最終章 『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に
7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。
私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。
家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。
私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。
定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。
このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。
冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。
そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。
私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。
《終り》
7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。
私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。
家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。
私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。
定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。
このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。
冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。
そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。
私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。
《終り》
