夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

思わず私は、『仰げば尊し』の歌を心の中で唄い・・。

2010-03-19 17:46:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
日中のひととき駅前までバスに乗り、駅前に買物に向った。

晴れ時々曇りで13度前後であるが、ときおり北風が吹き、風が冷たく感じる日中である。
駅の近くの中学校の前をバスが通り過ぎようとしたら、
車窓から中学校の校門に数多くの先生、卒業生と見られる男子、女子生徒が見られ、
その周辺には後輩の生徒が見られた。
私が卒業生と判ったのは、それぞれが小さな花束を手に持ち、談笑していたからである。

私は中学校の卒業式が終わり、校門でお互いに別れを惜(ほし)んでいる情景に、
偶然に目にしたのである。

私にとっては車窓から数秒のことであったが、心の中で思わずひとつの歌を唄いだしたのである。

♪あおげば とうとし、わが師の恩。
 教(おしえ)の庭にも、はや 幾年(いくとせ)。
 思えば いと疾(と)し、この年月(としつき)。
 今こそ 別れめ、いざさらば。

【『あおげば尊(とうと)し』 作詞・作曲・不詳 】

駅前で買物を終え、駅前のバス停車で帰路方面のバスを待っていたら、
私が中学校の卒業式を思い出されたのである。
確か後輩のほぼ全員が『蛍の光』を合唱し唄った後、私達卒業生は恩師、後輩達の御礼を込めて、
『仰げば尊し』を唄ったと思ったりしている。

私は小・中学は劣等生のひとりで、長兄、次兄は優等生であり、
お兄さんは成績も良く言動も周囲ほめられたのに、
と私の担任の先生を困らせたりしていたことが多かったのである。

私は長兄、次兄のまったく関係のない都心の私立高校に入学することになっていたので、
早く中学校から出て、心気巻き直しのような心情で式にのぞんでいた。
この後の謝恩会で、担任の先生と逢った時、
『XXくん・・のびのびと高校生活に望んで下さいね・・』
と先生は私に云われ、
『私も初めて地元の学校から、都心の高校ですので・・恥ずかしくないように頑張ります・・
先生には大変ご心配をお掛けしまして・・』
とこのような意味合いの言葉を重ねたのである。


♪互(たがい)にむつみし、日ごろの恩。
 別るる後(のち)にも、やよ 忘るな。
 身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。
 今こそ 別れめ、いざさらば。

【『あおげば尊(とうと)し』 作詞・作曲・不詳 】


帰路のバスの車窓から中学校の前を通り過ぎたら、校門には人影も見当たらず、
バスが5分ぐらい走っていると、歩道にひとりの卒業した中学生が歩いていた。
小さな花束を右手に恥ずかしそうに持ち、晴れ晴れとして表情が車窓から見えたので、
私は何故かしら、これからの人生は何があろうと、ここ一番は頑張って、と思ったのである。

帰宅後、私は庭のテラスに下り立ち、ぼんやりと煙草を喫ったりし、
やはり卒業式は愛惜きわまる美麗な情景であり、
人生のひととき純粋に共に学び、交友し、歳月を共有した貴重な時代である、
と思いを重ねたりした。

♪朝夕 馴(なれ)にし、まなびの窓。
 螢のともし火、積む白雪。
 忘るる 間(ま)ぞなき、ゆく年月。
 今こそ 別れめ、いざさらば。

【『あおげば尊(とうと)し』 作詞・作曲・不詳 】


この後、居間に戻り、このとき一番聴きたい歌を【YouTube】で検索したのである。

http://www.youtube.com/watch?v=qqBqghm8oB4&feature=related
【『あおげば尊(とうと)し』 作詞・作曲・不詳 コロンビア合唱団 】

この歌を聴いたのであるが、格調性に満ちているので、
新たに検索しはじめたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=ihdres4pgoA
【『あおげば尊(とうと)し』 作詞・作曲・不詳  映画『二十四の瞳』 】

この歌を再検索したら、映画『二十四の瞳』の尋常小学校の卒業式のシーンが出てきて、
私は驚きながら、しばらく見惚(みと)れてしまったのである。
私は昭和19年生まれであるので、もとよりの尋常小学校は無知であるが、
卒業式にまつわる情景の『仰げば尊し』の歌、これにまさるものはないと微笑みながら、涙を浮かべたりしている。


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創作家・倉本聰(くらもと・そう)氏から教示された私は・・。 【下】

2010-03-19 09:06:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
ここ2日ばかり敬愛する倉本聰(くらもと・そう)氏について、このサイトで投稿をしてきた。

たまたま氏の最新の随筆を拝読し、私なりに喚起され、
3月17日に【倉本聰(くらもと・そう)・著の『疚(やま)しき沈黙 ~富良野風話(五)~』】と題して投稿した。

投稿文を綴っていると、お逢いできたことのない未知の氏への思いが浮かび、
私なりの思いを【創作家・倉本聰(くらもと・そう)氏から教示された私は・・。 【上】】と題して、
昨日の18日の午前のひととき投稿したりした。

そして、夕暮れに偶然に氏のラジオドラマの製作過程などのNHK放映されると知り、
瞬時に【今宵は、NHKテレビで『倉本聰の“創る”世界~ラジオドラマ制作の舞台裏~』を視聴・・。】と題して、
投稿を重ねたりしてきた。

今朝、雨上がりのまばゆい朝の陽射しを受けて、
ぼんやりと氏のことを思ったり、私のつたないなりに数多く影響を受けてきた。

たとえば住居に関してなども、この中のひとつであるが、
恥ずかしながら私の無念さの心情を【私なりの住まいのあこがれと現実は・・。】と題して、
このサイトで昨年の2009年5月8日で投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ここ4日ばかり小雨が降り続いて折、ときおり止んだりしている。
私はいつものようにほぼ毎日に最寄の400メートルのスーパーに買物に行ったり、
銀行、郵便局、理髪店(散髪屋)に寄った程度で、余り散策をしていない状態である。
そして、余りにも小雨が降り続けるので、早くも走り梅雨かしら、と苦笑したりしている。

今朝は大粒の雨脚が屋根にあたる音が聴こえ、雷鳴が響きわたる音で目覚めた後、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、激しい雨の降る空をぼんやりと見上げたり、
そして玄関庭の樹木を眺めたりした。

新緑の樹木は豪雨を受け、樹木越しの景色は、白いベーェルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいる。
そして地上の草花は、激しい雨と水しぶきを受けて、
もう降参よ、と悲鳴をあげるように震(ふる)わしていた。

そして、私の履いている下駄も水しぶきを受けていた。

しばらくすると、付近で落雷が数度響きわたり、大地を震(ふる)わした・・。
私は土砂降りの雨を眺め、よく降り続けるね、とため息をし、
その上、雷だもの、俺も降参したいよ、と心の中で呟いたりした。


この後、雷鳴も消えうせて、主庭の激しい雨から幾分衰えた雨を眺め、
やがて雨は止み、空は明るくなり、しばらくすると陽射しが射しこんできた。
新緑の枝葉は雨粒をたたえて、雨粒は陽射しを受けると煌(きらめ)いていた。

私は初夏にときおり見られる夕立である白雨(はくう)のようだった、
と思いを馳せながら、しばらく見惚(みとれ)れたりしていた。

そして、この後はどんよりとした曇り空におおわれて、
小雨が降りだし、そして止んだりし、不安定な気候の午前中であった。


私はこのような情景を居間から眺め、主庭の若葉を見つめたりしながら、
パソコンに向かい、このサイトに綴った自身の投稿文を読み返していた。

そして、あの頃はこのような思いであったのかしら、と微苦笑した。


【 倉本 聰・著の『失われた森厳~富良野風話~』】と題して、
2006年5月27日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
今、読んでいる本は、倉本 聰・著作の『失われた森厳~富良野風話~』である。

私は倉本 聰氏に関しては、1部のシナリオを除き、購入し、精読しているつもりである。
従って、私はこの著作者から影響は多大に受けているひとりである。

昨夜、読んでいて、私の場合であったら、と考えされられた。

一部を無断であるが、引用させて頂く。


『適疎』
・・・

僕が住んでいる富良野の土地は文化村という森の中にある。

この村はそもそも、東大演習林元林長・高橋延清先生の、
どれ位の森にどれ位の人間が住めば、
人と森とが共存出来るかという一つの実験的な試みから始まった。

市の所有する約1万2千坪の自然林を図面上12に分割し、
家を建てる場所以外、木を伐ってはいけない。
垣根、塀などを立ててはいけない。
水は沢から引く。
電気だけは一応通してくれる。
そういうことでスタートした。

爾来に20数年、12の土地は全て売れ夫々に夫々の家が建っていたが、
僕を含めて3軒だけを除くと後は全て別荘であり、
それもあんまり利用されていないから、
全ての森は僅(わず)か3軒で殆ど独占していることになる。
言い方を変えれば、1万2千坪割る3、
イコール1軒当たり4千坪の森の空間で豊かに暮らしている計算になる。

この森にはフキ、ゼンマイ、ツクシ、フキノトウ、ウド、タラノメと山菜が豊富だし、
秋になれば様々なキノコが森のあちらこちらに顔を出し、どこで採ろうが文句は言われない。

そもそも僕は土地は所有するという概念にかねがね疑問を持っているのだから、
塀に囲まれた都会の暮らしならいざ知らず、自然を独占するのは自由である。

過疎の暮らしとはそういうものである。

確かに過疎の地は消費が乏しく、従って雇用の機会が少ない為に、
経済社会の概念から見れば失格というレッテルを貼られてしまうだろう。
しかし僕のような自由業のものにはここがたまらない天国である。

・・(略)・・

僕は今この土地を決して過疎でなく、適疎であると認識している。


以上、引用させて頂きました。
注)著作者の原文にあえて改行を多くした。


著作者の以前からの数多くの随筆で、概要は綴られていたのが、具体的な事は初めてである。
私は、今回の『適疎』を読んでしばらく言葉を失った。

さて、私達の退職後の身としての夫婦は、
これ等の万一与えられた場合、果たして生活が出来るかしら、と考えた・・。


私達夫婦が、このような文化村の森の生活を与えられた場合、
退職後の身となった今、果たして過ごせるものだろうか・・。

著作者が40代半ばの時、開墾者のような強い意志と意欲があった上で、
周囲の人々との交流で自己を鍛えられた、と想像する。
著作者のご夫婦は、こうした時の流れの中、森の中で生きる知恵を修得し、
定着という稀(まれ)な栄誉を自ら獲得したと思われる。

私の20歳頃のあこがれとしては、
里山の一面、500坪前後の樹木に囲まれて、平屋の30坪前後の住居で生活するのが夢であった。

私は自由職を目指していたが、拙(つたな)い自己を悟(さと)り、サラリーマンの身に転じた。

28年前頃、東京の郊外にわずか100坪の敷地のある住居を構え、
若さの勢いで茶室も付けてしまい、悪戦苦闘しながら住宅ローンを返済してきた。

都心に勤めサラリーマンの生活をしている中、
都会の垢に染まり、利便性に囲まれ、甘受している身となった。

定年退職後の今、単なるあこがれだけては、心身共々無理である。

私のような小心者は、今ある庭の樹木を手入れをし、
著作者の住まわれている森に思いを馳(は)せるのが、
私の拙(つたな)い実力に相応しい生活かしらと苦笑している。
・・】

このように投稿していたのである。

私は東京郊外の調布市の外れに住み、世田谷区と狛江市に隣接して地域の関係で、
電話に関しては、世田谷区の管轄下となっている。
そして小田急線と京王線の間にあり、いずれも最寄駅まで15分前後の徒歩の距離である。

私共の夫婦は、自動車を所有するつもりがないので、
私は平素は駅前までは散歩がわりに歩くが、都心に出たりする時は、殆どバスと電車を利用し、
止む得ず急ぎの用事とか冠婚葬祭などの場合はタクシーを使うこともある。

いずれにしてもバスと電車を利用しても、
自宅から都心の新宿、青山、六本木、渋谷、東京駅には、ほぼ1時間で行ける。

私の住んでいる地域は、住宅街であり、この外れに私の家がある。
そして落葉樹の多い樹木につつまれた庭を眺め、
築後30年過ぎた古惚けた家に住み、私達夫婦は子供に恵まれなかったので、
ふたりだけの生活している。

このような今の現状の上、私は齢を重ねるたびに体力も衰え、
今のようにスーパーなどで買物、病院、そして本屋が近くにないと、
何かしら不便と感じ、郊外の利便性に甘受しているのである。

しかしながら私の幼年期は農家の児として育ったので、
起伏の少ない田畑、あぜ道、湧き水、そして竹林、雑木林などに、限りなく愛惜しながら心を寄せている。

こうした時、ときおり家内と国内旅行をして、
里村の情景を眺めながら、あぜ道、農道、村道を歩いたりし、
しばらく見惚(みと)れたり、ときには涙を浮かべることもある。

そして、齢を重ね体力も、気力も衰えた今、
里山に住むという夢のようなあこがれの住まいと現実とは違う、と思いを知らされたりしている。

・・】

このように投稿し、氏への作品の思いとは的外れであるが、
今後、改めて氏の作品に関しては、後日に投稿をするので、ご容赦の程を。



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