前回は観光地めぐりの周遊型の私なりの想いのひとつを投稿したが、
観光ホテルなどで滞在して、周辺を散策したり、観光ホテルで朝の10時過ぎ、
或いは昼下がりの時など自在に露天風呂につかったり、
このような滞在型も魅力があり、
私たち夫婦、或いは私の定年退職後の少し前から独り住まいとなった家内の母を誘って
3人の旅を重ねたりしてきた。
この中のひとつ過ぎし2008年5月18日から5泊6日で、
富山市郊外の里山にある観光ホテルに滞在した時のことがあり、
【 越中・呉羽山温泉滞在記 】と題して投稿しているが、今回はあえて再掲載をする。
【・・
序章 温泉滞在の選定は
私たち夫婦は、家内の母を誘い、ここ3年に於いて、年に数回温泉滞在旅行をしている。
私は自動車を所有できず、年金生活の身であり、程々の旅費で5泊6日前後の温泉滞在をしている。
こうした場合は、東京の郊外に住む私達は、新聞の旅行の広告、駅前にある旅行会社のパンフレット、
そして旅行会社の月刊誌で旅行の選定をすることが多い。
旅行会社の主催に基づいて、
都心の数箇所に集合して、団体観光バスで、現地の温泉地に直行するプランである。
観光周遊コースと違い、気楽に現地の温泉観光ホテルまでバスに乗っていれば、
連れてってもらえるプランであるので、
家内の母のような高齢者が利用されることが多いのである。
観光ホテル滞在中は、それぞれ個室でゆったりと過ごし、
食事処で全員で、朝夕の食事を頂き、好きな時に温泉につかり、
そして日中のひとときを自在に現地の観光地めぐりが出来るので、
60代、70代のご夫婦がこうしたプランを利用されることが多い。
、
私達夫婦は齢上のこうしたご夫婦と、
ときおり語り合いながら、人生の知恵をさりげなく享受させて頂き、学んだりしている。
第1章 桐の薄紫色の花
5月18日(日)
家内と2時半過ぎに起床し、私たちは4時40分に家を出て、タクシーで最寄駅の成城学園前に行き、
始発の電車で新宿に向かい、上野駅に着いたのは5時45分であった。
家内の母が千葉県の八千代市に住んでいるので、待ち合わせ時間を6時10分としていた。
私たち夫婦は家内の母と予定より早めに逢い、
喫茶店でコーヒーを飲んだ後、上野の集合時の7時10分前に行き、指定の観光バスに乗り込んだ・・。
この後、新宿の第2集合場所に向かったのであるが、
都心の御茶ノ水、水道橋、飯田橋の付近は、
日曜日の為には閑散として、新宿の都庁付近に早めに到着したのである。
私たち夫婦は、最寄の集合場所は新宿であるが、
家内の母が高齢者に伴い、わざわざ上野駅まで出向いたのである。
新宿の集合時間であったならば、
自宅を始発バスの6時過ぎで充分に待ちあうのであるが、こればかりは止む得ないと思っている。
新宿のビル街を8時過ぎ出た後は、
関越自動車道で北上し、上信越自動車道の甘楽PAで小休憩した後は、
松林、杉林の常緑樹の中に、落葉樹の萌黄色、緑色、そして深緑色に染められた豊かな景観の中、
ときおり薄紫色の花が観られた・・。
私は車窓から注視しながら見つめていると、
下方に咲いているのが藤(フジ)の花で、空に向かって咲いているのが、
桐(キリ)の花と気付いたりした。
ともに薄紫色していたのであるが、東京の郊外より一ヶ月遅い陽春かしら、
と名残りの春景を心に残ったのである。
黒姫、妙高高原付近にも数多くの桐の花が多く観られ、
やがて日本海の北陸自動車道の名立谷浜PAで昼食としたのであるが、
新宿から4時間足らずで到着したのは、
昭和の終わりの頃のJRで金沢、能登半島を旅した私は、ただ速さに驚きである。
この後、富山ICで高速道路の北陸自動車道を降りて、
富山市内の中心部を抜けたところに小高い里山が観えた。
呉羽山と呼ばれている里山の頂上付近に、
滞在する『呉羽山:富山観光ホテル』が観え、周囲は樹木につつまれていた。
そしてチェック・インした後、
私は大浴場に身をゆだねたのは午後3時であった。
第2章 富山、そして呉羽の風土と文化
大浴場の湯は、肌がつるつるとなるようで、心地よくご婦人の身であれば、なおのことよろしいかしら、
と余計なことを考えて、広いロビーで浴衣でくつろいでいた。
そして壁面の一面に『富山の地名の由来』、
その左側に『呉羽の地名の由来』と題された解説書が展示され、
私は深く読み耽(ふけ)ったりした・・。
私なりに富山についての書物より思い浮かべれば、
日本の言語の境界線は、糸魚川と古来から云われている。
そして、東西文化の境界線は越中の国の説が多いと思われている。
正月の雑煮は角餅は関東風、味付けや言葉は関西風であり、
色々な生活様式で東西の要素が融合している。
その越中の中心部に呉羽丘陵があり、
東西文化の融合した越中を更に東西に分けているのが呉羽丘陵でもある。
現在では、呉羽丘陵を境とし、富山県を呉東、呉西と分けられている。
奈良時代に於いて、この地域一帯の行政を司っていた越中国府は、
現在の高岡市伏木におかれていた。
その古国府から見ると、現在の富山市は、
呉羽丘陵の外に当たる為、外山郷と呼ばれていた。
その後、天文元年に在地豪族の水越勝重が藤居山に城を築き、
外山城と呼ばれていたが、
この藤居山には、古くから真言宗の富山寺(ふせんでら)があり、
いつしか外山から富山になったと伝えられている・・。
そして呉羽に関して、私なりの解説の綴りを思いだすと、
能には『呉羽(くれは)』という演目があるが、
呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という2人の美女が、
呉の国から渡来し、呉服の里に機織りを伝えたという話である。
『呉服』とは絹を作る人々のことで、日本では『くれはとり』と呼ばれいる。
『はとり』は『はたおり』がつまって出来た言葉で、
『くれはとり』とは、中国から渡来した機織り技術者のことである。
奈良時代になると、それを音読みで『ごふく』と呼ぶようになり、
以来、絹の衣服『きもの』は、『呉服(ごふく)』と呼ばれるようになった。
現在に於いては、呉羽山の西側が『呉羽(くれは)』、東側を『五福(ごふく)』という地名になっている。
尚、古代には、この地域に大和朝廷に仕えた帰化系り機織り技術達が暮らしていた。
このようなことが、滞在したホテルりロビーに明示されて折、
私の記憶が間違いなければ、上記のように掲げられていた。
第3章 街中を散策すれば
5月19日(月)
昨夕は8時過ぎに寝付いてしまったので、早朝の3時過ぎにロビーで私は煙草を喫っていた・・。
ホテルの夜間担当の方が、朝刊を取り込んで、新聞棚にファイル化していたのには、
驚きながら、ひとつの地方紙を私は取った・・。
『北日本新聞』を読み出したのであるが、『越中文学館』の連載記事で、
たまたま今回は亡き作家の久世光彦(くぜ・ てるひこ)氏を取り上げて折、
私はこのお方の遺言のような、昭和は遠くになりにけり、
と名言を思い出しながら記事を読んだのである。
氏は敗戦時の直前、昭和20年7月に、ご両親の出身地の富山市に疎開され、
富山高校卒業まで、この地で過ごされた様子、
そして空襲を受けた時の鮮烈な思いを綴られているが、
このことは以前で読んでいたが、改めて氏の言葉を再読し、
富山市の空襲時の惨禍を私なりに重ねたりしていた・・。
朝食後、街中で独りで美術館へ出かけるつもりであったが、
遅ればせながら月曜日は休館日が多く、思い立つように岩瀬浜を散策することに決めた。
駅前からライトレールと云われているモダンな市電に乗り、
日本海に接している終点駅の岩瀬浜に下りた。
江戸時代から明治期の頃まで、北前船の往来で繁栄した岩瀬浜であるが、
私は回船問屋などの豪壮の館には興味がなく、浜辺を歩き出し、左は日本海の洋上を眺め、
かっての北前船の往来時に思いを馳(はせ)たりした・・。
そして、右前方の黒松越しに立山連峰の景観を期待し、数キロ浜辺を歩いたが、
やはりこの時節には無理な願いと理解し、私は富山市に戻った。
そして、本屋に寄り、中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)の新刊本を購入した後、
昼食に迷った末、居酒屋風の食事処に入った。
昨夕は観光ホテルで白エビの天ぷらを頂いたので、
刺身を期待し、入店したのであるが、残念ながらなく、
地酒の『立山』を呑みながら、ホタルイカの一夜漬け、ブリの刺身などを想像以上に美味しく頂けた。
そして私は機嫌よく、若手の男性店員に、
『一夜漬け・・やはり東京より、遥かに鮮度が良く・・地酒を呑みながら頂くと、更に味が増しますよ・・』
と絶賛したりした・・。
その後、タクシーで観光ホテルに帰還した後、
大浴場で身体を清め、部屋の布団に浴衣で横たわりながら、
購入した本を数ページ読んでいると、家内達が市内めぐりから戻ってきた。
第4章 セラピーユ、そして読書
5月20日(火)
小雨が降りしきる早朝を迎えたが、3時過ぎのロビーは静寂で、私は煙草を喫ったりして、
地方紙の『北日本新聞』の朝刊を読みはじめた・・。
そして、『日経』の朝刊も読み終えると、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を開いたりした。
旅先で自由きままに過ごしているし、
もともと少し甘い自身の性格に更に心身弛緩してしまうので、
多少の緊張感を持たせるのに最適な本かしら、と思いながら読んだりしているのである。
6時過ぎに部屋に戻ると、
『昼過ぎまで・・雨らしいので・・今日は私達は館内でゆっくり過ごしますので・・
セラピーユに一緒に行きませんか・・』
と家内から私は誘われた。
この観光ホテルに於いては、セラピーユと称された岩盤浴が、ひとつの施設の特徴と聞いていたのである。
観光ホテルの案内書に寄れば、
《 トルマリン鉱石を利用した
新しいリラクゼーション「セラピーユ」 》
と明示されて、
下記のように解説されている。
《・・
マイナスイオンを発生させるトルマリン鉱石、
免疫力の向上や細胞活性の効果のあるラジウム鉱石、
発汗作用や老化防止効果のある遠赤外線など、
自然界がもたらす癒しのパワーを利用した
お湯のないリラクゼーション「セラピーユ」をご体験ください
・・》
私は初めて体験するものであるが、家内達が10時30分より予約したと聴き、
私も同行することとした。
予約を済ませ、指定されたワンピースのような浴衣を受け取り、大浴場で身体を清め、温めた後、
下着も付けないようにと指定された浴衣を着て、セラピーユの館内の待合室で待機していた。
家内の母は、華やかに色合いした指定の浴衣となり、
『おかあさんさぁ・・このような格好になったのは・・人間ドック以来だょ・・』
と私は家内の母に軽口を云ったりしたのである。
岩盤浴の中は、畳一帖ぐらいに鉱石がゆったりと仕切られたのが、20前後の升目丈になって折、
私はその中のひとつに毛布を敷いて、枕を置き、横たわった。
まもなく、薄暗くなり、音楽が流れ、天上の満天の星空のような景観となったのである。
30分過ぎた頃、館内は明るくなり、私はゆっくりと起き上がった・・。
前方のご婦人が起き上がった時、ワンピースのような浴衣から白いパンティが見えて、
私は少しドキりとした。
出入り口の冷水を一杯飲んでいた時、
先程のご婦人が見えて、私と同様に冷水を飲んでいた。
60歳を少し過ぎたと思われるが、若々しい清楚な顔立ちの小柄なご婦人であったが、
私の方が何かしら照れてしまった。
この後、家内達に声をかけて、私は大浴場で泡風呂に入ったりして、
先程の見知らぬご婦人を思い出したりしていた。
部屋に戻り、窓辺が雨が降りしきる緑に染まった雑木林を眺めたりし、
家内達と他愛ない話をしたりしていた。
この後、私は布団に横たわり、本を読みながら、昼寝をした。
目覚めたのは、一時過ぎで、陽差しが燦燦と里山一帯を照らしていた。
夕食の後、遠方に住宅街の灯が銀河のように観え、その後方は市のビルの灯が観え、
♪街の灯(あか)りが とてもきれいね
ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
【『ブルーライト・ヨコハマ』 作詞・橋本 淳 】
と私は口ずさんだりしていた。
第5章 民俗民芸村を散策すれば
5月21日(水)
私はいつものように独りで、ホテルを8時半過ぎに出で、里山の市道を少し登り、展望地に着いた。
市内の街並み、遠くに立山連峰が観える所であるが、本日もかすんでいるだけであった。
地元のご夫婦と立ち話をして、冬晴れるの時節であったならば、
一望でき、カメラ愛好家はもとより、テレビの報道の方たちも撮影で見られる場所と、
教えてくれた。
今の時節は、夕暮れのひととき、週に1度ぐらいは、
山並みが綺麗に観える時もあり、それなり美景である、と言葉を重ね、教示された。
この後、私は遊歩道を下り、
『民俗民芸村』で各所を観て廻り予定であったが、
拝観時の9時前であり、それぞれ竹の立ち箒(ほうき)で、掃きながら清められていた。
私は外れにある長慶寺に隣接した五百羅漢に行き、
右側に長慶寺、そして墓地、左側は里山を切り開かれた斜面にそれぞれの表情、しぐさの五百羅漢が観えた・・。
杉木立と竹林の中で、木漏れ陽を受けたそれぞれの表情をたたえた石像を眺めると、
現世の生臭さを忘れさせて下さるひとときある。
私はうっとりと眺めていると、斜面の小道を歩かれている老女に逢い、思わず黙礼をした。
そのお方は、私に近づいてきたので、
『お元気そうで・・何よりです・・』
と私は右手に杖をたずした老女に言った。
このお方は付近に住まわれる方であり、毎日周辺を散策され、
私の亡き母と同じの大正9年生まれと知ると、
私は心身ご健在でおだやかな表情をたたえた老女を絶賛した。
この後、歩道の素朴にベンチで煙草を喫っていると、
私より少し齢上の女性から声を掛けられて、昨今の世間話をした。
五百羅漢を眺めながら、昨今の社会の節度のない状況を話したり、
そのお方が日本海の海沿いの小川温泉で過ごされ、
幼少時の頃の食べ物、乗り物などの話を互いに話し合ったりした。
私は偶然にお2人の年配の女性と話し合えたが、
こうしたことはその地の風土、文化、日々の暮らしを知る上、言葉を交わし、重ねていると、
まぎれもなく最良の教えを受けると私は確信し続けている・・。
この後は、茶室の円山庵に寄り、抹茶と和菓子を頂きながら、応対して下さった30代の女性に、
具体的に露地の形態と樹木を誉めたりすると、
お互いに心がほぐれ、少し笑いあったりした・・。
、
そして帰り際には、
さりげなく活けられていた鉄線、菖蒲の花を誉めたりした。
そして、この後は『陶芸館』、『考古資料館』、『民芸館』、『民芸合掌館』、
『売薬資料館』を拝観し、
数多く教示させられたりし、遊歩道の登り道を20分ばかり歩き、
滞在している観光ホテルに帰還した。
第6章 館内にゆったりと
5月22日(木)
今回の滞在で、私は殆ど夜の8時には寝付き、早朝の3時にはロビーで、ペットボトルの煎茶を飲みながら、
煙草を喫ったりしている。
そして、『北日本新聞』、『日経』などの朝刊を読んだりし、
中西輝政・著の『日本の「岐路」』(文藝春秋)を昨日読み終わり、
持参してきた川本三郎・著の『向田邦子と昭和の東京』(新潮新書)を読みはじめている・・。
ときには、館内に置かれている雑誌を見たりしている。
隔月誌『こころの色』(民活開発)は初めて見る雑誌であったが、
特集として《歴史と文化に出会う、温泉旅》に惹かれ、読んだりした・・。
この中で、亡き作家の開高健(かいこう・けん)氏が残された旅の極意として語った言葉として、
『 少年の心で、大人の財布で歩きなさい 』
の名言が引用されて、私なりに深く読んだりした。
或いは、連載の『わたしの健康法』で、今回は私の好感している浜美枝(はま・みえ)さんが掲載されて、
改めて浜美枝さんの確かな発言に魅せられている。
ある時は、この観光ホテルのパンフレットを見たりし、
『風流絵巻』と題され、四季折々の状景、館内の優美な案内を見たりしている。
この中で詩歌になぞられて、
立山に 向かいし肩に 桜落ち
踏み入れば 真綿の心 寄り添いし
世をはなれ 心の糸を ゆるりゆるり
暖かき 絹糸の水に 肌染めぬ
我が身いま 花渡りゆく 蝶の舞
等の読みながら、その時節に思いを馳せたり、私なりに微苦笑しながら、読んだりしている。
朝夕の食事時以外は、すべて自在な時を過ごし、
風呂に入ったり、地酒、ビールを呑んだり、読書に疲れれば、昼寝をしたりしている。
最終章 旅の終りは、おむすびとなり
5月23日(金)
温泉滞在旅行も最終日となり、観光ホテル3時に出発のバスの時間まで、
市内めぐりをしょう、と私は家内と話し合い、
私達3人はタクシーで城址公園に向かった。
城址公園は、工事中が多いが、
この中の『佐藤記念美術館』に入館し、『インドネシア更紗のすべて』の特別展示があり、
私なりに更紗の布地を鑑賞したりした。
常設の茶室などは、三畳半の台目には注視したが、あとは私が感心するほど興味がなく、
出入り口に行った時、ひとつの展示予告ポスターに魅せられた・・。
画家のコローによる『真珠の女』(部分)であり、何かしら訴えるようなまなざしの表情は、
絵心には全く解からない私さえ、瞬時に感覚として詩情ある情念に圧倒的に魅了させられたのである。
何かしら今年の6月の中旬より、国立西洋美術館で展示される予告としてのポスターであった。
その後、『郷土博物館』で、富山城を中核とした戦国時代からの興亡を展示されていたが、
一時間ばかり観た後、駅前の喫茶店行き休息した。
その後、駅ビル内で、私は創意工夫された『おむすび』を
家内たちは、菓子パンを多めに購入し、昼食兼夕食用として、タクシーで観光ホテルに帰還した。
観光ホテルを午後3時前に出発し、田植えの終った田んぼの美景を眺めたり、
桐の薄紫色の花に見惚れたりし、新宿に着いたのは夜の8時半であった。
・・】
このように投稿していたのであるが、この旅の余情として、
私は一週間後に【 吉岡聖恵の唄声に魅了され・・。 】と題して投稿している。
【・・
過日、富山市に温泉滞在旅行に向うで途中で、
昼食兼休憩として『名立谷浜SA』に観光バスから私は下り立った・・。
外れの煙草の喫える喫煙場に向う折、
♪心の真ん中が痛い
あなたを思うたびに
【『抱きしめてあげる』作詞・山田ひろし 】
私はこうしたサービス・エリアでも、徳永英明さんの最新の唄が流れていたことに微笑していた。
この後、
♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから
【『帰りたくなったよ』 作詞・水野良樹 】
あたかも青空に向かい、素直で伸びのある歌声に、私は瞬時に心を奪われた・・。
私は初めて聴く曲で、唄われた歌手、そして曲名が、旅の間は気になっていたのである。
(略)
夜のひととき、私はパソコンでこの曲を検索したのである。
ヤフーの動画で、オリコンのベスト20を見て、初めて知ったのである。
水野良樹と山下穂尊、そして同級生の妹・吉岡聖恵によるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、曲名は『帰りたくなったよ』という曲名であった。
私はこの後、無料動画でこの曲を探し、2時間ばかり聴き惚れたのである・・。
私は齢を重ねた63歳の年金小父さんの身であるが、
これほど音楽に夢中になれたのは、
一昨年の秋、綾香ちゃんの『三日月』以来かしら、と微苦笑している。
私は過日の温泉滞在旅行で、思いがけないふたつのプレゼントを頂いた。
ひとつはこの『帰りたくなったよ』の歌であり、
もうひとつは美術館の出入り口に掲載されたコローによる『真珠の女』(部分)ポスターの一枚である。
・・】
このようなささやかな旅でも、それなりに深い想いが私の心に、
今でも鮮明に残っているのである。
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