第4章 小笠原ビジターセンター
ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。
そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆
頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。
そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。
http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/sizen/kouen/sisetsu/ogasawara/ogasawaravc.htm
☆『小笠原ビジターセンター 』☆
この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。
『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。
そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。
このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。
そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。
《つづく》
ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。
そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆
頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。
そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。
http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/sizen/kouen/sisetsu/ogasawara/ogasawaravc.htm
☆『小笠原ビジターセンター 』☆
この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。
『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。
そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。
このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。
そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。
《つづく》
