goo blog サービス終了のお知らせ 

夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。 ④【2010.2.24.~3.7.】

2010-03-08 17:08:46 | 
        第4章  小笠原ビジターセンター

ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。

そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆

頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。

そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。

http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/sizen/kouen/sisetsu/ogasawara/ogasawaravc.htm
☆『小笠原ビジターセンター 』☆

この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。

『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。

そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。

このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。

そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。


                                 《つづく》



にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。 ③【2010.2.24.~3.7.】

2010-03-08 14:49:33 | 
        第3章  扇浦海岸の周辺を散策すれば

ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。

私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。

この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。

まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。

歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。


この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。

ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。


私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。

もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。

そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。


                               《つづく》


にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。 ②【2010.2.24.~3.7.】

2010-03-08 12:28:57 | 
        第2章  海辺のリゾートホテル『ホライズン』

私達は昼食を終えた後、一階のケーキ、パン、お弁当、お土産の売り場の店先の木のベンチにいると、
ホテルの方の送迎車が数分後に来て下さり、私達は乗り込んだ。

『父島』の玄関口である二見港の船客待合所の前にある大通りを過ぎ、そして街並みを過ぎると、
ゆるやか丘陵、トンネルをふたつばかり通り過ぎた後、忽然と広く広がる静寂な浜辺のある海岸が観え、
ホテルに着きました、と送迎車のホテルの方から告げられ、
私達は小さなホテルの美景に見惚れた。

チエックイン後、私達は三階の部屋に通され、私は椅子に座りながら、ホテルの案内書を開いたりしていた。
そしてホテルの概要を読んだ時、私は思わず微笑んだのである・・。


小笠原諸島は、東京から南へ950~1300Kmの太平洋上に点在する30余りの島から成り立っています。
人が住んでいるのは、父島と母島だけで、中心となっている父島の緯度は沖縄やフロリダとほぼ同じで、
年平均23度という暖かさです。

世界でも有数の美しい海が広がり、熱帯植物が茂る常夏の島で、”最後の楽園”といわれています。

当ホテルは、父島二見湾のほぼ中央の扇浦に位置し、海岸を目の前にして、シーサイド・ホテル。

小笠原に初めての本格的なホテルとして、1993年2月11日にオープン。
部屋数は14部屋、すべてがツイン仕立てで、
広々としたロビーに、海が見えるレストラン。

小さな島の小さなホテル


このように明記されて折、特に私は最後にある《小さな島の小さなホテル》に魅せられたのである。

部屋の前にあるベランダからは、扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。

私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と云ったりしていた。

http://www.mmjp.or.jp/hotel-horizon/
☆『ホテル ホライズン』ホームページ ☆

この後、私達は扇浦の浜辺を歩いたり、付近の周辺を散策したりした。

尚、このホテルの部屋に備えられている浴室は、一新されて折、
洗い場のある優美なバスになっている。


                               《つづく》



にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。 ①【2010.2.24.~3.7.】

2010-03-08 09:02:57 | 
        序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は国内旅行が共通趣味であるが、未知の小笠原諸島の『父島』に訪ねることは、
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったことが起因であった。

色々と調べた結果、海外には苦手な私達は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知り、
旅行会社の『ナショナルランド』に船の予約と宿泊先の確保を依頼した。

http://www.n-l.co.jp/
☆ ナショナルランド ☆

宿泊先の選定は静寂で景観の良いところは確保できたのであるが、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、
結果として『特一等客室』が確約ができたのは、旅立つ前の二週間前であった。

このようなかたちで、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。


        第1章  都心から1000キロ南下する『おがさわら丸』

私達夫婦は『おがさわら丸』に乗船する為に東京港の竹芝桟橋に到着したのは、
出航時10時の2時間半前であった。
私達は竹芝客船ターミナル内の食事処でコーヒーを飲みながら、
一番長い旅行となったので、大きな旅行バックをふたつに微苦笑をしたりした。

この時節の東京の郊外より10度ばかり高い遥かなる南下の『父島』であり、
衣服に戸惑いながら、準備してきたのである。
東京の郊外の5月中旬の頃を想定してきたが、
『ホエール・ウォッチング』の観光船の時は風を受けて寒いと聞いたりしていたので、
私達の旅行で初めて旅行バックがふたつとなったのである。

『おがさわら丸』出航時の30分前に指定された船室に旅行バックを置いた後、
ツインベットを中核とした洋風の中で畳一畳ばかりが和室風となり、小机が配置されいた。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/shokai/index.html
☆『おがさわら丸』 船内 ☆

定刻の午前10時に出航した『おがさわら丸』は明日の午前11時半『父島』の二見港に着岸するまで、
都心から南下する1000キロばかりの25時間半の船旅が始まった。

私達は船室の大きな窓から、彼方の伊豆七島の『大島』を右舷で観ようとしたが、遥か彼方で展望できず、
私は畳一畳ばかり和室風の小机に純米酒とおつまみを置き、
座布団の上で胡坐(あぐら)をかいて、呑み始めた。

その後、ときおりベットでまどろんだり、或いは喫煙室に行き、煙草を喫いながら窓辺から海上を眺めたりた。

深夜、家内から星が綺麗、と云われ、
家内のベットのまじかな窓辺から、私は散りばめられ数多くの星の輝きを見惚(みと)れたのである。

朝の7時過ぎにレストランでサバを焼いたのを主食として私は大盛りのご飯を頂いた後、
サンデッキで風に吹かれながら海上を眺めたりした。
その後、イルカと海鳥の多いと称せられている聟島(ケータ・ジマ)が、まもなく左舷に観えます、と船内放送が聴こえ、
私はぼんやりと小笠原の最北部の聟島列島に『おがさわら丸』が近づいてきたことを知り、
ほっとしながらも海上の聟島列島の景観をゆったりと眺めたりした。


定刻どおり11時半に『父島』の玄関口である二見港に接岸し、私達は下船後、
燦燦と照りつける陽射しの中、船客待合所の前で宿泊先のホテルの明記された手持ち看板に行き、
ホテルの方に旅行バックをお願いした後、
近くの食事処の『ホライズン・ドリーム』の前で12時45分にホテルの方が送迎して下さる、ということになった。

私達は『ホライズン・ドリーム』の2階にあるイタリアンの創作料理店に入り、昼食とした。
私は島魚のカルパッチョ風の料理を頂きながら、ビールを二杯ばかり呑みながら、
南国の二見港の情景を眺めたり、停泊している『おがさわら丸』を眺めたりし、
やっと念願の父島についたねぇ、と私は家内に微笑みながら話したりした。


                               《つづく》




にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする