内は道東は訪れたことがあるが、このコースは初めてである。

紅葉の終わりかけたこの季節、どのようにに私たち夫婦の心に沁みる光景が、
のちの想いになるかは、解らない・・。

いずれにしても今回の旅行は、
私の定年退職記念旅行は、家内の父が私の退職時の直前に死去されたので、
慌ただしい日々となり幻となったので、敗者復活戦のひとつの旅でもある。


   第一章  旅の始まりは、月の光

新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。

私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、想像したよりテラスが広めであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。

そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中の日本海の雲の間に晴れ間が広がっているのを眺めながら、ゆっくりとビールを呑む。
朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、
早朝に家を出たので、やがて私は眠くなり、ベットにもぐり昼寝をする。

その後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会う。
フェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、楽しげに話し合っているのに好感を持つ。

ディナーの際、小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら食事をする。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
齢を重ねるたびに、食べ物にこだわりを持つのは、多くの人が経験するのだろう、と思っている。

部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、
あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。

その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。


   第二章  やがて錦繍の世界に ①

早朝の四時になると、小樽港の街の灯りが煌々と観えて来た。

フェリーは予定通り4時10分に接岸した。
港内はコンテナのトラックが100台前後あり、日本海の海上航路の要所であることを現していた。

私共の団体観光ツアーは、5時15分に下船し、バスで祝津にある食堂に向かう。

空は白く明け方の情景の中で、地元民も通う町外れの食堂で、
鰊(にしん)を私共の人数分を焼いてくれ、暖かなご飯と味噌汁で頂く。
素朴さであるが、これは最も贅沢な朝食である・・。

バスは高速道路を北上し、岩見沢を過ぎ、三笠のインターチェンジで降りると、
やがて里山はナナカマドとカエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色に染められて、
錦繍(きんしゅう)の世界となった。

私は家を出るときは、旅の最後の行程で定山峡周辺で錦繍の情景を秘かに期待していたが、
目の前で秋の色合いが展開されたのには、少し驚き錦繍の光景に瞠(みは)った・・。

バスガイドさんの話に寄ると、
道内の紅葉は例年より2週間遅れで今は最盛期、と伝えてきた。


   第三章  やがて錦繍の世界に ②

その後の芦別の三段の滝、富良野の新プリンスホテルのニングルの森も、
秋たけなわの錦繍の光景であった。

ニングルの森は、ゆるい傾斜の雑木林の中にあり、
開園前の時間であったので、即売店は閉っていた。

私の理想としては、このような環境の中で住むのに近く、
見渡す限り雑木林の中で、平屋建ての一軒屋に住み、
近くにはホテルがあり、ときたま食事が出来るところであった。

齢を重ねた今、私は自分の実力の拙(つたな)さを嘆いて、
煙草を喫いながら、夢の世界に近いニングルの森を見詰めた・・。

その後、美瑛を通り、旭岳の裾野にある『旭岳万世閣ホテルベアモンテ 』に宿泊する。
部屋の窓辺からは、夕陽が山なみの沈むところであった。
空は水色で、陽の周辺は朱色、そして黄色を取り混ぜて、そして山なみに消えていった・・。


   第四章  やがて錦繍の世界に ③

旭岳の裾野は、落葉樹は葉を落とし終わっていた。
エゾマツ、トドマツの濃い緑が、周辺を彩(いろど)っていた。

朝陽の差し込んでいるレストランで朝食をした後、
ロープウェイに乗り、旭岳が展望できる高原登山道を散策する。

小さな池は凍り付いて折、道端は霜が陽に当たって溶け出していた・・。
旭岳から下方の旭岳温泉や
遙か彼方の遠方の山なみまで視界の開けた雄大なスロープであった。

その後、旭岳を下った所にある天人峡に行き、羽衣の滝を観に行く。
バスから下車し、遊歩道を散策したが、朱色、黄色に彩られた錦繍の中を歩きながら、
午前の柔らかな陽射しの中、ときおり黄色の葉が上空から舞い降りてくる。

こうした光景を観ると、まぎれなく秋を受容した思いが、心に沁みてくる。
多分、今後このようなことは、幻想しか実感できないだろう、と思い返したりした。

その後、札幌のはずれにある定山渓に行き、『定山渓万世閣ホテルミリオーネ』に宿泊する。


   第五章  雨の中の錦繍

定山渓温泉は、渓谷沿いに数多くのホテルが建っている温泉町であった。

窓辺で観ていると、渓谷の対岸を川べりから空に向かって、樹木が色付いているようだった。
ナナカマド、カエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色、
そしてエゾマツ、トドマツの濃い緑色の配色は、秋の盛りであった。

朝食後、雨の中を豊平峡を散策する。
電気バスに乗り、ダムを囲むかのように錦繍の世界が拡がっていた・・。

雨の中、濡れた朱色、黄色も良い光景である。
朝の川霧が立ち昇り、雨が舞うようにしっとりと降っている。

雨の中、傘を差して立ち竦んでいても、飽きない光景であった・・。


   第六章  そして小樽に

雨の中を豊平峡を後にし、
バスは札幌をめざして走路したが、周囲は錦繍に染まっていた。

札幌から小樽に抜けると、雨が止み、観光客であふれた街が小樽であった。


3年前の冬、オホーツク海の流氷を観る為に、
網走の二ツ岩のホテルで2泊して流氷を待ち焦がれたが、
1週間前に接岸したが、沖に去っていた・・。

この間、斜里までノロッコ号に乗ったが、海上は快晴の中、見渡す限り蒼い海原で、
止む得ず路線バスで知床半島のウトロまで行った。

ウトロに近づいた峠を越えると、海の彼方まで流氷の情景であった。

その後、ウトロの海辺あたりを数時間散策した。

網走駅から特急『オホーツク号』で9時30分発で後にした後、
冬の道北、道央を抜けて、札幌駅着14時46分に乗車した。
これは私の長年の夢のひとつであった。

札幌駅から小樽駅に着き、ホテルにチェック・インした後、
雪の中を運河沿いのガス灯のある遊歩道を夕暮れ時に歩いた。

夜になると、居酒屋に行き、地酒を呑みながら、地魚をふんだんに食べたりした。


こうした想いが私共にあったので、
晩秋の小樽は味気なく、運河沿いの地ビールを呑ませる料理店に入る。

ここの店は、ラムの骨付き肉を食べさせてくれる所で、
塩味と大根おろしの付いた甘いたれの2種類を注文する。
地ビールを呑みながら、かぶりつくのは満足させてくれるひとつである。

集合場所に戻る時、小樽ワインの店があった。
試飲させてくれた時、
『辛口で・・深みのある・・』
と私が言った。

店員さんは、店頭の試飲用の十種類から選定し、私に呑ませてくれた。

結果として、この銘柄を1本買い求め、夜の駅弁を食べる時の友とした。


  第七章  旅の終りは、寝台特急で

旅の終りは、『北斗星号』であった。
札幌駅を17時12分に発車し、上野駅に翌日の9時41分着である。

お弁当と煎茶のペットボトルを買い求め、B寝台の個室は想像したより狭かった。

家内と旅行バックと手荷物を置く位置を決め、私は浴衣に着替えた。

小樽ワインを呑みながら、お弁当を開く。

今回の旅は、日中は原則としてサッポロ・クラシックのビールで、
夜はホテルのハウス・ワインか富良野、小樽ワインのボトルを数回ばかり呑んだ。
私は旅先では、その地のアルコールを呑むことにしている。
その地の文化を知ることは、お酒もひとつの手がかりとなるからである。

疲れを覚えたのでベットに横たわり、直ぐに寝付く。
深夜の1時過ぎに目覚め、煎茶を少し呑んだ後、地酒を呑む。
その後、眠りについて朝の5時過ぎに目覚め、ぼんやりと車窓から外の景色を眺めた・・。

東北地方を旅する時、殆んど新幹線を利用していることに気付いた。
今回の旅の最後は、在来線で上野駅に向かっているが、
在来線はその地をゆっくりと通っているので、その地の風土を教示してくれる・・。
その点、新幹線は単なる通過の役割しかないことに、改めて気付いた。

上野駅より私の住む小田急線の最寄駅の成城学園前に着いた時、
懐かしさを覚え、安心したせいか旅の疲れが出た。

家の門扉を開け、玄関庭を見ると、花梨の大きな実が3つほど落ちていた。
・・】

このように投稿していたが、この当時の私の投稿文は、
乾いた短絡的な文体で余情もない、と私は苦笑している。

団体観光周遊コースの旅行は見たい観光地を
個人旅行と違い、時刻表も気にすることなく気楽に周遊させ、
観光バスなどが待機して下さり移動時間の遊びもなく、
その上に旅費も驚くほど廉(やす)いので、ときおり私たち夫婦は利用したりしている。

                            《つづく》

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『スマートフォン』の時代、携帯電話も使えない私は、果たして思いながら微苦笑し・・。

2011-10-14 10:10:42 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、いつものようにNHKのテレビ放送のニュースを視聴していたら、
アップルの新型スマートフォン(多機能携帯電話)「IPHONE(アイフォーン)4S」の国内販売が本日発売に伴い、
都内では徹夜で並んできたファンの情景を報じて、私は苦笑した。

ここ一週間ぐらい、ネットとか新聞、雑誌に於いて、
アイフォーン4Sは、基本ソフト(OS)の刷新などでデータ処理能力が大幅に向上した。
高精細な写真や動画の撮影が可能になったほか、バッテリー性能も上がった。
そして日本で販売するKDDI、ソフトバンクの両社が熾烈な競争をしている、
と読んだりしてきた。

スマートフォン(多機能携帯電話)に関しては、携帯電話も使えない私さえも、
アップルの『アイフォーン』、グーグルの『アンドロイド』が世界の主要国で、
熾烈な競争下で発展している、と学んだりしている。

スマートフォン(多機能携帯電話)の機能は、
現在の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、カーナビ、携帯音楽プレーヤー、
ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、と知り私は驚いているひとりである。

こうしたスマートフォン(多機能携帯電話)は、多岐に及ぶ情報を有しているので、
限りない情報から、それぞれの利用者は選定し利用すること前提であるので、
背景として、ソフト、ハード会社はもとより、通信会社さえも膨大な情報量の通信技術などは、
果たして世界の多くの方たちが活用した場合、耐えられるか。

何よりも利用する人が、従来よりも遥かに多い選択できる中で、活用できるか。
そして、日本の市場で、果たして一部の専門知識を持った方、熱愛する愛好者を除けば、
数多くの一般の方たちに、現在の携帯電話のように、
程ほどに自身で安全な情報管理をしながら、利用できるのだろうか、
と私は危惧しながら、見守っている。

私は携帯電話が、10年前の頃から次第にカメラ、財布がわりに多機能を有した頃から、
映画の『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督、1968年)に於いて、
私たちの祖先の猿人に近い人たちが、木の棒を手にし、
そのひとつが空中へ投げられ、宇宙に・・シーンを思いを重ねたりしてきた。

今回のスマートフォンは、ますます多機能に発展した複合機器である。
私は少なくとも日本の多くの人たちが利用を始めた時、
社会は情報のあふれる膨大の中で、どのように活用するか想像した時、
明るい展望は見えないひとりである。


ここ10数年、社会は急速に携帯電話が普及し、今や子供さえ使用し、
しかしながら私たち夫婦は、携帯電話が使えなく、
この広い世の中で保有していない稀(まれ)な国民のひとりとなっている。

まして昨今、携帯電話はスマートフォン、パソコンはスマートパッドの時代になります、
と新聞、とか何かの雑誌で読んだりすると、遥か遠い世界のような出来事と思ったりしている・・。


我が家は子供に恵まれなかったので、我が家は夫婦2人だけの家庭である上、
私の現役サラリーマンの最後の5年間は、物流情報会社に出向となり、
職場では携帯電話を使用することのない勤務状況であったので、
携帯電話は無知となったのである。

昨今の年金生活に於いても、携帯電話に興味がなく、
もとより携帯電話の使い方も知らないが、不自由することなく今日まで至っている。

このような関係で、我が家の通信費は『ひかり電話』だけであり、
家内が独り住まいの家内の母に、殆ど毎夜、長電話しても毎月2000円以下で、
年金生活をしている夫婦の家庭の中で、最も安い家庭かしら、と微苦笑している。

しかし、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
ここ半年ばかり新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話の各社の広告が入っているので、
ときおり私たちは見たりしている。


そしてデジタル携帯音楽プレーヤーに関しての私の思いについても綴る。

私は携帯音楽機種としては、CD携帯プレイーヤーのウォークマンしか持っておらず、
デジタル携帯プレーヤーに寄る250曲以上、収録できると聞いたりすると、
私なりに眩暈(めまい)を感じている。

ときおり私は、散策の時など、CDアルバムをある程度、簡易バックに入れて、
CDプレイーヤーで聴いている。

CDアルバムは、アーティストが曲を創作され、
一曲の曲が生まれ、曲の編成順にこだわり、色々な思いも加味され、
音源制作会社、レコード会社のおもわくの上、完成され発売となる。
そのアーティストにとっては、その時代に創作活動の発表となるので、
ある面に於いて、自己存在を掛けたアルバム作品となる。

このような心情が私なりにあるので、
一枚、一枚のアルバムを深い思いで聴いている。
今度のアルバムの中の曲は・・
何故、この曲は三曲目に・・
とそのアーティストの心を思い馳せながら聴いているのであるる。

デジタル携帯プレーヤーの250曲前後収録といっても、
どのように編成して収録し、利用されているのか、
古い感覚の私としては、理解出来ないでいる。

まして昨今、音楽有料配信で、アルバムの中の曲をバラ売りに配信されている、
と知った時は、アーチィストの心情を思い重ねると、涙ぐんだりしたひとりである。

私は家で聴く時、ときたま外出にCDプレーヤーを携帯する時など、
どのアルバムを掛けようかと1000枚の中から、
選択するのも楽しみのひとつである。


デジカメも関しても、無念なく携帯電話も使えなく、もとより今回の多機能携帯電話もないので、
単体のデジカメを愛用している。

私は2004年(平成16)年の秋に定年退職をしたが、
この夏、家内から定年退職の記念に何か買ったら、と言ったので私はデジカメを購入した。

ファインダーが一眼レフのようでないと、構図が設定できないので、
流行の液晶画面を見て、決定するのには抵抗があった。

迷いた挙句、一眼レフだと後で凝ると際限なく費用も要するので、
この当時としては、800画素でズームレンズのある程度の商品で、
キャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定した。

結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
雑誌の『サライ』で広告にも掲載されていたコニカミノルタの《DIMAGE A2》にした。

本体にカメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
そして記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入した。

私は高校時代は写真部に所属したことがあるので、
結婚生活以降は簡易なカメラであったが、デジカメは程ほど撮れると思っていた。

購入後、現物とカタログを見て、触れて、近くの公園に行き、試写したり、パソコンに取り込んだりした。
思ったより良かったり、悪かったりしてバラ付き多く、勉強しなければならない、と反省した。

デジタルに弱い私は、大人のおもちゃ、と思ったりした。


旅行先に於いて、私のデジカメは機動力があった。

ズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
512MBの記憶媒体で500画素程度にすると、128枚前後撮れる。
800画素にすると、64枚前後となる。

通常、周遊観光に於いて、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められる。

こんなことを思って、旅行先などで撮り、帰宅後、パソコンに保存する。
ディスクのC(システム主体、共通ファイル等)は避けて、
Dディスクにファイル名、XX温泉滞在と年月日、としている。

こうして時系列のアルバムとなっているが、プリントはしたことがない。
私がデジカメを使いはじめて2年過ぎても、まだ機能は全て分かっていない。


この間、コニカミノルタのカメラ部門は、ソニーに吸収されたりしている。
何かしら自社で半導体製造がしていなくて、激動なデジカメの業界に開発も遅れを取り、
営業力も弱かったらしい、と新聞等で知った。

私は少し無念の気持ちがあるが、
その当時として、カメラの技術は完成度が高いと思っている。
後は私の使い方次第では、底知れぬ画質に撮れるかも知れない。

そして、デジカメは益々進化して折、
一眼レフ系も各メーカーが出揃い、簡易デジカメも画質も向上している。

何より驚いているのは、記憶媒体の進化である。

私のカメラは、CF(コンバクト・フラッシュ)で512MBを使用していたが、
その後、量販店で1Gを購入し、たった2年間で、5分の1程度の価格となった。

私は相変わらず、初心者の若葉マークの技量で撮っているが、
写真の一葉はその方の感性、と思っている。


私はパソコンだけは、自宅で最新型のディスクトップを愛用しているが、
電話は、居間に固定している『ひかり電話』機てあり、
そして携帯音楽プレーヤーは、CD携帯プレイーヤーのウォークマン、
或いはデジカメは、単体であり、
このように複合機器はなく、すべて単機能となっている。

昨今としては私は社会の時流に取り残されているが、
単細胞の性格にふさわしいかしら、
と今回のアップルの新型スマートフォン(多機能携帯電話)「IPHONE(アイフォーン)4S」のニュース、
そして『スマートフォン』の到来の時代を見つめている。


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高田みづえちゃんの『秋冬』の歌、ときには心の中で唄えば、あの当時に思いを馳せ・・。

2011-10-13 13:04:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと主庭のテラスに下り立ち、
金木犀(キンモクセイ)のたわわな橙黄色の小花は、終わりを告げて黒土の上に散乱して、
沈香のような香りを残していた・・。

初夏を彩(いろど)った半夏生(ハンゲショウ)、
盛夏の時に美麗な花を見せてくれたアメリカン芙容(フヨウ)、
このような草花もたわわな葉は黄色に染めている。

こうした中で、秋海棠(シュウカイドウ)の可憐な淡紅色は満開となり、ひっそりと咲き、
紫式部(ムラサキシキブ)は、たわわな紫色の実をつけているが、
日毎に色合いを深めている。

過ぎ去った夏の日々も過ぎてしまえば、実に早く感じられ、
まもなく私の住む地域は、数多くの落葉樹が朱色、黄色の色合いに染められるのは、
11月3日の『文化の日』頃であり、そして『勤労感謝の日』の頃まで、
錦繍(きんしゅう)の情景になるのが、毎年のならわしである。

このようなことを思ったりしていると、不意にひとつの歌が脳裏から舞い降りて、
心の中で唄いだしたのである・・。

♪しゃれた日焼けに 涙が流れる
 あ~ 秋かしら

【『秋冬(しゅうとう)』 作詞・中山丈二 作曲・堀江童子 】

私は唄ったりしたのであるが、高田みづえちゃんの歌と思い出しながら、
あの頃に街に流れていた頃を思い馳せたりした・・。
確か1984〈昭和59)年の冬の頃だった、と思われる。


私は現役時代の時、ある音楽業界のあるレコード会社に勤め、
この当時は情報畑を担当していたが、
各社で共同システムを協議している頃で、他社に打ち合わせに行ったことがある。
ロビーでエレベータを待機していた時、マネジャーに連れられて高田みづえちゃんを見かけたのである。

私たちは偶然にエレベータに乗り合わせたのであるが、
『初めまして・・』
とマネジャーに促(うなが)され高田みづえちゃんは私に云った。

『高田みづえさんですね・・今度の新曲・・良い歌ですね・・』
と私はあどけなく可愛い高田みづえちゃん言った。

『ありがとうございます・・よろしくお願い致します・・』
と本当に嬉しげな表情としぐさに私に言ったので、私は少し照れたりした。

このようなささやかなことがあり、その後に共同システムの協議が終った後、
この社の友人に、
高田みづえちゃんを見かけたけど、可愛いねぇ、と私は何気なしに言ったら、
この後、私は友人よりカセット・テープの見本品を手渡されたのである。


この当時の私は、情報部門で開発や運営で奮闘したりし、
数多くのサラリーマンと同様に、多忙で睡眠不足の日が続いていた時であった。

そして、土曜日の休日出勤した翌日の日曜日の夕方の頃に、居間で、
この『秋冬(しゅうとう)』の歌が入っているカセットテープをラジカセにセットして、
高田みづえちゃんの歌声に導かれて、小声で鼻歌を唄ったりしていた。

疲れきって心の余裕のない私は、
中年男には恋する時間もないし、もとより住宅などのローンの返済も大変で、
孤軍奮闘し働いても、さほど貯金の成果がなくて、
とやけっぱちのような心情で唄っていたのである。


このようなことを思いだしたりしたが、私は40代の初めの頃であり、
若かった時だった、と私は独りで微苦笑したりしたのである。


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年金生活の我が家、改めて保険を見直して、私たち夫婦は微苦笑し・・。

2011-10-12 10:50:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

この三日前に、家内から我が家の保険について話しかけられて、
私は定年退職後の保険の状況を改めて確認したりしていた。

中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職した私は、
予定通り我が家は年金生活を始めと、
現役サラリーマン時代に加入していた保険関係の掛け金を大幅に見直した。

『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』、『生命保険』は、現役時代よりも大幅に減らし、
『火災保険』は従来通り、新たにわずかな掛け捨て金の『交通事故保険』に加入した。


こうした発想は、年金生活の夫婦に適度と思い、もとより『国民健康保険』、
そして高齢者になった今の私は『介護保険』もあり、
程ほどかしらと思ったりしてきたのである。

そして、長期及び入院して、高額な医療を受けたとしても、
程ほどの自己負担をする程度であるので、あとの支払いは程ほどの貯金を崩して、
対処すればよい、と生活をしてきた。

過日、家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、
何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は言われたりした、
と家内の帰宅後に私は教えられた。


この後、少しばかりのんびりとした私は、
現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円としている。
こうした明確な条件であったら、我が家としては、
『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として約30万円を支払っているが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。

そして、私は解約の手続きを開始している。

私たち夫婦は、年金生活を7年過ぎ、まもなく8年生となる。
家内は、年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、
と苦笑している。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりしている。


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『100歳まで元気な人の秘密』を読み、やがて私は家内の母に思いを重ねて・・。

2011-10-11 14:43:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日、月刊総合雑誌の『文藝春秋』11特別号の発売日であったので、
少なくとも25歳から長らく購読している月刊誌であり、
昨日の10日は夕方から深夜まで精読したりしていた。

そして、この中の大型企画として『100歳まで元気な人の秘密』に於いて、
現在でも活躍されている後期高齢者の著名人の人たちの日常の生活の過ごしたを多々教示された。

今朝、ぼんやりと黄色に染めはじめたアメリカン芙容(フヨウ)、半夏生(ハンゲショウ)のたわわな葉を見たりし、
家内の母が、4年前の頃に、
『私・・百歳まで・・元気で過ごしたいわ・・』
と家内に言った、と私は家内から後日に聴いたりしていたことを思いだしたりした・・。


私達夫婦は子供に恵まれなかったので、もとより孫もいなく、
我家は家内とたった2人だけの家庭であり、古びた一軒家に住んでいる。

私より14歳ばかり齢上の後期高齢者である家内の母は、
私が定年退職時の直前に77歳の主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年が過ぎている・・。

私の父は私が小学2年生の時に42歳の若さで病死され、
母は14年前に78歳で死別されてしまったので、
私達夫婦にとっては、親はこの世としては家内の母だけとなっている。

このような状況であるが、家内の母は平素の日常は新興宗教に魅せられて、
この本部に2時間ばかり通ったり、信仰を深めたり、
ご自分の後輩のような新人の信者に教示するのが生きがいのひとつとなっている。
そして、毎月、信者と共に巡礼、布教と称して国内旅行を3泊4日前後し、
ご自分の故郷に3泊4日前後で帰郷しているのが恒例となっている。

私達夫婦は、神社仏閣に興味はなく、
旅行先でたまたま神社仏閣を観たりする時は、手を合わせる程度であり、
家内は『お母さんの信じている宗教・・関心がないの・・私達夫婦の前では・・この話をしないで・・』
と家内の母が魅了された初めの12年前頃に言ったりしている。

この時以来、家内の母は私達夫婦の前では、
殆どご自身の魅せられた新興宗教については話題をすることはなかったが、
主人が亡くなった時、葬儀、そして墓地は新興宗教の流儀とされた上、
葬儀の時は家族葬に近い形とし、私の実家の長兄夫婦に知らせることなく施行したので、
私は少し困った、と云うのが本音であった。


私達夫婦は、家内の父が健在の時、私が現役時代のサラリーマンの時代だった時だったので、
年に一度ぐらい家内の両親と4人で国内旅行をしたり、
年末年始の時には、我が家に泊まって頂いたりした。

家内は長女であり、妹、そして弟の三人であるが、
妹は民間会社の一流会社に勤めた先に嫁いで、
順調な生活を歩み、ご子息ふたりに恵まれた人生を過ごしているが、
肝要な跡取りの弟が未婚の30歳を過ぎた時、再三の借金で人生の道を誤り、
家内の両親は、やむなく断絶のような形を決断した。

このような状態であったので、家内の父の葬儀はもとより、
その後の冠婚葬祭に関しても、子として私達夫婦、義妹の家族だけとなっている。


家内の父が死去されて以来、独り住まいとなった家内の母に対し、
家内は殆ど毎晩電話をして、その日の出来事、今後の予定などを繰り返し話し合っている。

こうした中で、家内の母は貯蓄を崩しながら遺族年金で生活基盤としているが、
程ほどの年金を家内は配慮して、
一戸建ての土地を担保に公的機関から借り入れる方法を実施した。
『お父さんが遺(のこ)してくれたものだから・・
お母さんが死ぬ時は・・わずかなお葬式代だけ残してくれれば・・
一戸建ての家、土地は消えても良いわ・・』
と家内は提案して、月々に数万円が百歳まで支給される道を選択したのである。


そして、高齢となった家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が長女の責務のひとつとして、大掃除を兼ねて季節が変わるたびに一週間前後、
泊りがけで実家に行き、孤軍奮闘をしている。

或いは私達夫婦は、温泉滞在の旅行に誘ったりし、
年末年始の時には我が家に一週間ぐらい泊まって頂き、共に生活を過ごしているのが恒例となっている。


温泉滞在は殆どは温泉観光ホテルに5泊6日前後で滞在する中、
2006年の夏ごろに、家内の母は、
『元気なうちに・・北海道に行って見たいわ・・』
と家内に云ったりしたので、
この年の秋に、家内の母にとっては、初めて飛行機に乗り、
初めて北海道に7泊8日で私たち三人は周遊したりした。

翌年になると、沖縄のひめゆりの塔、平和記念館を参拝したい、と要望し、
秋のひととき8泊9日で沖縄本島を訪れたりした。

そして、2008年の2月には、長崎の原爆祈念館を中心に、
長崎市内・雲仙温泉に8泊9日で訪れたりした。

この後、私がたまたま私達夫婦が訪れた『知覧 特攻平和会館』に関して、
私は家内の母に話した影響で、
鹿児島市内、霧島温泉などに4泊5日でしたりし、
温泉滞在と違った異色の旅もしたりしている。

家内の母はもとより後期高齢者のひとりであり、
私達夫婦はこうした旅行の企画するとき、どこでゆっくりと過ごすかで、
私と家内は一時険悪になることもある。


このように家内の母は、独り住まいで生活をされているが、
新興宗教に心を寄せるようになったのは、跡取り息子の軌跡と思われるが、
昨今は新興宗教の信者と共に時を過ごしたり、
新潟の高田町(現在・上越市)で戦時中の青春期の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるので、
慰霊の旅のようなことで、生きがいとしている。


こうしたことは、私はぼんやりと感じるのであるが、
幾つになっても親は、元気で幸せそうに過ごしているのが、
何よりの『子ども孝行』かしら、と思ったりしているのである。

私が家内の母に何より困惑するのは、
『私・・百歳まで・・元気で過ごしたいわ・・』
と家内の母が家内に言っていたことである。

家内の母が百歳になった時は、私は14歳の齢下で、家内も私より五つ下の高齢者となり、
たとえ私が生きていても、或いは家内が生きていたといえども、
私たちは今よりも遥かに体力の衰えた身となる。

『お義母(かあ)さんの面倒・・今のように看(み)られないし・・
悪く考えれば・・共倒れになってしまうよ・・』
と私は家内に言ったりした後、
『残された人生・・生きがいを持って過ごせれば・・後の余生は程々に生きられれば・・』
と言ったりしている。

このようなことをぼんやりと私は、思い馳せたりしたのである。


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東京オリンピックが開催された前後の時代を思い馳せ、そして拙(つたな)い私の彷徨を思い重ね・・。

2011-10-10 08:28:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを眺め、『体育の日』と明記されていたので、
特にスポーツに興味がなく、散策をしたり、ときおりウォーキングをする私は苦笑したりした。

そして確か『東京オリンピック』が開催された日だった、と思いながら、
そうだよねぇ、1964年(昭和39年)のこの日に、
日本で初めて、アジアでも初めての第18回オリンピック・東京大会が開幕された、
と思い重ねたりした・・。

この後、ぼんやりと、あの当時の1964(昭和39)年の前後の頃が思いだされた・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で、交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
クラブとしては写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部のひとり生徒に魅了されて、と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は言われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
そして次兄は高校時代は山岳部、大学時代はワンター・フォーゲル部に所属し、
何かと山の魅力を私は聞いたりした影響もあり、
私は麦僊としてワンダー・フォーゲル部に入部し、山歩きをしたりしたが、
やはり映画館には相変わらず通っていた・・。

そして秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、
都心はもとより、種変も日増し毎に大きく景観が変貌していた・・。

そして私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

こうした日のある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1965(昭和40)年1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉学院長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
アメリカの白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしたアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、監督、そして撮影、照明などのスタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子を養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
この当時として、ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

映画の脚本、小説の創作にも、あえなく敗れ、私の彷徨した時代に終わり、
遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。


まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこの新設された外資のレコード会社に転籍させられ、
企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。


まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このように拙(つたな)い青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない身も心も黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは誰しも叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。


このように東京オリンピックが開催された前後を思い馳せながら綴ったが、
齢ばかり重ねた高齢者3年生となっている今、懐かしく愛惜を重ねている・・。


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『寒露(かんろ)』の時節、東京郊外は快適な日々を迎え、私は微笑みながら・・。

2011-10-09 08:05:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり.
今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、『寒露』と明示されて、思わず微笑んだりした。

古来より、草花に冷たい露が宿ると伝えられているが、
旧暦時代の名残りであり、
昨今の新暦の現代では、秋の長雨をまじえながら台風が過ぎ去り、
朝夕、肌寒くなるが、日中は秋晴れ、そして秋日和に恵まれ、さわやかな日が多くなる。

山里から里、そして街へと落葉樹の色合いが朱色、黄色に染められる錦繍(きんしゅう)の季節となり、
この間、農作物の収穫も終えて、果実も実り、
こうした情景をテレビで視聴したり、スーパーの店内で見かけたりすると、
齢ばかり重ねた私でも、何よりの心の励みとなり、私は毎年みつめて微笑む時節である。

そして私の住む地域は、朝夕は17度前後、昼下がりは23度前後の秋日和の日々が多く、
暖冷房のエアコン、ガスファンヒーターのお世話になることもなく、
移ろう秋の情景に心を寄せながら、散策、ウォーキングもでき、
もとより読書も良し、夜のひとときには月を愛(め)でることもできるので、
私にとっては快適な日々となる。


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『赤い羽根』、私のサラリーマン時代だった時のささやかな想いで・・。

2011-10-08 17:29:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者の身であるが、
過ぎし10月の初め、NHKのニュースを視聴していると、男性キャスターのスーツの襟に、
赤い羽根が付けられていたので、
『共同募金』の時節が到来した、と教示させられた。

この後、私はぼんやりと現役時代のサラリーマンだった頃、
『赤い羽根』を付けていたことを想いだしたりしていた・・。


今から20数年前頃、私は出勤でいつものように最寄駅の小田急線の『成城学園前』に行くと、
駅の改札に近い所で、
『お願いしま~す・・ご協力下さ~い・・』
と左右でそれぞれ一列に並んで、ご婦人と小学生の男女が30名前後いた。

私はご婦人のひとりに近づき、
百円玉を2つばかり募金箱に入れて、スーツの社章(会社のバッチ)の近くに付けてもらった。
わずかに芳(かぐわ)しい香りが40歳前後の女性から漂(ただよ)い、
少しときめきを感じたりした。
そして、やはり女性は、40過ぎてから魅力が増す、と余計なことを感じたりした。


その翌年だったと記憶しているが、この日いつものように並んいたが
私はこの中の小学生の女の子に、偶然に目があってしまったのである。

私は近づき財布を見たら、五百円玉しかなく、募金箱にいれたが、
女の子にたどたどしく赤い羽根を付けてもらった。

『有難うございまし~た。・・気を付けて、行ってらしゃい・・』
と私が立ち去る時に言った。
ちょっとお茶目な女の子であったが、
母親の確かな情操教育を受け、さりげない感性のある子で、
私なりに好感を覚えたのである。


その後、プラットフォームで胸元を見ると、
赤い羽根はちょっと曲がって付けられいたのに気付いたが、
私は微苦笑したりしていた。


このような『赤い羽根』に関しては、
数多くの思いでもあるが、定年退職後の年金生活の私は、
買い物とか本屋などに用事がない限り、駅前に出ないのが多くなっている。

果たして今も駅前で、
『お願いしま~す・・ご協力下さ~い・・』
女性や児童が真摯な声で叫ばれているのかは、解からないのである。


私の住む街も、自治会に於いて、
共同募金の一環として、協力通知書が回覧され、本日の昼下りに担当のお方が徴収で来宅された。

私は3日前に、現役時代より少し多めに指定された袋に入れ、
手渡しの用意をしていたので、さりげなく明るい笑顔で手渡したりした。


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