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 戦争を憎み 平和を希求する心 人一倍

2013-04-18 12:07:07 | 月刊『平和がいちばん』
 「平和がいちばん」4月号2面「わわわのわ」は、長尾在住の西谷美代子さんに登場いただいた。憲法を変える動きが加速している。しかし、現在の憲法は、第2次世界大戦やそれに到るまでの中国大陸への日本の侵略への反省が根底にあること忘れてはいけない。 以下、「わわわのわ」から転載

  中国大陸での強烈な戦争体験.....戦後の辛酸をなめた経験

西谷美代子さんは1936年、現在の中華人民共和国の天津市の租界(注)内で誕生した。天津市は1937年から45年まで日本軍により占領・統治され、租界には神社・病院・仏閣があり、日本人街がつくられていた。中国大陸にはまず軍隊が侵攻し、中国の安い労働力を求めて企業が続き、そして家族を呼ぶという、まさに列強国が大陸の土地の陣取りをしていた。そして、第二次世界大戦へ突き進んだのだが・・・

 西谷さんは、地平線の見える郊外の社宅から租界の中の小学校に軍隊のトラックで通ったという。近くの飛行場では大戦末期には特攻機となったゼロ戦も見かけた。家には兵隊がよく訪ねてきて、母親が世話をしていたのを覚えている。父親は味の素本舗(株)鈴木商店で働いていた。父親は京都出身、生まれつき体が弱く中国は空気が良いだろうと天津にきたが、敗戦の1年半前に現地徴集され中国の奥地へ。再会は敗戦2年後、結核を患いボロボロになって京都に帰ってきた時だった

 租界での衝撃的な場面を西谷さんは覚えている。日本軍兵士が中国人の物売りに対し、殴る蹴るの暴行をしていたのだ。そして日本人の一般市民も中国人に横暴だったと聞いていた。日本人家族も年1回、家族全員が軍部(憲兵)に出頭させられていた。
 
 敗戦後、人々の帰国がはじまった。家事を手伝っていた李さんの案内で屋根の無いぎゅうぎゅう詰めの貨車にのせられ、天津市東部の大沽港に到着した。その後2か月間、港でテント生活をしながら船の順番を待った。多くの死体がころがっていた。母親と9歳違いの妹とおじ(帰国後すぐに死亡)の4人で、兵隊と一緒に米艦船に乗り佐世保に到着した。すでに敗戦後2年経っていた。西谷さんは、帰国船から日本の島が見えた時に男達が号泣していた姿が忘れられないと振り返る。

 帰国後、すぐに父の友人の世話で間借り生活が始まり、母親は孤児院(養護施設)の寮母になった。自分も子ども達の世話を手伝った。父親は、帰国後すぐに博愛会病院の隔離病棟にはいったが、月1回母親に連れられ面会に行く時の寒さを覚えている。辛い時だった。父親は、母親に対し「戦争のことは聞くな。敵よりも日本軍が怖かった」と語っていた。父親は朗らかな人だったが、戦争が物言わぬ人に変えていた。京都での母の辛い生活を見てきた。「戦争さえなければ」との思いが常にあった。

「私にふるさとはない」と西谷さんは語る。しかし枚方で子育てをした後、夫の病気療養のため長女の住む小田原で8年間暮らしたが、「枚方は子どもを夫婦で育てた場所。そして、友人がいる」と6年前に枚方に戻ってきた。
 「個人が大切にされないのは平和とはいえない。キャリアや肩書きを背負って生きていかなくて良い」との思いで、今は『一人暮らしの会』に入り、日帰旅行や月1回の食事会を大切にしている。最近友人の一人が亡くなった。彼女は治療のための管を一杯つけながらも「こんなことしていたら進歩があれへん」と自分の次の一歩を最期まで求め続けていた。その友人の生き様を心に深く刻み、日々と人との触れ合いを慈しみながら生きている。
         (取材・文 おおた幸世)
(注)租界:清国(現中国)にあった自治権や治外法権をもつ外国人居留地。アヘン戦争後の不平等条約により中国大陸各地に設けられた。